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「たった一度の人生だから」  文科系

2007年06月12日 18時35分17秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
まず、5月2日の投稿をアレインジして所属同人誌の「毎月版」に載せたものをお読みいただく。

「 一度しかない人生なのに
 
 毎日新聞の四月三十日投書欄のある記事が僕の目を引いて、しばらく離さなかった。団塊世代以上の日本人男性特有のなかなか立派な主張とは感じたのだが、それだけにある違和感を拭えなかったのである。
 表題は「仕事一筋! それでいい」。五十九歳の男性の文章で、書き出しはこうだ。
 「団塊世代が大量退職する『二〇〇七年問題』がかまびすしい。『第二の人生』をどうするの? とばかり、趣味、ボランティア、地域社会デビューなど騒々しい限り」(中略)
 「もっとも、仕事中心に生きてきた自分にとって、遊びとか楽しみには罪悪感を伴う。そんな損な世代なのだ。だから定年が近づいても、その後の人生設計など考えられない。それより何より、持てる力を存分に発揮できる部署で体が続く限り働きたい」
 そして、この結びが肝心な所だ。
 「仕事一筋! それでいいじゃないか。自分らしさが発揮でき、社会にも貢献でき、それで家族をも養えたのだから何の不足があろうか。私はそういう人生で満足だ」
 さて、この文章、なかなか立派な覚悟と思うし、この方が予測しているように趣味や楽しみはどうしたなどと、ありきたりの批判をするつもりもない。ただ、死ぬべき僕のたった一度の人生というものに向かい合ってきた模索から、僕は違うと言いたいだけだ。
 仕事、それによる自己実現、家族、社会貢献、ここまでは誠実な日本人にも見えたりしてよい。問題は次だ。これ以外の人間活動を「趣味、ボランティア、地域社会デビューなど」と語り、「遊びとか楽しみ」と一括してみせたうえで、これに「罪悪感」までを付与してみせる。これは日本男性のある種の「思想」だろうが、僕はここに抵抗がある。
 そもそも「命、生活」と「人間社会」以外は「遊び」なのか?ゴッホやシューベルトや芥川は美に命をかけ、ソクラテス、ガリレオ、吉田松陰、渡辺崋山らは真理に命をかけたが、これらは遊びのプロだから尊いだけだとでも言うのだろうか?それにしたって、命と社会以外には罪悪感までを与えてみせるこの感覚!
 角度を変えてみよう。最近の世論調査結果なのだが、若者が大臣や博士になりたくないという。「先進」世界でも最も「出世」は望まぬ民族になったと新聞にあった。そうだろうと思う。仕事と「社会性」だけの人生にエネルギーが出るか? こうして、団塊世代までの日本人がニートを作ったという面はなかったろうかと、僕は言いたい。 
家や部屋をちょっと飾ったり、楽器に没頭したり、花を育ててみたり、美味しい物・ワインなどをちゃんと選べたり、その分かったことを楽しくお喋りしあったり、何か真剣な人生探求、討論には敬意を払う。これらは、ゴッホやシューベルトや芥川やガリレオや松陰が命と交換したものと同質の、人生の素晴らしさを目指すことができる資質と考えたい。ある種の日本男児は確かに大損をしている。」


さて、この内容関連で今度は6月3日に「ランニング入門の進め」という投稿を出した。すると「メタボリ」さんと称する人からこんな内容のコメントがあったのである。
「1日10キロ走るなんて、なんと意志が強いことか!」と。
違うのだ。意志の問題ではない。「感覚」の問題である。ランニングも、楽器も、花も、ワインも、そして真理も。戦後の貧しさとドサクサとの中でそういう感覚を不幸にして育てられなかった人、弱い人には、文化の実践というものを説明のしようがないのである。そして、そういう人たちが語る政治改革は全く魅力がないものだと、僕は言いたいのだ。
かのカール・マルクスも語ったではないか。「バイオリニスト、パガニーニの指も人類の労働の産物である」と。人間の労働と社会性を、その産物である文化の領域にまで敷衍させて語る雰囲気が常になければ、そんな狭い社会改革論は廃れていく他はないのである。これを語れないならば、少なくとも「それには僕は弱い」という自覚だけでも欲しい。そうであるならば、「人類文化の総合的継承者」などと自負せずに、もう少し謙虚であっても良いのではないか。
コメント (5)
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