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随筆 不整脈ランナーの手記(24)「走れる」  文科系

2010年12月29日 21時02分29秒 | スポーツ
 今までの概容は、こうだ。
 いろんなスポーツはやって来たが、健康のことを考えて59歳でランナーに転向し、これ専門に。有酸素運動の諸効能を重視してのことだった。酸素摂取能力の高さが僕の身体にもたらしていると考えられるものとして、こんなものがあげられる。ギターを3時間弾き通すような毎日でも、どこも痛めたことがない。ブログを3時間やり通しても、目が疲れないし、肩こりも腰痛もない。お酒も弱くなっていないし、毎日飲んでいても肝臓も悪くしたことがない。これらの効能を考えると、ランナーはどうしてもやめられない。ランナーを止めれば、生活スタイルを変えねばならぬような気がするのである。

 さて、最初の公式記録は61歳直前のもので、10キロが49分22秒だった。走り始めて2年ほど経った時、不整脈が出始めた。初めはごくたまに、特別な急加速時などで200を越える頻脈が出始めた。よって、常時心拍型を着け、心拍を確認しながら走ることにする。こんな症状が出ても苦しくはないし、自覚症状も乏しいからである。この頻脈も、1分ほど休むと正常に戻り、また普通に走れるようになる。だましだまし走ったということだ。
 66歳までは、ほぼ毎年の10キロレースを50~4分で走っていた。ただし、1レースに1~3回は、心拍200を越えて歩くということがあったかと思う。この頻脈の多さで記録が変わってきたと言ってもよく、おおむね時速12キロほどで走れていた。67~8歳は、ちょっと症状が進んだようなので、レースを控えて無理をせず、様子見の走りを続けた。やがて68歳(去年)の晩秋にレースを再開してみようということで、ちょっと追い込みをかけ始めた。1ヶ月ちょっとでかってない不整脈症状に進み、やがて本年新春、慢性心房細動の診断が下る。この手記連載は、こういう事態を全く予期していない昨年11月2日、追い込みをかけ始めた時から始まっている。勢い込んで書き始めたこの「手記」が、まさか手術を含めた闘病記にも換わるとは、思ってもみなかったことだ。以降、2月には第1回目の心臓カテーテル手術。効果はあったのだが完治はしていないということで、2回目の手術。この10月1日だった。いずれも、「もう一度走りたい」と医者に申し出て、進められたものだ。そして、完治。先先回10月16日と先回11月13日のこの「手記」は、その後の回復の様子を書いてきた。

 
 さて、回復基調はさらに順調。日誌を拾うと、こんな調子だ。日に6000~9000歩の速歩き散歩が、3日に1度ほど。90往復ほどの階段登りが、週に1度ほど。そして、この24日、25日には散歩中に初めてそれぞれ1キロほど走ってみた。散歩や階段登りで走れる体力は何とか維持してきたから、心臓だけを心配しながら。その心臓もまったく異常はなさそうだった。無理をしない程度であるならば、辛うじてランナーではいられるのではないか。低速で良いから、心臓の疲れを見ながらほんの少しずつ距離を伸ばしてみたい。面白くなってきた。身体の回復とともに、ギターを長く弾いてもまた疲れなくなってきた。


 前にも書いた、この「手記の意図」の一つを、改めて抜粋、加筆して、再掲させていただく。
 【この手記、元々はまず不特定のランナー仲間を意識して書き始めたもの。だから、今となっては、次の目的も果たせようから、バックナンバーを載せておく。ランナーには心房細動が多いそうだ。仲間で同じ病気を抱えることになった方、どうか参考にして欲しい。
 また、分かる限りどんな質問にも応じる。 
 その①11月2日、②3日、③8日、④12日、⑤28日、⑥12月8日、⑦21日、⑧1月18日、⑨30日、⑩2月11日 (⑪2月28日、⑫3月28日、⑬31日、⑭4月12日、⑮19日、⑯25日、⑰5月3日、⑱18日、⑲7月5日、⑳26日、㉑9月30日、㉒10月16日、㉓11月13日) 】
 このブログでは、以上の全てを読むことができる。各々へのアクセスは、求める原稿の年月日でやるのが最も近道だ。右欄外の最下方に、このブログ誕生05年秋以来の年月を書いた欄がある。スクロールしながら必要な年月を探し出し、クリックする。すると、欄外最上方のカレンダーがその月のものに変わる。そのカレンダーの中からお求めの日をクリックすると、その日のエントリー(投稿原稿)が全て出て来る。よろしく。


