九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

世界サッカーがクロップ中心に回り始めたころ  文科系

2019年09月18日 14時32分25秒 | スポーツ
 別に書いた、1970さんのエントリーへの僕のコメントにかかわって、傍証をひとつ。世界サッカー史に残るドイツ・ドルトムントの急台頭について、その意味を書いたエントリーである。いわゆるゲーゲンプレス登場の意味でもある。これがこのころからの世界サッカーをすっかり変えてしまったこと、今年久々のリバプールCL優勝にもつながったこと、などなどに関わる文書だとも自認している。
 なお、明日以降、ドルトムントが今のサッカーをどう変えたかについて、下のエントリーの後に書いたものを今一度再掲していきたい。


【 世界フットボールは今、ドルトムントを中心にしつつ回っている  文科系 2013年05月30日 | スポーツ

 表題のことを述べてみたい。来年の世界強豪クラブ勝敗の予測ということでもある。

 バイエルンが世界一のここまで強くなったのは、ドルトムント3連覇を阻止しようと必死になってきた結果とも言える。また、ドルトムントよりも金と伝統があるから、今ドルトムントからゲッツェを強奪できたのだし、近くレパンドフスキも取れると高言している。レアルがやはり数年前にドルトムントからヌリ・シャヒンを取ったのは、やはり伝統と金の力。が、シャヒンという香川並の人材を、モウリーニョは使えなかった。シャヒンを使うには組織を変えねばならないが、モウリーニョにその決断が出来なかったからだと観ている。同じくドルトムントからマンUが取った香川は、来年大活躍すると考えるのが当たり前だろう。それほどにあのファギーが執心、熱望したのが香川なのだし、ファギーとフロントは自チームの戦略さえ変えようと1年努力してきたのをこの目でも観てきたからだ。

 以上から言えることは、ドルトムントの戦略、選手育成術が、ここ数年の世界を引っ張っているということだ。なんせ、傾きかけてユルゲン・クロップによって再建されたこのチームから、レアル、マンU、バイエルンが金に飽かして選手を引き抜こうと血道を上げてきたのだから。また、だからこそこう言いたいのである。
 シャヒンを使えなかったのが、モウリーニョの限界。モウは、守備戦術と敵の弱点を突くカウンターが上手いのであって、バルサやドルトムントのように「自分から仕掛ける組織」を作ることがさほど得意ではないのだろうと。ヌリ・シャヒンを使えなかったというのはそういうことなのだと。その意味では、来年香川を使えるかどうかで新監督デビット・モイーズの力量が試される。バイエルンも、マリオ・ゲツェを使えるかどうかだが、グァルディオラなら彼を使える組織でなければチャンピオンズリーグでよい成績が取れないと遮二無二くるはずだ。

 さて、これら以上に大問題であるのが、こういうすべての世界潮流の本家本元・ドルトムントの今後動向、予測にあることは明白だろう。結論を言っておくと、ここはまだまだ強いままだと愚考する。
 当時のエース・シャヒンをレアルに引き抜かれても、バイエルンを退けてドイツ2連覇を果たした。次のエース香川を引き抜かれても、チャンピオンズリーグ決勝でバイエルンとあれだけの闘いを演じて見せた。因みにドイツではこう言われている。「香川がいれば、あのゲームは、バイエルンに勝てた」。考えてみるが良い。レアルからクリロナが、バルサからメッシが、バイエルンからロッベンもリベリーも引き抜かれたら、今回のドルトムントのような闘いが出来ただろうか。つまり、ドルトムント、まことに恐るべしなのだ。

 ドルトムントの基本戦術・選手育成方向の根幹はこれだ。守備はゲーゲンプレス。敵にボールが取られた瞬間に、「その一瞬で、全員が前に出て奪い返す布陣を作ってしまうやり方」である。(これは今日書く注ですーーこのやり方以降世界サッカーでこういう言葉がどこでも使われるようになって行った。コンパクト、高い位置でのコンパクト、「ボール奪取からの即得点狙い」、「守備もできぬFWは使えない」、逆に「守備をする岡崎はイングランドの寵児になった」などなど・・・。)このチームは、自ボールが詰まった時などに、こんなことすら敢行する。いわゆるロングボールをわざと蹴り込んでおいて、敵陣近くでゲーゲンプレス・ボールを奪ってしまうのである。ゲーゲンプレスのボール奪取組織にそれほどの自信を持っているということだろう。攻撃は、「狭いスペースを高速集団で使い切って中短のパスを回しあい、集団でゴールになだれ込むようなやり方」。このやり方だとメッシやクリロナのような一人の名選手に頼るということがないから、サヒンや香川を引き抜かれても戦力がそれほど落ちないのである。また、ここのエースを他チームが引き抜いても、そのチーム戦術を変えないと使い切れないのである。

 ドルトムントとクロップ監督の今後への自信のほどについては、本日のISMニュースにこんな記事があった。
『これ(ゲッツェとレパンドフスキをバイエルンに引き抜かれること)により、「ドルトムントは崩壊する」との声も上がってきているが、クロップ監督は29日、独『ビルト』紙のインタビューに対し「我々の前に待ち受けているのは難しいシーズンだと論じている記事を読んだよ。ただ、その意見はナンセンスだね。我々は優れたチームのベースと、クオリティを備えているのだから」と、この意見に反論。「当然、いくつかの変更はあるし、一人か二人は退団することになる。しかし、“崩壊”という表現は間違っている。私はとてもポジティブに考えている」と続けた。】
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対米自立外交が始まった?   文科系

