「アジアへの戦争被害に過剰に反応する若者」
『日本という国』(理論社)は、非常に面白かったです。明治以降、近代日本がどのように形作られていって、そしていま私たちがどういう位置に立っているのか、分かりやすく俯瞰できる本になっています。小熊さんが書かれるものは分厚いものばかりですが、これは初めて中学生ぐらいでも読めるように書かれたものですね。
小熊 僕が書いたものの中では『日本という国』は薄くて読みやすいから、いままでの読者以外の人も多く読んだようです。
ただ、たまにアマゾンの書評とかを見ると、面白いなと思ったことが一つあります。あの本では明治時代のことや戦後のこともたくさん書いてあるのだけれども、批判的なコメントを書く人たちは、第二次世界大戦のことにしか興味がないということです。というのは、太平洋戦争でアジアにどのぐらい被害を与えたかというのは、全体の記述の十分の一も占めていないのだけれども、そこにしか反応しない。
編集部 それはなぜでしょうか。
小熊 たぶんそこにしか知識も関心もないからだと思います。明治の歴史がどうなっているのか、日米安保をアメリカとの関係がどのような関係であるか、米軍の国際展開がどうなっているか、米軍基地の思いやり予算がどうなっているかなど、たぶん彼らには知識がないし、関心もないと思います。
基本的に彼らにとって関心があるのは、「あの戦争において日本は悪くなかった」「アジアの人が文句をつけてくるのはいいがかりだ」「誇りの持てる国として日本を描きたい」、そのことだけ。そこが僕は面白かったですね。
編集部 なるほど。そこにしか関心を持たない知性のあり方だと。
小熊 僕は基本的に戦略的なものの書き方しかしません。あの本は意識的に「中道右派」ぐらいの読者に向けて書いた本です。たとえば南京虐殺や従軍慰安婦問題にはほとんど触れていないし、アジアに与えた被害も書いたけれど、むしろ日本側にも多くの戦死者が出たことを強調して書きました。靖国参拝問題の書き方も、“天皇陛下は国民が戦争でうけた被害を思って、A級戦犯が合祀されている靖国の参拝をやめたのですよ……”というような、中道右派でも受け入れられるような書き方しかしていないわけです。
私は腹の底では、昭和天皇が一貫した平和主義者だったとは思っていないけれども、わざと中道右派の人でも「なるほど、ちょっと考えないとな」と思うように、あの本を書きました。ですから極左とは言わないまでも、左派の人から見れば非常に微温的であり、文句をつけられそうな本だと思っていました。
でもネット右翼の人は、そういうことはどうでもいいみたいです。とにかく日本がアジアに被害を与えたという記述があると、もう許せないらしいし、そこにしか目が行かない。アジアに与えた被害といっても、私の本では、基本的には日本政府の検定を通過した教科書に出ている数字を並べただけなのにね。
「九条を変えたら、お金がかかってしょうがない。」
小熊さんの9条に対するスタンスを伺っていきます。著書の中で9条に対して直接言及している箇所は少ないのですが、村上龍さんとの対談では「憲法9条をやめても景気がよくなるわけでも、いじめが減るわけでもない」(『対話の回路』新曜社)などとおっしゃっていますね。
小熊 僕は別に9条は世界の理想だから世界中に広めようとか、そういうことは考えていません。はっきり言って、そんなことが実現するとは思えませんから。
編集部 でも、こういうこともおっしゃっていますね。島田雅彦さんとの対談では、「たとえば、平和国家の極限の形態として、こういうのはどうでしょう。いまからでも遅くないから、憲法の理念を遵守することを宣言して、自衛隊の武装を全廃し、国際救助隊として改組する。そして、非武装の災害救助や難民救援のために、日本国内のみならず、国際的に活動する。……」(同書)。
小熊 あれは本気でうけとった読者には悪いことをしたかもしれないけれど、一種のSFとして、こういう構想もおもしろいだろうと言ったのです。やるだけの度胸が日本政府にあれば世界を驚かすに違いないけれど、日本政府がやるとは到底思えないですから。それ以前にアメリカが許すはずもないし。私は政治についてはリアリストですから。
編集部 自衛隊の規模を大幅に縮小して、国内外の災害救助隊に特化するというアイデア自体は、今までも護憲派の間から出てきました。小熊さんは、リアリティがないと考えますか?
