友人の1人に、毎月たくさんの資料を送って下さる方がいます。今回の資料の1つに6月5日と6日付の中日新聞の切り抜きがありました。「世界の流れの中で考える日本国憲法」というタイトルで、執筆者は「井上ひさし」氏です。すでにお読みになられた方も大勢おみえかと思いますが、とても面白い内容になっていますので、2回に分けて掲載したいと思います。よろしく。
★「世界の流れの中で考える日本国憲法」(井上ひさし)・・・1、その旗の下に立つ 「第九条」やがて国際法に
20世紀は戦争と暴力の世紀であったという言い方がある。たしかに数片ぐらいの真実が含まれているかもしれない。そこでこの考えに立って21世紀の行方をうかがうと、戦争で儲けようとしている人たちは別だが、わたしたち普通人ならだれもが、「戦争と暴力を 引き継いだのだから、やはり破局の世紀になるのか」と落ち込んでしまうはずだ。
こんなときは、オランダの都市ハーグを思い浮かべるにかぎる。というのは、北海にのぞむ人口50万のこの都市こそ、人々が戦争と暴力を違法化しようと懸命になって奮闘したのも同じ20世紀のことだったよと教えてくれるからだ。
ハーグが17世紀半ばから国際条約の製造所だったことはよく知られているが、20世紀をまさに迎えようとしていた1899年に、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけのもとに、このハーグで第1回の国際平和会議が開かれた。会期は2か月余、参加国は26。「革命で銃殺された皇帝が呼びかけた会議なぞ、どうせろくなものではあるまい」と軽んじてはいけないのであって、これは人類史で最初の、軍縮と国際紛争の平和的解決を話し合うための国際会議だった。
軍縮問題では成果がなかった。フランス代表のレオン・ブルジョワの「今日、世界の重荷である軍事負担の制限は、人類の福祉を増進するために、はなはだ望ましいということが本会議の意見である」という名演説が満場の拍手を集めたくらいだった。
しかし、このとき調印された3つの宣言が重要である。
① 軽気球からの爆発物投下禁止宣言(わが国は未批准 )② ダムダム弾使用禁止宣言 ③ 毒ガス使用禁止宣言
「何が国際紛争の平和的解決を話し合うための会議だ。3つとも戦争を前提としているではないか」というヤジが予想されるが、戦時国際法というものが諸国間で確認されたことがなによりも大切で、「国際紛争平和的処理協約」「陸戦法規に関する協約」「国際赤十字条約の原則を海戦に応用する協約」の3つの協約が採択されたのもこのときである。
1907年の第2回の参加国は44。このときに採択された「中立国の権利と義務に関する条約」はすばらしい成果だった。
第2次世界大戦は枢軸8カ国(日本・ドイツ・イタリアなど)と、連合49カ国(アメリカ・イギリス・ソ連など)との間で戦われ、南米をのぞくほとんど全世界が戦火に覆われたが、この中立条約を貫いた国が6カ国(アフガニスタン・アイルランド・ポルトガル・スペイン・スウェーデン・スイス)あった。
「わが国は中立の立場をとり、ただひたすら戦争が産み落とした不幸と 向き合う」と宣言したこの6カ国は、紛争国間の情報交換の仲立ちをし(スイス)、人質や傷病兵の交換に船舶を提供し(スウェーデン)、捕虜や人質の待遇を査察した(スペイン)。このように〈中立〉という第3の道を明示したのが第2回の会議だったのである。
第3回が開かれたのは100周年にあたる1999年で、100以上の国から8千人の市民が参加、NGO約700団体と国連が共催した。第2回から90年以上も間があるのは、世界が戦争と暴力沙汰に明け暮れていたせいだろう。
このときに確認され採択されたのが「公正な世界秩序のための十原則」で、その第一原則はこうである。
「各国議会は、日本国憲法第9条にならい、自国政府に戦争を禁止する決議をすべきである」
やがてこの原則も(これまでと同じように)国際法に昇格する時がくるにちがいない。
