九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

保守系さんの投稿より   落石

2008年06月03日 16時54分56秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
そういえば琉球新聞でしたか、読者の投稿欄に、
沖縄を香港のような一国二制度にしたらどうか
というがありました。

これって、興味があります。
どんな論旨だったのでしょうね?


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軍隊を持たない国 3 へそ曲がり

2008年06月03日 12時00分00秒 | 国内政治・経済・社会問題
★軍隊を持たない国 3★

④ セントビンセント・グレナディンズ・・・「持続可能な開発」政策。

 セントビンセント・グレナディンズ現代史の象徴となったのは、カリブ諸国の中でも最長の16年に及んだ政権を担ったジェームズ・ミッチェル元首相である。
 ミッチェルは、1975年に新民主党を創建し、4回の総選挙で政権を獲得し、セントビンセントの議会制民主主義の確立に寄与した。
 もともと農学専攻で「持続可能な開発」のための基礎となる戦略と政策を展開した。EU(欧州連合)や米国へのバナナの輸出交渉の先頭に立ち続けた。
 ミッチェルの指導力によって、セントビンセントは独立を確保し、国際社会に参入できたとみなされている。
 ミッチェル元首相の講演録『光の季節』(2001年)はセントビンセントの発展に関するメッセージとして広く読まれた。ミッチェルの時代は、政治的に安定し、経済開発も軌道に乗り始め、カリブ共同体においても主導力を発揮した時代であり、まさに「光の季節」であった。
 しかし、ミッチェルは過去を「光の季節」と描いているのではなく、未来に向けていかに「光の季節」を実現するかに焦点を当てている。20世紀が終わり新しい世紀が始まったことは、カリブ諸国にも新しい挑戦をもたらしているとみる。
 ラテンアメリカ各地の貧困の増大を無視するわけではなく、現実には暗黒の季節が覆っているからこそ、ミッチェルは若者たちに向けて「希望は創りだされねばならない。楽観主義こそが収穫されねばならない」と政治的遺言を残している。
 独立21周年記念式典を引退の場に選んだミッチェルは、2,000年10月の演説で、人民の信頼、正しい判断、統合、目的への献身、希望を語り、人間的自由をそのもっとも純粋な形で実現するよう呼びかけている。 

⑤ セントクリストファー・ネビス・・・島分離問題で防衛隊復活

 セントクリストファー・ネビスは、セントクリストファー島とネビス島から成る。セントキッツ・ネビスとも呼ばれる。憲法にも両者が明記されている。セントクリストファー出身者をキティシャン、ネビス出身者をネビジャンという。
 1998年8月、ネビス島分離問題をめぐる住民投票が行われた。ネビス島では、長年にわたって分離独立して主権国家になりたいとの主張が見られた。分離論者は自己決定権を主張した。60年代にすでに自己決定権確認要求が表明されていた。キティシャンによる支配と搾取に対する反発である。
 分離反対論者は、固有の産業を持たない極小国家は経済的に維持し得ないと主張した。98年8月、住民投票の結果、分離賛成は61.7%であり、3分の2に届かなかった。連邦が維持されたが、分離論者は今後も住民投票を求めていくという。
 独立前には防衛隊を保有していたが、81年に解体され、独立時にも軍隊を創設しなかった。ところが97年に防衛隊設置法が制定され、防衛隊が「復活」した。
 防衛隊は70年代においても、97年以後においても、、ネビス島分離問題と密接に関わっている。
 防衛隊は、67年国内治安維持目的で創設されたが、アンギラ島やネビス島分離問題への対策であった。アンギラ分離問題では67年5月に暴動が起きたので、警察を援助するため防衛隊が組織された。
 アンギラ分離後は必要性がなくなったため
 防衛隊は解体された。ところが、90年代後半にネビス島分離問題が浮上すると、政権は治安維持のため防衛隊を復活させた。

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オマーン戦、俊輔の大事な言葉  文科系

2008年06月03日 10時42分18秒 | スポーツ
オマーン戦は、実に見事なゲームだった。何しろ、日本が球際に厳しかったから、相手に何もさせなかったというゲーム。こんな全日本は久しぶりだ。まるで、Jリーグでボール奪取数1位を占めるグランパスみたいなゲーム!