小熊 それをやるのだったら、相当覚悟が必要でしょうね。自衛隊を強化して米軍の補助軍として遣いたいというのは、1950年前後いらいアメリカの一貫した方針ですから、まず日米関係の縁を切る、ないし再構築する覚悟がないとできない。それで日本の外交及び経済関係が成り立つのかと考えると、かなり困難が伴なうでしょう。
編集部 9条2項の「戦力放棄」の条文と、現実に軍隊があるというズレについては、小熊さんはどうすべきだと考えますか。
小熊 僕はそういう抽象的な話は、政治の領域では興味がありません。内閣法制局がズレがないと言っているのだからズレはないんじゃないですか、と答えておくのが一番無難でしょう。もちろん、9条の条文と現実にズレがあるという意見も分かりますよ。でもそんなことを言ったら、憲法のどの条項が条文のまま実現していますか。
たとえば15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と書かれていますが、実現していますか? 99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書かれていますが、実現していますか? ズレている条項は山ほどある。現実とズレているから変えろというのは根拠薄弱です。たとえば15条を現実に合わせて、「すべて公務員は、できれば全体の奉仕者になるよう努力しましょう」などと変えたいという人はいないでしょう。
編集部 9条を現実に合わせて改憲するという意見にも反対だと。
小熊 私の9条に対する考え方は、極めてプラグマティックなものです。いま9条を変えて何が起こるかと言ったら、自衛隊がアメリカの指令通りに方々の戦場に駆り出されるだけです。たとえ戦死者が出なくとも、そのたびにお金がかかって仕方ないですよ。日本財政がパンクします。日本にとって得なことは何もない。
自衛隊を「自衛軍」と明記したら日本の誇りが取り戻せて、日本の思う通りに軍隊を動かせると考える人がいたら、国際関係に無知だということを自分で白状しているようなものだと思います。
編集部 そういったアメリカの要望に対する一つの歯止めとして、9条の存在が機能している側面はありますよね。
小熊 9条を歯止めとして、残しておくことは必要でしょう。また自衛隊に関して言うならば、どう考えてもいまの規模は必要ない。たとえば陸上自衛隊は、ソ連がなくなった今では半分以下に減らして問題ないことは間違いありません。先進各国は、冷戦終結後にのきなみ三割から五割の兵力削減をしているのに、日本の自衛隊はほとんど減っていない。公務員を減らそうと郵便局までつぶしたのに、国家公務員の四割が自衛隊員なんて異常ですよ。米軍基地もあんなにたくさんいらない。中継基地として空軍基地と港があれば、沖縄の陸上演習場などいらないというのは、軍事専門家のほぼ一致した意見です。
「何から自衛するのかという前提を考えよう。」
小熊さんは、「自衛のための最低限度の武力」は必要だと思いますか。
小熊 それには、まず「何から自衛するのか」を考えないと、空論になると思いますね。冷戦期はさておき、いま日本をどこの国が襲うのでしょうか? 百歩譲って、仮にいま北朝鮮の軍隊が攻めて来て、島根県に5万人くらい上陸するとして、それだけの数の兵隊を乗せる船や、彼らに弾薬や食料を補給し続けるだけの船が北朝鮮にあると思いますか?
北朝鮮に関しては、米軍にしても自衛隊の幹部にしても、本気で脅威だなんて思っていませんよ。ただ、それを公式に発言してしまうと、自衛隊の存在意義も日米安保を結んでいる意味もないことが分かってしまうので、言わないだけだと思います。
編集部 中国についても、脅威だと思ってはいないのでしょうか。
小熊 たぶん思っていないと思います。中国は兵士の頭数だけはたくさんいますが、持っている兵器は旧式のものがほとんど。海上自衛隊幹部の匿名座談会を読んだことがあるけれども、北朝鮮や中国の海軍が攻めてきても、日本のイージス艦が3隻もあれば、向こうの射程外から全滅させることができると言っていました。まして米軍と韓国軍が加わったら、問題にならない。
編集部 特に北朝鮮に関しては、拉致問題以降、今回のミサイル発射といい、世論が右傾化する要因になっている部分がありますね。
小熊 あまり僕は“右傾化”とは受け止めていませんけどね。「過去に日本がアジアに対して被害を与えた」という言論を否定したい人たちが、日本が被害者で朝鮮が加害者だといえる絶好の口実を見つけ出して、喜んで話のネタにしているだけではないですか。
それに本気で北朝鮮を脅威だと思っていたら、北朝鮮を刺激するような世論や番組などはびこらないと思います。冷戦時代には数百基以上のソ連の核ミサイルが日本に向けられていたと思いますが、誰も騒がなかったし、ソ連をネタにテレビのお笑い番組が盛りあがるなんてこともなかった。本気で脅威だと思っていれば、そういうものです。北朝鮮なんてたいしたことない、と本当はなめているから、ネタにして遊べるんですよ。 ( つづく )
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あくまでリアルポリティクスの立場から、9条を改憲することに反対し、陸上自衛隊の大幅削減も提案する小熊さん。
次回の後編でも、引き続き日本の情勢を分析しながら、「現実主義」という言葉が本来持つ意外な意味を紹介してくれます。