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南京虐殺史実の決定版   文科系

2017年03月13日 22時45分37秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

『大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍、奴らである。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】
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書評、「アメリカ帝国の終焉」⑤最終回  文科系

2017年03月13日 21時05分40秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
「アメリカ帝国の終焉 勃興するアジアと多極化世界」(進藤榮一筑波大学名誉教授著、講談社現代新書、2017年1月刊)の要約・書評第5回目、最終回になった。今回は、全4章「勃興するアジア」の第3節「太平洋トライアングルからアジア生産通商共同体へ」と最終章「同盟の作法──グローバル化を生き抜く智恵」の要約である。

 東アジアの生産通商状況が世界一の地域激変ぶりを示している。80年代中葉から2000年代中葉にかけて一度、2000年代中葉から後にもう一度。前者は太平洋トライアングルから東アジア・トライアングルへ、後者は「三様の新機軸」という言葉で説明がなされている。

 太平洋トライアングルというのは、日本、東アジア、アメリカの三角関係だ。日本が東アジア(主として韓国、台湾)に資本財、生産財などを輸出してそこの物作りを活発にし、日本、アジアがそろって米国に輸出した時代である。その「日本・アズ・ナンバーワン」の時代が、世紀の終わり20年程でこう換わったと語られる。アジアの生産、消費両方において、アメリカとの関係よりもアジア域内協力・互助の関係が深まったと。最終消費地としてのアメリカの役割がカジノ資本主義・超格差社会化によって縮小して、中国、東南アジアの生産と消費が急増し、東アジア自身が「世界の工場」というだけでなく、「世界の市場」にも変容したと述べるのである。
 例えば日本の東アジアへの輸出依存度を見ると1985年、2000年、2014年にかけて17・7%、29・7%、44・5%と増えた。対して対米国の同じ依存度は、46・5%、29・1%、14・4%と急減である。
 ちなみに、世界3大経済圏(の世界貿易シェア)という見方があるが、東アジアはアメリカを中心とした北米貿易協定をとっくに抜いて、EUのそれに迫っているのである。2015年の世界貿易シェアで言えば、EU5兆3968億ドル、東アジア4兆8250億ドル、北米2兆2934億ドルとあった。


 次にさて、この東アジアが2000年代中葉以降には更にこう発展してきたと語られる。
 東南アジアの生産性向上(従って消費地としても向上したということ)と、中国が主導役に躍り出たこと、および、インド、パキスタンなどの参加である。
 この地域が世界で頭抜けて大きい工場・市場に躍り出ることになった。
 例えば、世界からの直接投資受入額で言えば2013年既に、中国・アセアンの受入額だけで2493・5億ドル、EUの受入額2462・1億ドルを上回っている。
 これらの結果リーマンショックの後には、世界10大銀行ランクもすっかり換わった。中国がトップ5行中4つを占め、日本も2つ、アメリカは1つになった。

 さて、こういう世界経済の流れを踏まえてこそ、日本のあるべき発展、外交、防衛策も見えてくる。最終章「グローバル化を生き抜く智恵」というのは、そういう意味なのだ。世界経済発展の有り様と東アジア経済の世界的隆盛とを踏まえれば、日本の広義の外交の道はこうあるしかないだろうということだ。
 最初の例として、中国への各国直接投資額が、2011年から2015年にかけてこう換わったと指摘される。増えたのが、韓国、フランス、ドイツ、EU4か国などからの投資額で、それぞれ、58・0%、58・4%、38・0%、24・4%の増加。減ったのがアメリカ(11・8%減)と、日本に至っては49・9%減なのである。

 次に、新たな外交方策として、アジア重視のいろいろが提言される。アジア各国の生産と消費との良循環を作ることを通して得られる様々なものの指摘ということだ。今のアジア各国にはインフラ充実要求もその資金もあるのに日本がこれに消極的であることの愚かさが第一。この広域インフラ投資を進めれば、お互いの潜在的膨張主義を押し留めるという抑止力が働くようになるという成果が第二。こうして、アジアが経済的に結びつくことによって不戦共同体が出来るというのが、最後の意義である

 最後に述べられるのがこのこと。日本が見本とすべきだと、日本と同じアメリカの同盟国カナダの対米外交史を示していく。アメリカと同盟関係にありつつも、中国との国交回復では米国に先行してきた。この時の元首相トルドーはアメリカのベトナム戦争に反対したし、その後のカナダもまたアメリカのシリア軍事介入に反対した。このように、カナダの対米外交は対米同盟絶対主義ではなく、国民民生重視の同盟相対主義なのだと解説される。その対中累積投資額は580億ドルとあって、カナダにとって第2位の貿易パートナーが中国なのである。アメリカ帝国の解体と日本の対中韓孤立状況を前にして、カナダのこの立場は極めて賢いものと述べられる。


 さて、この書の結びに当たるのは、こんな二つのテーマだ。英国のEU離脱とは何であり、現在のグローバル化は過去とは違うこういう積極的なものであると。
 英国のEU離脱を引き起こした『(EUの難民)問題はだから、(エマニュエル・トッドが語るような)EUではない。中東戦争の引き金を引いた米欧の軍事介入だ。それを支える米国流“民主化”政策だ」
 そして、現在のグローバル化とはもはや、米英流金融マネーゲームのそれではなく、こういうものだと語られる。
『一方で先進国の不平等を拡大させながらも、他方で先進国と途上国間の不平等を限りなく縮小させているのである』


(終わり)
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