グランパスと言えば昨日の玉田、見ている奴は見ているもので、俊輔がこんなことを反省していた。
「きょうタマ(玉田)は、オレがトラップした瞬間に動き出していた。でも、オレが遅くて生かせなかった」(スポニチのサイトから)

僕は俊輔のこの言葉を、彼の昨日の実績よりも高く買いたいね。
玉田の速い動きに俊輔が合わせられるなら、もっと軽く点が取れるということなのだから。そして俊輔は、この間の練習でこんなことも言っていた。
「玉田の動き出しなどは凄く速いんだから、前線にいてその動きを続けてよ。おれが合わせる」

言い換えればこういうこと。グランパスは今、この玉田の動き出しに他が合わせられていると。ヨンセン、小川、マギヌンらが。グラは、強いはずだね。

以下は、この玉田の速さの証明のつもりだ。
今僕が書いているグランパス連載の5月29日、第8回目に「コートジボアール戦の綺麗な得点」が、それである。連載9回目にも、この点の意味について触れているつもりだ。
「こーいう選手が日本にいるか!」、俊輔は驚いたんだよ! 玉田とそのチーム・グランパスは、「俊輔の体験の外の速さ」ということだ。ひょっとしたら、バルセロナかマンチェスターユナイテッド張りの速さ!
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大連・38度線・沖縄(保守系)

2008年06月03日 02時06分49秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
私は、4月に大連(ロシア語で遥かという意味)と韓国に行きました。
大連は、旅順港のある所です。市内には、大きなビル群が沢山建っていました。
しかし、その街角で、鼻を片手で押さえて、鼻汁を捨てる人をみました。
また、三輪車のよう車も見ました。また203高地へ向う家々は全てレンガ作りで、周囲はゴミが捨て放題でした。203高地は結構高い山でここへ乃木将軍の軍隊が、ロシアの機関銃の餌食になりながら登っていったのかと驚いたものです。
その203高地から見下ろす旅順港は、確かに、ここへ砲台を上げて撃つには絶好の場所でした。次の目的地は、ソウルでした。ソウルには、さすが大連のような三輪車のような車はありませんでした。なお仁川空港に着陸する時に、その干上がった海を眺めました。ここからマッカーサーが上陸したのかと、ここは干潟のような場所で、成る程ここからマッカサーサーが上陸してくるとは、北朝鮮軍(ソ連の戦車を持った)は、思わなかったと納得しました。そして休戦ラインの38度線に行きました。北朝鮮の山々は頂上の木々が伐採されていました。ソウルまでの帰途、高速道路を戦車が6台程、38度線に向って疾走していました。日本の高速道路を戦車が走るのを見た事がありません。なお昭和50年の朝鮮戦争は、韓国では動乱というそうです。
この朝鮮戦争のお陰?でマッカサーがこの韓半島の日本の安全保障の意味を理解し、この戦争のせい?で現在の自衛隊の発足が決まるのです。
マッカサーの勉強の無さに驚きます。
さて沖縄ですが、沖縄県平和祈念館に行きました。そこ展示物の中で、日本兵が壕の入り口で住民の銃剣で威嚇しているのです。しかもその顔は鬼のようなものでした。
その祈念館は税金で建てられたものです。しかもその祈念館の前庭には、愛知県・静岡県など全国からの軍人などの墓碑銘が並んでいる所です。
その祈念館には、大勢の修学旅行生も来ており、書いてあるものを写していたので、私から、「全部本当だ思ってはいけないよ」と言ってしましました。
さらに酷いのボランティアガイドの女性でした。浜辺の濠へ案内した折に、濠から日本軍が住民を追い出したというので、その女性に追い出したのではなく、その濠に住民がいると米軍の砲撃に合うからではないのですかと言ったら、黙っていました。更に、朝鮮人は強制連行され、姓まで改名させられたとガイドをするので、「違いますと、日本と当事の韓国は、ほぼ同じ国だったので、強制連行はされていないし、改名は、満州で差別されていた朝鮮人の人達からの要請によってされたものですよ。洪という陸軍中将も居たし暗殺された朴大統領も日本の士官学校を出て、名前は改姓していませんよ」と訂正しておきましたが、彼女は黙っていました。例の3月に、渡嘉敷島と座間味島の大阪地裁のアホな判決がでましたが、沖縄では、沖縄の人と軍隊は共に戦ったのです。
それに戦艦大和も特攻隊も出撃して行ったのです。
そういえば琉球新聞でしたか、読者の投稿欄に、沖縄を香港のような一国二制度にしたらどうかというがありました。
沖縄の歴史的な意味は、多少は知っていますが、あの県には、大きな河もありませんし、自立は難しいのです。沖縄左翼も健在ですが・・。困ったものです。
コメント (13)
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ここまでのグランパス(12)選手の見所 ③小川佳純 文科系