2019年09月18日 13時20分27秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 最近、標記のような政権の外交活動がちらほら発生していると見てきたが、対イラン外交については大きなことがいくつか起こっている。こんなことが二つ続いたからだ。

 一つは、イランに対して(戦争)有志国を世界的・大々的に募ってきたアメリカに対して、安倍政権が独自行動を取ると応えたこと。ただし、これには、こんな代案も出ていてまだまだ要警戒なのだが。ペルシャ湾入り口ではなく、紅海入り口のアデン湾に自衛隊を出す案も検討している、と。イランから観れば、今時のこれも、対米同調に見えるはずだから、決して良いこととは思えないけれど。
 第二の、対米独自行動は、イラン問題でさらに前進して、アメリカに対してあえて反論を表明してみせたことが挙げられる。世界の一斉石油値上げにつながったサウジ石油施設炎上を起こした大々的無人飛行機攻撃に関して、アメリカの言い分「イランがやった」に疑義を唱えたのである。
『(イランではなく、イエメンのフーシ派の犯行という)その可能性が強いと思っている。フーシ派は声明を出している』(河野外相)
『中東情勢の緩和に向けて議論する』とは、今月下旬の国連総会でイラン・ロウハニ大統領と会談すると発表したその内容を、安倍首相が明らかにした言葉である。イランが、「制裁強化の中での会談など無意味だ」として米との対談を拒否しているだけに、日本国首相のこの姿勢は久々の国連(の下での)平和貢献、となれば良いのだが? 世界第三の経済大国の現首相にそんな力があれば、世界もよほど平和になるのだが、などと考え込んでいた。

 目前の世界に向けて様々な形で必然と思われる米中衝突についても、その最前線である日本の立場は極めて重要。世界平和へのその独自役割発揮のチャンスと思われるだけに、この国連レベル外交の行方を、期待は薄いにしても目を皿にして注目していたい。ここで中国に貸しを作っておく形になれば、その将来的意味は限りなく大きいと思う。来年には、習近平氏の訪日もあることだし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説 祐介のワールドカップ(後編)   文科系

2019年09月18日 09時34分41秒 | 文芸作品

 そしてさて、二〇〇二年三月二十七日、ポーランド、ウツジ。ウクライナ戦を先発出場で無難に終えた祐介に、願い続けたチャンスはやってきた。このゲームでも先発に選ばれて、また何よりも、中田英寿と小野伸二がおよそ五か月ぶりにゲームに加わっている。彼らとの合否に自分をかけ続けて四年、その実証の場が初めて与えられ、現実にその結果を出せるかという日がやってきた。しかも、ヨーロッパ組の次の参加は五試合後、そのノルウェー戦は既にワールドカップ日本代表発表直前の、調整ゲームになっていることだろう。
 〈自分の場合、この選手選考ゲーム・ポーランド戦のチャンスをとらえ損なえば、ノルウェー戦のチャンスはもうあるまい〉
 そう思い起こす度に昨夜から何度も、胸の辺りでおこった震えが全身に伝わっていた。心理学者・トルシエは、こういうものを乗り越えるかどうかも、観察しているのだろう。『ハートが強い、弱い』がいつもの彼の口癖だし。鹿住さんの『からっとした戦闘性』、なかなかの言葉かも知れない。そんな自問自答をしてみるのだが、体の震えは収まるわけもなかった。

 そして今、フィールドに出ていく。ついさきほど、控え室で先発メンバーが発表されたばかりだ。こんなやり方もいつものトルシエの流儀だけれど、『心理学者』が試みる挑発なのだろう。そう勘ぐるとまた、ますます体が震えて来る。『もうやるしかない』、こんな時に誰もが言う言葉が出て、それが頭のなかで何度も繰り返されていた。

 同じ時、鹿住の方も一種厳粛な決意をもってテレビに臨んでいた。祐介が周囲とともに成すことを、それも彼が絡んだ得点という結果周辺の事実だけを、順に見届けてやるのだと。祐介の今日のプレーに関わっては、得点以外の他のどんな場面も、事実以外のどんな修飾語も、意図や評価へのどんな訳知り顔 も、一切意味がない。当然これは、ビールを飲みながらできるいつもの観戦とは全く違ったものだ。得点の実況中継を見届けるのではあるが、それをやる自分にも『からっとした戦闘性』が要求される、そんな実況中継と言えば良いだろうか。