つまりわたしたちは、たしかに20世紀から戦争と暴力の非常識を引き継いではいるものの、同時に国際法・国際条約の世界法典化の流れをも引き継いでいる。そしてその流れの先頭に立つ旗となって、世界をよりましな方へ導びこうとしているのが、わたしたちの日本国憲法なのである。わたしは今日もその旗のもとにいる。
★「世界の流れの中で考える日本国憲法」(井上ひさし)・・・1、その旗の下に立つ 「第九条」やがて国際法に
20世紀は戦争と暴力の世紀であったという言い方がある。たしかに数片ぐらいの真実が含まれているかもしれない。そこでこの考えに立って21世紀の行方をうかがうと、戦争で儲けようとしている人たちは別だが、わたしたち普通人ならだれもが、「戦争と暴力を 引き継いだのだから、やはり破局の世紀になるのか」と落ち込んでしまうはずだ。
こんなときは、オランダの都市ハーグを思い浮かべるにかぎる。というのは、北海にのぞむ人口50万のこの都市こそ、人々が戦争と暴力を違法化しようと懸命になって奮闘したのも同じ20世紀のことだったよと教えてくれるからだ。
ハーグが17世紀半ばから国際条約の製造所だったことはよく知られているが、20世紀をまさに迎えようとしていた1899年に、ロシア皇帝ニコライ二世の呼びかけのもとに、このハーグで第1回の国際平和会議が開かれた。会期は2か月余、参加国は26。「革命で銃殺された皇帝が呼びかけた会議なぞ、どうせろくなものではあるまい」と軽んじてはいけないのであって、これは人類史で最初の、軍縮と国際紛争の平和的解決を話し合うための国際会議だった。
軍縮問題では成果がなかった。フランス代表のレオン・ブルジョワの「今日、世界の重荷である軍事負担の制限は、人類の福祉を増進するために、はなはだ望ましいということが本会議の意見である」という名演説が満場の拍手を集めたくらいだった。
しかし、このとき調印された3つの宣言が重要である。
① 軽気球からの爆発物投下禁止宣言(わが国は未批准 )② ダムダム弾使用禁止宣言 ③ 毒ガス使用禁止宣言
「何が国際紛争の平和的解決を話し合うための会議だ。3つとも戦争を前提としているではないか」というヤジが予想されるが、戦時国際法というものが諸国間で確認されたことがなによりも大切で、「国際紛争平和的処理協約」「陸戦法規に関する協約」「国際赤十字条約の原則を海戦に応用する協約」の3つの協約が採択されたのもこのときである。
1907年の第2回の参加国は44。このときに採択された「中立国の権利と義務に関する条約」はすばらしい成果だった。
第2次世界大戦は枢軸8カ国(日本・ドイツ・イタリアなど)と、連合49カ国(アメリカ・イギリス・ソ連など)との間で戦われ、南米をのぞくほとんど全世界が戦火に覆われたが、この中立条約を貫いた国が6カ国(アフガニスタン・アイルランド・ポルトガル・スペイン・スウェーデン・スイス)あった。
「わが国は中立の立場をとり、ただひたすら戦争が産み落とした不幸と 向き合う」と宣言したこの6カ国は、紛争国間の情報交換の仲立ちをし(スイス)、人質や傷病兵の交換に船舶を提供し(スウェーデン)、捕虜や人質の待遇を査察した(スペイン)。このように〈中立〉という第3の道を明示したのが第2回の会議だったのである。
第3回が開かれたのは100周年にあたる1999年で、100以上の国から8千人の市民が参加、NGO約700団体と国連が共催した。第2回から90年以上も間があるのは、世界が戦争と暴力沙汰に明け暮れていたせいだろう。
このときに確認され採択されたのが「公正な世界秩序のための十原則」で、その第一原則はこうである。
「各国議会は、日本国憲法第9条にならい、自国政府に戦争を禁止する決議をすべきである」
やがてこの原則も(これまでと同じように)国際法に昇格する時がくるにちがいない。
つまりわたしたちは、たしかに20世紀から戦争と暴力の非常識を引き継いではいるものの、同時に国際法・国際条約の世界法典化の流れをも引き継いでいる。そしてその流れの先頭に立つ旗となって、世界をよりましな方へ導びこうとしているのが、わたしたちの日本国憲法なのである。わたしは今日もその旗のもとにいる。