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私の戦争体験記・・学徒挺身隊での体験、そして終戦。 爺老 77歳

2006年10月29日 00時22分22秒 | Weblog
母の実家も空襲で燃えてしまい、私たちは海部郡の戸田にある親戚の家で間借りをしていて、私はそこから勤労動員に通っていました。
 幸いその親戚は酒造業でしたので、いつも腹ペコの中学生には助かりました。その頃はひどい食糧難で食べ物が手に入りにくかったのです。
 ある日、日本陸軍の印をつけた大きなトラックが来たのです。見るとお米が満載されているではありませんか。降ろすのを手伝おうと近寄ったら 「近寄るな!」と叱られました。お酒を作らせて軍に納めさせる為の物だったのです。
 私たちの楽しみは、酒を搾った酒かすから「直し」を搾った後の粕を頂き、乾燥させて「だんご」や「せんべい」にして食べる事でした。 甘みに飢えていた頃で、甘くてとても美味しかったです。
 私は戸田から毎日工場に通っていました。
 さて、そんなある日、僕たち学徒挺身隊に新しい命令が下りました。
 名古屋駅に集合し、行き先は告げられず汽車に乗せられ、着いた所が豊橋でした。そこからまた田原線で田原まで行き、そこからは歩いて渥美半島の先端までつれて行かれました。
 その晩から、何軒もの農家に分散して寝起きしました。その夜は支給された毛布に蚤が一杯で寝られませんでした。翌朝は早くから蚤取り大作戦でした。
 我々を待っていたのは、渥美半島先端の陣地構築の手伝いでした。
 半島の先端の山の陣地作りで出る土を運び出して、敵に見つからないように草を被せる仕事でした。モッコという土運びの道具を使うのです。大人だったら前後に一つづつぶらさげて運ぶのですが、何しろ腹ぺこの中学生には二人で一つがやっとでした。
 作業していて怖いのは、敵機です。もうその頃はアメリカのグラマン戦闘機が昼夜を問わず飛来していました。
 グラマンは、音を隠すためエンジンを切って海側からフアーッと山の上まで上がって、再びエンジンをかけて機銃掃射するのです。
 動く物は何でも撃ちました。遊びに出たチョコチョコ歩きの子供が撃たれたと聞きました。
 また、夜艦砲射撃の音もよく耳にしました。
 ある日、南の海をみていたら、ずーと沖に帆柱の様なものを沢山見かけました。それが とても速く近づいて来ます。 凄く速い船だな、と見ていたら、どんどん上昇を始めるではありませんか。
 そして水平翼も見え、大きな爆撃機の大群だと気付きました。
 半島の先端では一万メートルの高さです。それは、四・五十機の大編隊でした。
 それが右側に旋回し、東の方で黒煙が上がり始めました。
 豊川には、海軍工廠がありました。そこが大爆撃を受けていたのでした。
 そこには、私たちと同様に多くの男女学徒が働いていたのです。

 山の陣地作りの作業で、掘り進むための鳥居型の木材の運搬を命ぜられました。
 重い丸太を大八車に積んで坂道を登りかけた時、グラマン戦闘機に見つけられ繰り返し攻撃されました。その時 銃弾の破片で足にかすり傷を受けました。幸いかすり傷で済みましたか゛後でリンパ腺が腫れて難儀をしました。

 その頃、広島に新型爆弾が落ちたと聞きました。
 寝泊りしていた農家の人たちも、「どうなるんでしょう?」ととても心配していました。私も「もう皆死んでしまうでしょうね」と言いました。
 その頃私は、本気で近いうちに死んでしまうのだと思っていました。それはその頃、若者や中学生の間でよく読まれていた「葉がくれ」という本があり、その中の「武士道は死ぬことと見たり」という言葉が心に焼き付いていからでした。

 数日後、「食糧倉庫がやられて食料が無いから」という理由で、私たちは帰されました。リンパ腺で腫れた足を引きずって、やっと戸田へ帰りつきました。
 足を引きずり、髪はぼうぼう、別れに農家からもらつた「わかめ」と「西瓜」を肩の前後に背負いまるで敗残兵の姿でした。途中田原の近くで休んでいたら、近所の農家のお婆さんが、冷たい梅酒の水割りを飲ませてくれました。
 帰宅後、2日間、何も食べず眠り込んでしまいました。
 目覚めたら、電灯が蔽いなしで明るくしてあったので、吃驚しました。
 母から「戦争が終わったよ。」と言われ、やっと納得しました。
コメント (5)
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