 さて、祐介が繰り返し描いてきたイメージシンクロプレー、複数プレイヤーの同調プレーは、早くも前半十分に得点をあげた。それは、こんなふうに展開している。
 左サイド低目の位置でボールを持った中田。低い位置のせいかそれとも敵の油断からだったのか、とにかく彼の周囲には珍しく敵のプレッシャーはない。小さくドリブルしながら、首を大きく回してフィールド全体を見回している。祐介の方は、右サイドライン寄り、ハーフラインよりやや下がり目。
 〈フリーなヒデさんなら、この距離のパスも精度は十分〉
 と、催促するような感じで中田の方を見つめて前へゆっくりと数歩。すると、おそらく二人の目があったのだ。フィールド左後方から、サイドチェンジ様の一見何気ないロングパスが飛ばされた。右前の広大なスペースの、さらにその右端の一角に向かって。全力疾走で、右サイドラインぎりぎりやっと追いついた祐介。まだ敵も遠く、余裕を持ってゴール方向に顔を向ける。二人の味方フォワードがおのおの一人の敵を引き連れてゴールに迫っているのが見えるだろう。その遠い方、高原の肩の高さへ、祐介からアーリークロスが飛ぶ。跳び上がってこれを地面に落した高原、相手デイフェンダーと競り合いながらシュートして、ゴール。中田と祐介によって右、左、そして前へと、セオリー通りに速く、大きく振られたポーランドが、最後にゴール前で一対一にされて、競り負けたという場面だった。
 「一点目はとくに、ユウスケがいいクロスをあげてくれた」、試合直後にこの場面にふれて、中田は祐介の手柄と語っている。

 そしてもう一つ、祐介が思い描いてきたなかでも最もダイナミックなイメージが、前半四十三分、二点目のゴールとなって実現する。鹿住は、ビデオのこのシーンを何度巻き戻して観察したことだろう。それも、スローにしたり、一次停止を入れてみたり。それでも足らずに、読み得る限りの新聞を集めて、このシーンの言語表現を幾度も確認してみたものだった。ビデオには現れない同時他場面の動きや、関係選手の声などを調べるためである。
 ことの起こりは、センターラインからやや相手寄り、右サイド側四分の一ほどの地点。戸田の激しいプレッシャーにあわてた敵が、センターライン方向にミスキックという場面から、このイメージシンクロ劇は始まった。戻ってきたそのボールをかっさらった祐介が、前方の密集集団から逃れるように下りてきた中田に、走り違いながらボールを預ける。その時「走ります」と中田に告げたかどうか、祐介はそのまま右サイドライン沿いを首輪を外された猟犬さながら、晴れ晴れとダッシュ。ボールを受けた中田の方は祐介を気にする素振りも見せず、全く逆の左後方へ時計回りにドリブルしつつ敵を避けていく。
「フィールド左サイドに大きく振ると見せかけた」と書いた新聞記事もあった場面だ。祐介はその問も、ダツシュを続行。すると、頃合を計っていたように中田、いきなり体の向きを百八十度回転させて、「ノールックパス」、別の新聞にあった表現だ。これを中田は、右前方、祐介の数歩前にぴたっと合わせた。「ノールックパス」が事実ならば、祐介が走った方向も距離も中田には見なくとも分かっていたということになろう。さらにその上、反転振り向きざまのパスをこの方向、距離に合わせたというわけである。
 ボールに追いついた祐介の方は、余裕をもってやや内に切れ込むと、低く強いクロスをゴール前へ。それが、このあまりの速攻にパニック状態といった相手守備陣の一人に当たってゴールから遠ざかって来るところを、既にそこに詰めていた中田が駆け寄って、「セオリー通りに前に詰めていた。おもいっきり打った」。これも報道陣が後に伝えた本人の言葉である。四肢をいっぱいに延ばしたキーバーの、広げた左脇下を抜けたボールは、ゴール低くに飛び込んでいった。
 鹿住がビデオで計ってみた時間では、中田にボールを預けてから祐介のクロスまで、六秒余。合計二十二人の敵味方がコンマ何秒で繰り広げる予測至難の舞台では、非常に長い時間だ。祐介は 〈預けたボールは必ず返る〉と信じて走り、中田の方も〈なんとしても返し届けねば〉と決意してキープに努める。基本的な二人の同調プレーではあるが、それにしても裏切られなかった信頼関係が六秒。実際のゲーム上でそれも重要な厳しいゲームにおいてはなおさら、こういう信頼に応えるためにこそ、二人はトレーニングを積んできたとも言えるだろう。対するゲームの敵は、この信頼を引き裂くべくイメージを湧かせ、努力を重ねてくる。このような破壊意図に抗し、六秒もかけて成功したイメージシンクロ。祐介が中田に賭けたというのは、こういった同調場面を彼とこそより多く作りあえるはずだという戦略的狙いであった。そしてこの狙いは、年季を経たペアさながらに二点を演出することによって、果たされたのである。
 「ヒデさんが入って球をしっかりキープしてくれるので、前のスペースへ走り込むタイミングが取りやすかった」、ゲーム後に報道された祐介の言葉である。そして四年ぶりのこのたった一ゲームだけで、「祐介とヒデとは、相性の良い攻撃オプションである」という世論を形成してみせたのであった。

 なお、このゲームの左サイドを任された小野も、ゲームの後、報道陣にこう語ってみせた。「右サイドからの攻撃が多かったので、僕は左でサポートする形に徹していた。(中略)僕の場合はディフェンスをガチガチにやった」。もともと攻撃的才能も豊かな小野が、天秤の関係にある祐介を自由に動かすようにサポートに努めたと、証言を残したわけである。初めから意識したわけでもないだろうが、〈祐介の方がこりや得点の確率が高いぞ〉、そんな観測をゲームが進むにつれて強めていったという推論もありえよう。神経質なほどに『攻守のバランス』に拘るトルシエだ。この戦略的同調も当然見抜いたはず、さぞやご満悦といったところだろう。


