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随筆紹介  「父と私」    文科系

2017年03月06日 06時19分55秒 | 文芸作品
 父と私   H・Tさんの作品です


 私は、昭和五十六年三月一日に父を送った。享年九十二才。天寿を全うした死であった。父の最期を看とった時も通夜の夜も、私はそれほど大きな悲しみも、その他のことも何も感じなかった。

 病知らずの頑強な父は、思いもかけず六十才半ばで、“結核性脳脊髄膜炎”という重い病気で倒れた。それからの長い年月次々と襲ってくる病に苦しみ、晩年は“老人性痴呆症”、今で言う“認知症”になり、すっかり別人のようになって日を送っていた。その間の家族の世話は大変であった。今のように老人福祉法も介護法もなく人にも話せないような出来事が次から次へと起こった。
ある時から徘徊も始まり、探し回ったりして、ご近所にもずいぶんめいわくをかけた。また三度の食事をすませた後でも、まわりの物を口に入れ取り出すのに大変であった。下着の汚れは、家族がにおいで気付く事もたびたびで、ある時は、兄弟が多く貧しくて父親(私の祖父)を満足に医者にも診せず送った事を思い出すのか、
「金のないのは首のないのと同じだ」
「おれのしんしょ(財産)ことわりもせず抵当に入れた。返せ。元通りにしろ」と、やりきれない思いをぶつぶつつぶやいていた。
 息子に逝かれ、家業もうまくいっていないことをどうして知ったのか、私は聞こえないふりをしていた。理解できない事が次から次へで、やっと一日が終わり父の寝息を聞くとほっとする。でもまた、夜中には何が起こるか分からないという地獄のような毎日であった。

 ある日私の勤務先に電話があり急いで帰った私に、父が食卓の物を床に投げて困ると、家族。驚いて父の顔を見ると、父の目は両眼ともに白い膜で被われ、見えない目で食卓の上の物を取ろうとしていたようだ。家中の者が兄の重い病気に気を取られ、気づかなかったようだ。
 母と共に眼科医へ父を連れて走った。
 医師は重い糖尿病から来る眼疾を告げ、
「こんなになるまで家族は気が付かなかったのですか。たったひとりの父親なのに……」
私は思わず、
「今、息子である兄が癌で、隣の病院に入院中です。それで家族はこの事には気づかずでした」
 癌は死の病と言われた時代。しかも手遅れで余命幾ばくと言われている兄。
 医師は静かに、
「そうですか。息子の命も大事。でもどうして老いた父親の命と比べるのですか。人の命は年齢には関係ないのに、妙な事をうかがいました」
 私は泣いた。
 幸い右目は治療によりどうにか見えるようになった。

 こんな父でも、壮年の頃はとても厳しい人で、ようやく家業を軌道に乗せてからは村の人のよき相談相手になり、人の輪の中にどっかり座り、大きな声で話していた。私はそんな父を知っているだけに、すっかり変わってしまった父が哀れでならなかった。だがその世話が長引き、“なぜ”、“どうして”理解できない痴呆行動に振り回される日々が続くと、怒りや憎しみが増えていった。そのやり切れなさに自分をもてあまして、父に辛く当たった日。密かに、父の死を願ったこともあった。
 こんな時にある作家が“恍惚の人”という題で小説を書き、これがベストセラーになった。その物語の痴呆老人は二年で遠行。私の父は両手で数えられない位なのにと、本を投げつけて泣いた事もあった。
 父が床に伏し、めっきり衰え、別れの日が訪れたことを知った時は、ほっとしたというのが本音であった。

 村の人が大勢来て下さり、通夜そして野辺送りが型通り終わり、父は逝った。
 しかし、父が居なくなってしばらくした頃から、父の長い人生は一体何だったんだろうと考え込むようになった。いつも陶土にまみれ母をどなりつけて働いていた。そして家族を絶望させながら生きた長い晩年。
 娘の私にも涙で送ってもらえなかった父。老いさらばえて醜く生きた父の晩年は、罰だったのだろうか。“人間は、長生きすると老いという罰を受ける”とある人が書いていたが、父に尋ねたら、何と答えてくれるだろうか。私も老いて、父の年齢に近づいた。

 父と私とは、切っても切れぬ絆で生きてきたと、今分かる。父は、人間が生まれ、生き、死んでいく生き様というものを、私の目の前に示し続け、教え続けて、死んで行ったのではなかったか。生きるという業の深さ、その寂しさ、虚しさ、さらにおぞましさまでを、単に言葉だけでなく見せてくれたのではなかったのか、と。
あの晩年の精いっぱいの生き方こそ、私に対する父の最後の慈愛ではなかったのか。
 こんなことは、父の生前に、いやせめて父が他界した夜に思い知るべきであったのに、ようやく分かり始めたのである。
 何事も後手後手に回って、苦い悔いだけをかみしめて生きてきた私。身辺に何かが起こり、結果が出てしばらくしないと、その本質に気づかなかったのである。
 父は、それを一番よく知っていたのだろう。だからこそいつも痛烈に教え続けてくれたのではないか。今頃になって、血縁の父というだけでなく、人生の師と思えてくるのである。
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