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随筆紹介  葉子さんの生涯    文科系

2016年10月25日 10時43分00秒 | 文芸作品
 葉子さんの生涯  H.Sさんの作品です

 昭和三五(1960)年、転勤でA市民病院に勤務した。看護婦として病棟に配属された。配属された病棟で葉子さんに出会った。当時、葉子さんは、私が配属された病棟の婦長さん。私と葉子さんの関係は、上司と部下と言うことになる。私が準夜勤務(午後四時から午後一二時)をしていた時、当直で病院全体の管理をしていた葉子さんは、巡回中、看護婦詰所(ナースステーション)に立ち寄り、患者さんの病状が落ち着き穏やかな時間がある時は、自分の歩いて来た日々を振り返り、笑いごとのように、私に話してくれた。
 大正一五年生まれの葉子さんは、従軍看護婦としてフィリピン、ミンダナオ島に派遣され病院に勤務。昭和二〇年、終戦を迎え引き揚げてきた。二年後、最愛の人に出会い結婚。結婚生活五年で最愛の人は結核で他界。守らなければならない一歳の男子と三歳の女子の命が託された葉子さんは、二人の幼子を抱えて働く母となった。病院から自転車で五分のところにある市営住宅に住んでいた。その住宅は、木造平屋建。一棟を板壁で仕切り二軒に区切るお粗末な造りだったが、その頃はこれが普通の住宅だった。ガラス戸を開けると小さな土間、六畳二間と小さな台所、汲み取り式便所つき。風呂はないので、住宅に住む人みんなが住宅の真中ある銭湯を利用していた。道幅三メートルを境に向き合うように何軒もの建物が密集。市の職員、教員、会社員等、職業も多種多様の人達が暮らしていた。住宅のはずれには古い神社があり、そのお宮の神主さんが、戦争で夫を亡くし、幼子を抱えて働く女性達の子供を預かる保育園を始めた。葉子さんも二人の子供を預けて働いていたが、病棟勤務となれば月八、九回の夜勤がある。実家から母親が応援に来たが、母親一人で背負いきれるものではない。市営住宅に住むおばさん達が、交互に泊まり込み、幼子の面倒を見てくれた。看護婦は女性としての給料は良いと言われていたが、一人働きでは、当時の生活は賄いきれなかった。電車に飛び乗り、駅七つの距離にある実家に援助をしてもらうため、度々、駆け込んでいた。

 母親に耳打ちすれば必要なお金は兄が葉子さんに手渡してくれたが、「今日は、何円、妹に渡した」と、兄がその妻に正直に言うことが、葉子さんにとっては耐え切れないことだった。兄嫁も意地悪な人ではないが、〈また妹がお金の無心に来た〉と思われていると、葉子さんは卑屈になったと言う。母親に「兄嫁にはお金をもらいに来たとは言わないでくれ」と頼んだ。母親は「それはダメ。内緒ごとがばれたら夫婦の中が悪くなる」と、きつく言い返した。
 ミンダナオ島での戦争体験よりも、葉子さんにとっては、実家へお金の無心に行く事の方がもっと辛かったと語ってくれた。その頃の私は、女が子育てをしながら一人で働くのは大変なことだという思いばかりに捉えられ、実家に無心に行かなければならない事情がよく呑み込めていなかった。お金は何に使ったのだろうと疑問に思ったが、葉子さんに聞く事はしなかった。お金は、二人の幼児を守ってくれたおばさん達への、心づけだろうと推測はした。今思え当時の社会背景をもっと知っておれば、葉子さんが笑い話で語る事の中身を深く知ることが出来たはずだと、知力のなかったことを申し訳なく思っている。

 大正一五(1926)年、葉子さんは一歳の時に父親を失った。六歳の兄が父親の遺産のすべてを相続した。預金、家、田畑、宅地、貸家等だ。当時、妻である母親と実子である葉子さんには、女だと言う理由で相続権はなかった。
 現在なら、父親の遺産の半分は妻が相続、後の半分を兄弟で分ける。兄弟二人の葉子さんは四分の一の相続が認められるので、兄さんにお金を都合してもらうことをしなくても生活出来たはずだ。情報が全く庶民に行き渡っていなかった当時、葉子さんも私も法律のホの字も知らなかつたので、女が金に困れば頼るところは実家しかないと思い込んでいた。

 そんなこんなで大変だったが、私が出会った時の葉子さんは、子供達も小四、小六に成長し、管理職になっていたので、仕事での責任は重くなったが、夜勤は当直が月一になり、夜は子供たちの側にいることが出来るようになっていた。
 病院は、勤務する人全員が、休日に休めない職場だ。
 日曜、祝祭日に、子連れで参加できる人達を集め、葉子さんは小さな旅を計画した。回覧板を病棟、外来、事務室に回し、参加出来る人を募った。女性ばかりの子連れ集団が、電車に乗り、隣町で降り、徒歩で小高い山に登り、持参の弁当持を広げる。一面に広がる稲田、小さな木造密集住宅、その先には何物にも遮られることのない瀬戸内の海が広がっていた。たったそれだけの事だが、子供達は山すべり、木登りで大はしゃぎ。参加者達は気持よいお喋りを楽しんだ。
 男性職員が子連れで参加を希望してきた。この人たちは日曜日には、奥様が、子供から解放され体が楽になると機嫌がよい。次もご一緒したいと言ってくれた。
 平成二八年九月初め、葉子さんの訃報が届いた。九〇歳だった。
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