2008年06月03日 00時47分33秒 | スポーツ
入団たった2年目で「グランパス最大の攻撃起点」になってしまった彼、ヨシズミ。掛け値なく天才である。もっと言うなら、いわゆる美辞麗句ではなく「ストイコビッチの再来」と述べて良いと、僕は思う。以下は、その訳を述べていると理解していただきたい。

市立船橋高校を、全国高校選手権大会決勝において自らの30メートル・シュートで優勝に導いている。その後明治大学を経て、昨年入団、終盤から活躍、今年度にレギュラーという右MFである。

先ずクロス数がJリーグ9位。得点もチーム3位の3点と多いが、アシスト(得点に至った最終パスのこと)5点はJリーグのトップである。これだけを見ても、正確なパスを武器にして何でもできる選手と分かるが、他にも、スペース走り込み、ボールキープ、ドリブル突破とできないことがないというまさに万能選手。それも2年目新人なのである。

そしてこういう万能性を生かして今や、グランパス点取りの最高戦術「右サイドからの崩し」の中心に座ってしまった。他のチームが分かっていて対策を練っても、今までのところ何ともならないという極めてやっかいな選手に育っている。
母校の明治大学がそんなに強い所とは言えなかったのだから、これらのJリーグ屈指の万能能力をわずか1年で身に付けたことになる。高校サッカーの強豪「市船」の「顔」だったのだから才能は申し分ないはずだが、その上によほど頭の良い青年なのだろう。そこで、彼の頭の良さを示すと思われる言葉を、拾い上げてみることにする。

「ゴールに向かうプレーを意識していて、自分が縦ばかりに抜けるとSB(サイドバック、竹内、バヤリッツァが務める)の上がるスペースがなくなるので、常にSBの存在を意識しています。SBからパスが出て(そのサイドバックが)オーバーラップ(小川を抜いて駆け上がること)すると相手は守りやすいですが、サイドチェンジで僕にボールが入った時はどんどん裏に回ってくれと言っているんです。SBが上がることで、僕のボールをもてる時間が長くなることもあって、プレーしやすくなっているのは確かですね。」
「僕たちは2トップにくさびを入れて、その後にサイドに展開するサッカーをしていますが、(3連敗したときは)そのくさびのパスコースをボランチの人数が多いチームに消されていた。素早くサイドチェンジをできればいいんですが、相手のプレッシャーも早いですからね。これから相手の分析もさらに進むなかで、試合中に相手の動きを見ながらスペースをどう生かすのかを、チームとして考えないといけない。対策を練られて負けてしまっては、今後のチームとしての成長はないと思いますから、そのあたりを重視して練習していきたいです」

どうだろう、これが今年からレギュラーになったばかり、2年目の選手が語る言葉だろうか? 他の選手との連携どころか、「今後のあるべきチーム戦術」までを語っている。誰もが認めるようなそれだけの自信に裏付けられているからこそ、こんな大きなことが語れるのだろう。
次の言葉は、まさにその自信の塊と言える。
「中盤でプレーしながら100点を取っている藤田俊哉さんが見本であり、目標です。(中略) まだプロ2年目ですけど、いずれは偉大な選手の記録に並べるように1年1年頑張っていきたいです」

こんなでっかい選手を専門記者たちの目が、見逃すはずはない。某サッカー週刊誌の「今節のJリーグ部門別ベストテン・MF部門」では、常に2~4位につけている。世界的にも層が厚いと言われる日本の中盤で、入団後あっという間にその顔の一人になってしまった。これって、中田英寿以来ではないだろうか。

これだけの要素がそろえば「ストイコビッチの再来」と述べても十分にお許し願えるはずだ。ピクシーも、同じ攻撃的MFであり、自分に似たタイプでもあるこの才能に、自分の全てを注ぎ込んでいる真っ最中であるにちがいない。

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