 
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日本記者クラブ、この暗黒の権力者(前編)  文科系

2010年12月29日 08時12分45秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 以下はアシュラ・サイト掲載の「田中龍作ジャーナル」記事とあった。表題の内容を表現して余りある酷さと言えよう。こんな前時代的な悪代官制度は、一刻も早くなくすべきだろう。政府に巣くう「怪物」である。
 官僚と大新聞(系列テレビを含む)が結託して民主党を変質させてきたことが、なるほどと頷けるのだ。
 裁判で決着がついている小沢問題をことさら引っ張り続けて民主党支持率を下げることによって、民主党を変質させてきた。「普天間」も、「防衛構想」も、「東アジア」も、「消費税の急展開」も。はたまた、「ダム」「思いやり予算」「高速道路」「子ども手当」などなども。こうして、民主党マニュフェストは、官僚が望む方向でどんどん裏切られてきたのである。このことに比例して、官僚・マスコミ連合軍の権力がますます強くなってきたと思われるのである。


【 「記者クラブ制度」とは、ひとことで言うと土佐藩の身分制度である「上士」と「下士」のようなものである。省庁での取材活動においては、上士にあたる記者クラブが下士であるフリー記者やネット記者の“生殺与奪”を握っているからだ。
 総務省の記者会見を例に挙げてみよう。フリー記者、ネット記者が記者会見に出席するには、先ずクラブ幹事社の許可を頂かなければならない。幹事社が「よし」と首を縦に振れば「登録」されたことになり、めでたく出席可能となる。
 21日、この「登録」をめぐってちょっとした“事件”があった。フリージャーナリストの上杉隆氏は総務省の「ICT検討委員会」のメンバーだったことから館内通行証を持っている。有効期限は平成26年(2014年)までだ。
 ジャーナリストであることを証明する「館内通行証」なので、記者会見室に入った。ところが幹事社の知るところとなりお咎めを受ける羽目に。幹事社のX社と Y社の記者が2人して上杉氏に詰め寄った。「ここは記者クラブ主催なので・・・」と言い、「(入室は)登録をしてからにして下さい」と暗に退去を迫った。
 (途中経過省く)上杉氏は“退去勧告”には従わず、最後まで片山総務相の記者会見に居続けた。これが無名のフリー記者だったら間違いなくツマミ出されていただろう。

 晴れて登録されても「オブザーバー資格」というのがある。雑誌協会、専門紙協会、インターネット報道協会などの組織に属していない場合だ。「オブザーバー」は質問権がない。ただ黙って聴くだけだ。質問権のあるフリー記者、ネット記者が「二等市民」とすればオブザーバーは「三等市民」となる。
 ご法度と「身分差別」だらけなのが総務省記者会見だ。それを世間に知られると困るのか、記者クラブはインターネット報道協会以外の記者がネット中継することを認めていない。

 今年1月「Business Media誠」のディレクターが原口一博大臣の記者会見をウェッブカメラで中継した。(この模様は拙稿にまとめているのでご覧頂きたい※)
 案の定、記者クラブから中止命令が下った。幹事社がディレクター氏に「次から認めませんからね」と告げたのである。
 フリー記者の畠山理仁氏は「ネットの動画中継を認めて欲しい」と記者クラブに懇願し続けて一年が経つ。
 このほど記者クラブ幹事社から畠山氏に「フリー記者たちの意見を聞きたい」との連絡があった。事情聴取である。
 『やっと願いがかなうのだろうか?』畠山氏はじめフリー記者たちは期待に胸膨らませて総務省に出かけたのだが・・・・・・つづく】
コメント (2)
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