 「このポーランド戦だけで祐介が代表を確実にしたと、僕は思ったなあ」
 好みのバーボン・プラントンゴールドを嘗めながら鹿住が言った。アルコール臭の薄いストレートな強い味と、独特のスモーキーさとが気に入って、この日とうとう彼にしては大金を覚悟してキープしたものだ。日本の〇二年ワールドカップが終わって一か月ほどの七月中旬に、二月以来初めて鹿住の店で二人は再会していた。
 「ちがうよぉ。四年もほかっとかれたら、もう心配するばっかりですよぉ。試合後の報道でも、『自分は厳しいと思ってる。自分ではワールドカップはまだ見えてない』と喋ってるはずです」
 「じやあ、確信はいつ生れたの?」
 「ヒデさんがチームに完全に溶け込んだと信じられた時かなぁ。それには、大きいことがいくつかあってね」
 そう断って話し始めた祐介の物語を、鹿住は後に幾度振り返ったことか。

 物語の初めは、トルシエが組織的でないと批判してやまなかった中田がポーランド戦以降、トルシエの戦術に己を合わせ始めたということに関わるものだった。ちなみに、トルシエのポーランド戦総評に初めてこんな評価が入っている。「ヒデが献身的にチームのために戦ってくれた。彼によって我々の戦術が機能した」。理想のサッカーゲーム要素の六割は組織規律だというトルシエにして、最高の褒め言葉ではないか。それだけ中田が、トルシエの戦術的連携命令に従ったということであろう。
 この急変は、当時ほとんどの報道機関が取り上げたものだ。鹿住も、作家、沢木耕太郎が六月二十八日朝日新聞に書いたこんな記事を読んだことがあった。「中田は一貫してトルシエを嫌っていたと思われる。(中略)しかし、ワールドカップが近づくにつれ、中田はある覚悟を決めることになる。つまり、それがトルシエの監督するチームであろうとなかろうと、日本代表というチームの中で一定の役割を『演じる』ことを引き受けようとしたのだ。それがどのような契機で、なぜだったのかは、いずれ彼自身の口から明らかにされるだろう」

 そして祐介の物語はさらに、ポーランド戦のために合流したチームに中田が感嘆の声をあげた点があつたと、語り続けられていった。鹿住が後にナカタネットで確認した本人の表現では、こうなっている。
 「今まではだいたい食事が終わると、みんなさっさと部屋に帰っていったのに、今回の合宿は以前とは違って、みんな食事が終わってもず-っとテーブルに残って話し込んでいたのが本当に印象的だったな~。トルシエとも『些細なことだけど、こういう雰囲気って良いことだね』って話をしたんだ」
 祐介にとっても、過去の合宿と比べて、確かに驚かされた雰囲気だったということだ。例えば、ポーランド戦当日の夕食後、並んで座っていた中田と小野の所へ祐介が出かけていって、こんな会話が始まったらしい。

 「伸二さん、今日はサイドに張っててもらっちゃてぇ、ありがとうございましたぁ」と、これは祐介。にこにこしてうなづきながら何か言いかけた小野を押し退けて、横合いから、中田。「伸二が、横に張ってたか-。なか行くから頼んます、なんてしょっちゅう言ってたよ」。対して小野、「ヒデさんが、試合中に攻め方ばっかし話しかけてくるからついついですよ-。後ろはあなたがちゃんと下がってくれてるってのも分かってましたし。それにですね-、祐介は守備もちゃんとやってましたよ」。「確かにね。だけど、今日の祐介なら遠慮なくもっと前へ行けば良い。そしたら、俺も下がってやるよ。守備をやりながらだってパスは出せるから」、そして一呼吸おいて、中田はこんな言葉を続けた。
 「それにしても、祐介とは四年振りのゲームだね-。フランス代表目指して苦労しあった一番若い伸び盛りが一体なにやってんだと怒ってたんだけど、高原へのアーリークロス、あれはベッカム並みだったよ、ホントに」
 中田が、イングランド代表キャプテンの名前を引き合いに出した。祐介と同じ右サイドのスペシャリストである。「あのクロスは、ヒデさんのロングパスのおかげですよ。あんな遠くからあのスペースのあそこへですからねぇ。ぎりぎり届きました」と祐介。
「それがヒデさんでしょう。ロングパスの精度があるから、遠くもちゃんと見てるということ。だから祐介も前行って良いってこと。それにしてもあのクロスを、高原は上手く落としたね-」、小野が、黙って聞いていた向かいの高原に話を振った。高原が応えるには、「Jリーグの対戦で敵の祐介を注意して観てるけど、最近怖いんだよ。だから、自分のチームで右クロスを受けるような調子で構えてたね」。ちなみに高原は、現在のJリーグでずば抜けた最多得点チームのエースである。

 そこにいる者がみんな、各局面局面で生じるチームの穴を埋め合っていたらしい。そして、それぞれが仲間の長短をイメージしながらその特長を引き出して、さらにその上に自分のアピールを積み上げようともしてきたようだ。そうしてそこに、自分の代表選出を賭けてきたのだろう。すると、今日はさしずめ、一人一人が四年間描いてきたそんなイメージがほとんど実現できたということか。強いチームに二対ゼロで勝ったし、みんな嬉しそうだし。
 ゆっくりと、それとなく、周囲の一人一人の顔を見直してみた祐介だった。


 こうして選ばれた彼等日本チームの〇二年ワールドカップ結果は、一次リーグを三試合総得失点五対二の二勝一引き分け、一位通過、決勝トーナメントは○対一でトルコに敗北というものであった。なおこのトルコは、優勝したブラジルに負け韓国に勝って、三位になっている。祐介はこの四試合のうち一つが先発で二つが途中出場と、三試合に出た。そして、決勝トーナメント出場を決めたチュニジア戦で、中田寿のダイビングヘッド得点へのクロスを決めている。若いと言われた代表のなかでも最も若く、祐介、二十二歳になったばかりのワールドカップであった。

(おわり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説  祐介のワールドカップ(前編)   文科系

2019年09月17日 10時25分34秒 | 文芸作品
 二千二年三月十二日火曜日夕、文字通り居ても立ってもいられないという体で帰宅した鹿住のもとに、やっとその電話は届いた。
 「セーンセーエ、ほ-んと-に、入っちゃったよ。本当に、先生───」
 報告の主、祐介の電話越しの声は、何か間延びがしている。そう感じ取った鹿住の方も、もういけない。しばらく声が出ない。
 「…………良かったなぁ。…………頑張ったもんなぁ。病気もあったし─── 」
 祐介が、サッカーワールドカップ直前の八つの国際テストマッチに向けて、その第一戦の日本代表に選ばれたのである。電話口の鹿住の脳裏で、この四年間に祐介が闘ってきた希望、不安、迷い、闘病などが、フラッシュバックしていく。

 祐介は、九八年のフランスワールドカップ代表候補から最後にふるい落とされた三人のうちの一人である。その時、他の二人が起こした事件が、新聞をにぎわせたものだ。彼等が、日本代表監督・岡田武史の帯同要請を振り切って、フランス合宿から帰ってきてしまうという事件である。落選のショックが予測を遥かに越えていたと、岡田監督の談話も伝えられた。彼等の心中は、祐介にも理解できたはずだ。まだ十七歳の高校生で、最終候補二十六人のなかで最年少だったとはいえ、落とされた悔しさは他の二人と変わりようがないからである。しかし祐介は二人とは違って、代表の戦いを見届けるためにフランスに残るという道を選んだ。それができたのは、後に鹿住に話してくれたところでは、代表候補最年少の自分にはまだ先があると希望の方向を換えることができたからだということらしい。ところが、それ以降監督の座についたフィリップ・トルシエは祐介のこの希望を逆撫でするように、ただの一度も「日本代表」の声をかけるということがなかった。延々今年まで丸四年近くのことだ。代表候補合宿には何度も呼ばれたが、国際マッチ代表からはことごとく外れ続けて、ワールドカップ年の今年を迎えたのだった。ワールドユース、シドニー五輪、そして四年間に行われたすべての国際Aマッチ、来るチャンス、来るチャンスが、彼の手からすり抜けて行った。候補で呼ばれては、落とされ、また呼ばれては落とされるの繰り返しだ。その度に決定を祐介に伝えるチームの担当者も言葉がないという様子、ただ「今回もダメだったよ」と伝え、「また、次があるから」と付け加える。祐介の方は「じゃあ、俺の『次』はいつなんだ!」、こんな叫びを飲み込み続けたものである。鹿住もこの間、「呼ばれた時のための準備万端」だけに照準を定めてJリーグも闘ってきたというような祐介に、どれだけ心を痛めてきたことだろう。候補合宿にはたびたび呼んでおいてテストにもかけないというのは、一体どういうことなのか。練習戦略さえさんざんに迷い、長くオーバートレーニング症候群を患うほどに努力もしてきた若者なのだ。

 鹿住は、祐介の元家庭教師である。四年前に日本代表最終候補にまで残った祐介の、不足しがちな学校授業日数をカバーする仕事をその父親から頼まれて、それ以来付き合いが続いているという間がらだ。
「とうとう『次』が来たのか-。一週間あとに大阪で、ウクライナ戦があるんだったな-?」、鹿住がやっと声を出す。
 「うん。ウクライナ戦で評価されて、二戦日の欧州遠征・ポーランド戦、とにかくこれに出たい。これから八つもある代表ゲームで最後まで残れるかどうか、このポーランド戦でほとんど決まると思うんだ。ヨーロッパ組も来るし」
 「そうだったな。ヨーロッパ組はポーランド戦含めて八つのうち三つくらいにしか出ないんだったな-。彼等と合わせあえるかどうか、それが最終代表入りの最大関門になるんだな-」、後半は声の調子もくぐもりがちになっている。ヨーロッパ組と、鹿住や祐介が言っているのはこの場合、それぞれイタリア、オランダのプロチームに引き抜かれていった中田英寿、小野伸二を指している。祐介とともにフランスワールドカップを目指した最も若いメンバーで、中田は四年前のそのレギュラー、小野はサブメンバーとなった。
 「簡単じゃないよねぇ。一ゲームだけ、それもほんのちょっと出させてもらって、『もう来なくてよろしい』、そんな夢も見るよ」
 「何度も言うけど、そんなことはない。こんなに戦略的に代表を狙ってきたんだから、君の場合は出れれば、とにかく大丈夫」
 「でも他の相手も、チーム幹部のみんなと相談したりして、やってきたはずだろうしい」
 「大丈夫、大丈夫。これも何度も言ったけど、チームの同僚に森岡と戸田、守備の日本代表常連が二人もいるじやない。彼等が『祐介は出られれば、選ばれる。日本最大の弱点、得点戦略上の凄い武器になる』と言ってるんだから」
 「うん。二人に相談できたってのは、大きいよねぇ。競争柏手の情報は全部入ってくるしい。逆に、向こうには僕の情報は、テレビや新聞くらいだろうしい」
 「とにかく、狙ってきたことを出せば良い。いろいろあるんだろうから、今日はこれで切るよ」
 電話を切った鹿住は、つい一か月ほど前に祐介の誘いに応えて、ひさしぶりに二人で飲んだときのことを思い出していた。倍以上も年上のサッカー好きな部外者で、祐介の不安の整理役の一人。こんな立場を鹿住は心待ちにして、そのための準備にもいつしか励むようになっていた。そして、サッカーと日本代表チームとのウォッチヤーと言えるほどの資格を得ていたのかも知れない。


 極寒の二月初旬、ざくっと削った地肌を黒く塗った木材を使い、ログハウスとも船底とも見えるようなバー。鹿住が「自分の店」と人にも言っている唯一の場所だ。三十ちょっとに見えるオーナーマスターは「イタリア料理のレストランバーだ」と言うが、こんな若さでどこから仕入れるのか、カウンター向かいの壁に並べられた酒類の取り揃えはきらびやかに多種多様で、そのそれぞれについての薙蓄がまた多い。そして今、カウンター以外はやっと顔が分かるという程度に暗い店内で、三つのテーブルのうち二つが埋まっている。その一方に、顔を壁に向けて鹿住ら二人が座っていた。

 「うん、病気は治ったし、アーリー・クロスも一年かかってやっと物にできたし、君の『次』は必ず来ると自分に言い聞かせてでも、頑張る。それに備えたトレーニングは、ヨーロッパ組との連携を第一にイメージしたもので行く」
 鹿住が、先刻からの話題をもう一度、トーンをあげて半ば強引な調子に縮めくくる。アーリー・クロスというのは、味方陣低く左右どちらかのサイドにいる選手などがサイドライン沿いを急きょ大きく駆け上がって味方ボールを受け、すぐにフィールドを横切るように敵ゴール前へと放り込む速攻用のボールのことだ。敵ディフェンスが戻り切らぬうちに、早目に斜め前へと放り込めばアーリーがつくし、ただクロスという場合は「早目」、「速攻」という感じを抜き、『フィールドを横切るように』というところだろうか。いずれにしても、日本が不得手とする得点戦術の上で貴重な一手段であって、右サイドという守備的な祐介のポジションに期待されるほとんど唯一の攻撃参加オプションである。後ろの選手が前へ大きく抜けるのだから守備の応急手当が必要になるが、その分厚くなった速い攻撃から敵守備を分散させることもできて、得点の確率が飛躍的に高まる瞬間である。このアーリークロスも他の戦術と同様、当然のことながら「人材」が要件となる。精度の高いロングパスの出し手と、足が速くやはり高精度のクロスを持った受け手のサイド選手だ。こういう二人が年月をかけて培ってきた深い信頼関係と言いかえても良いかも知れない。サイド選手が走っても走っても、良いパスがこなければ無駄走りになるし、良いパスを通し続けても、結末であるクロスに精度が欠ければそこまでの全ての労力が無駄になる。無駄な戦術は消えるか、練習用の実験段階のものにすぎないか、いずれかであろう。逆に言えば、サイドがこれでもかとばかりにオーバーラップ、走り上がりを繰り返すチームは、この信頼関係が築かれているというわけだ。祐介のチームはJリーグきってのこういうチームで、サイドが右左ともにどんどん走り上がっていく。

 「四年間一回も呼ばれてないんだよ.中田ヒデさんらがトルシエに外される可能性だって、やっぱり残ると思うしぃ」
 と、祐介。彼のクロスの生死を握るような相棒たちの去就を、憂えているのだ。世に伝えられたトルシエと中田との不仲の行く末にも悩んできた。中田英寿や小野仲二は、祐介のクロスの成否を決めるボール供給源の仲間であるし、小野はさらに右サイドの祐介が攻め上がったときに、逆の左サイドで守りを固めて支えて欲しい相棒だ。彼等が出場するかどうかで、さらにどう呼応してくれるかで、祐介のプレーは大きく違ってくる。特に中田が出ないとなれば、自分の『次』が例え来たとしても水泡に帰そうかというほどに、彼のパスやキープカを想定した練習に拘ってきた祐介だった。
 (ヒデさんと僕との合作が、得点能力の低い日本チームの右サイドとしては最良のものとしか信じられないから、この合作をイメージするしかない〉。
 『選ばれるには?』というある種の『色気』が絡んで打ち消しても打ち消しても現れてくる他の諸選択との迷いを断ち切っては、この四年間祐介が立ち戻ってきた、自分の原点とも言える想定であった。アスリートとしての祐介の矜恃なのだろうと、鹿住には見えたものだ。
 祐介のこの迷いに対して鹿住は、雑誌で見つけてきた中田のこんな言葉を紹介した。
 『監督に話したいことがあれば話す。仲がいいことだけがすべてじゃない。そうでない人とも、いい仕事をするのがプロだから』、『(僕とトルシエとの)二人の考えが全く違うとわかった。わかりあおうとすると困難だけど、どうしようもなく違うと割り切ればむしろ楽につきあえる』。
 これらを引用した上で鹿住は、駄目を押すようにさらに力説したものだ。
「ヒデだって、『全日本みんなが揃う数少ない今後のテストマッチでは、連携の強化が全てだ』とも、どっかで言ってたから、トルシエの戦略にも、ちゃんと合わせてくるに違いないって」
 祐介の返答はない。そして沈黙。ややあって、「笑っちゃうねぇ、誰と組めるかなんて。四年間代表に出れてもいない者が、よく喋ってるよ。せめてヒデさんと組んでポーランド戦に出られたらなぁ。落とされてもまだ納得が行くんだけど」
 話を打ち切るように唇を歪めたものだ。
 そんな祐介の表情を船底さながらの薄明りの下でもうかがい観ることもできずに、鹿住はバーボンのハーフロックの残りを口に流し込んだ。そしてしかし、すぐに話しだした。
 「もう一度、まとめてみるよ。確認してくから短く応えてな。右サイド選手としての君のライバルは?」
 「いろいろいるけど、まあ明神君、羽戸君」。「トルシエのチーム概念から求められる右サイドの技能、能力と、三人の長短?」。「守備が六~七割、攻撃が三~四割、それと、持久力とスピード。それで、守備は第一が明神、あとの二人は同じくらい。攻撃は、僕、羽戸、明神の順。持久力は明神、羽戸、僕の順で、スピードは明神がちょっと落ちて、あと二人は同じ、かな?」。「それでトルシエは結局、代表右サイドは何人必要と見てる?」。「左サイドがもっと激戦だし、右には他から回してくるかも知れないし、まあ一人か二人」。「その人選について、ここ一年くらいを見た現在までの結論は?」。「明神君は確実、羽戸君が対抗、僕が大穴、まで行ってないけどそう思いたい」。「以上から、君が合宿やテストで何を示せば良いんだった?」。「第一に守備を無難にやって、絶対に攻めの結果を出すこと」。「それについて、自分の現状分析と自信は?」。「守備は意外に二人に近付いてると思うし、去年一年でクロスが急に伸びたから、ライバル二人とは違って絶対に点に絡むんだ、と。ただチームの攻めをフォワードに左サイドだけを加えてやれば良いとか、ヒデさんのパスがないとかなったら、ちょっと苦しい」。
 「なっ、結論をもういっぺんまとめるよ。必死に守備に走り回った上で、練習の紅白戦でも日本代表テストマッチに出られたとしても、絶対に点に絡んでみせる。自分ではどうしようもないことをくよくよするのはかえってハートをだめにするだけだからマイナス、やめにする。結果を求められた時に、今まとめた結論に結び付いて行くようにだけ集中する。そうできるように日常も過ごす。そんな、からっと整理された戦闘性みたいなものを、トルシエは一番観てるんじゃないかなぁ。彼は自己を表現して、主張する人間性が好きで、一種心理学者みたいなとこがあると自他ともに言ってるんだし」
 当時祐介が日本代表を目指して、これ以外に何を考えることがあったろうか。だれと相談して、どれだけ時間を使い、どう話してみても。だからその夜の会話は、どこまで続いたとしても微かな明かりも見えぬままに終わりにするしかないという、そういう性質のものであった。

(後編に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中田英寿のメモリー  文科系

2019年09月17日 10時21分10秒 | スポーツ
 これは、06年ワールドカップ直後にある所に書いたものだが、再掲させていただく。日本サッカーは、彼にどれだけ感謝してもしたりないはずだと、そういう思いで書いた物だ。ワールドカップ(日本出場)が近づくといつも思い出すべき事と、自分に言い聞かせている内容である。

【 最後に、〇六WCドイツ大会終了を待って、二九歳でサッカー界からの引退表明をした中田英寿のメモリーを記しておく。彼が日本サッカーにどれだけの革命をなしたかという諸事実の記録である。

 まず、彼のジャパン代表登場がどれだけ衝撃的であったかから、始める。
 九七年、フランスワールドカップ・アジア予選途中で絶望的な苦戦続きから加茂・代表監督解任という結末、窮地が訪れていた。前回の「ドーハの悲劇」を経て、「今回こそは、WC日本初出場!」という国民の期待が崩れかけていた瞬間である。この瞬間に、突如出現した新米の二十歳。チーム危機の中、実力でレギュラーをもぎ取り、あまたの先輩たちが即座に「チームの司令塔」と自然に認めて、その後数ゲームで日本初出場という結果を出して見せた「日本の救世主」。日本中を大フィーバーさせたのも当然のことだろう。この二十歳の出現がなければ、フランスでワールドカップ日本初出場という歴史自身がなかったはずなのだから。クライマックスとして上げられるのが「ジョホールバルの奇跡」、対イラン第三代表決定戦。得点したのは中山、城、岡野。この三得点それぞれへの最終パス(アシスト)は全て中田が出したものだった。
 さて、この彼、その後も日韓、ドイツと三回のワールドカップを引っ張り続け、さらに希有のアスリートであることを証明し続けて見せた。これが、中田の二十歳から二九歳までの出来事なのである。そもそも「三大会連続出場」は他に川口、小野だけだし、「三大会レギュラー出場」ともなればもちろん、中田以外にはいない。こうして、日本サッカー界の常識を覆した革命児と表現しても、サッカー界の誰一人反対はできないという選手なのである。

 サッカー選手としての彼は、そもそもどんな特長をもっていたか。
 二十歳の彼のパスは、「『追いつけ!』という不親切この上ないもの」と日本の評論家たちから総スカンを食った。が数年後にはもう、彼のパススピードでしか世界には通用しないとは、周知の事実となった。
 「フィールドを鳥瞰していることを示すようなあの広い視野はどうやって身につけたものなのか?」。こちらは、反対者のいない関係者全員が初めから一致した驚きの声だった。どんなプレー中でも背筋を伸ばし首を前後左右へと回してきょろきょろする彼のスタイルは、その後日本の子ども達の間に広がっていったものだ。正確なロングパスは正確な視野からしか生まれないのだから。
 「人のいない所へ走り込まないフォワードにはパスをあげないよ」。これも今や、「フォワードは技術以上に、位置取りが全て」という、日本でも常識となった知恵だ。これについては日本FW陣の大御所、中山雅史のこんな証言を読んだことがある。
 「中田が俺に言うのね。『そんなに敵ディフェンダーをくっつけてちゃ、パスがあげられない。どこでも良いから敵を振り切るように走ってって。そこへパスを出すから。そしたらフリーでシュート打てるでしょう』。俺、そんな上手くいくかよと、思ったね。でもまー、走ってみた。きちんとパスが来るじゃない。フォワードとして『目から鱗』だったよ!」
 この出来事が中田二十歳の時のことだ。十年上の大先輩によくも言ったり!従ってみた中山もえらい。中山のこの素直さこそ、三九歳の今日まで現役を続けられている最大の理由と、僕には思えるほどだ。封建的な日本スポーツ界では、希有なエピソードなのではないか。
 中田はまた、自分個人用のサッカー専用体力トレーニングにプロ入り以来毎日、汗を流し続けている。「走れなければサッカーにはならない」、「外国人には体力負けするなんて、プロとしては言い訳にもならないよ」。自らのプレー実績で示してきたこれらのことの背景こそ、このトレーニングなのである。

 さて、これら全ては今でこそ日本でも常識になっているものだ。しかし、中田はこれら全ての「世界水準」を二十歳にして、どうやって身につけたのか。「世界から習った」、「例えば十六歳で出会ったナイジェリアから」などと彼は述べている。ほとんど世界の相手を観察してえた「知恵」なのである。もの凄い観察力、分析力、練習プログラム考案力、自己規制!それら全てにおいて、なんと早熟だったことか!この上ない頭脳の持ち主が、観察のチャンスに恵まれたと語りうることだけは確かであろう。

 彼はまた、世の全てが媚びを売るがごときマスコミへの反逆者でもある。「嘘ばかり書く」、「下らない質問ばっかり投げてくる」と主張し続け、「こんなものは通さず、自分の大事なことはファンに直接語りたい」と、スポーツマン・ホームページの開拓者にもなったのだった。弱冠二一歳、九八年のことである。それも、日本語、英語、イタリア語だけでなく、中国語、韓国語版まで備えたサイトに育ち上がって行った。国際人というだけではなく、アジアの星にもなっていたということなのだろう。
 他方、日本のサッカーマスコミは未だに程度が低い。テレビのサッカー中継でも、ボールばかりを追いかけているように見える。サッカーの神髄はこれでは絶対に見えてこないはずだ。この『ボール追いかけ』カメラワークは野球中継の習慣から来ているものだろう。野球はどうしてもボールを追いかける。その習慣で、サッカーでもボールを追いかける『局面アングル』が多くなっているのではないか。それにもう一つ、新聞などの野球報道でも、勝ち負け、得点者に拘りすぎているように思われる。サッカーの得点は、ほとんど組織の結果と言って良いのだから、フォワードよりも組織を写して欲しいと思うのだ。得点を援助したラストパス、いわゆる「アシスト」報道がないのも、日本の特徴だろう。

 ありがとう、中田英寿。僕をこれほどのサッカー好きにしてくれて。僕の生活にサッカーを与えてくれて。】
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「右」の人々の戦争「哲学」   文科系

2019年09月16日 08時07分52秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 あるブログの共同運営を大学時代からの友人に頼まれてかっきり十年やってきたが、そこでいろんなネット右翼諸氏とやりあってきた。ブログ名称に「憲法九条」が入っているゆえなのだろうが、こういう方々の訪問が絶えなかったからだ。たとえば、
『平和を願い、母国を愛する一未成年から反論させていただきたい。・・・以上、反論があれば随時丁重にお返しさせていただく故、フェアに品のある議論を望む』
 これは「平成の侍」と名乗られたお方がこの八月十九日に僕の文章に寄せてきた長文コメントの前後だが、たった一回僕が出した回答に対して、もうお返事が何もなかった。僕の文章内容が彼が考えたこともないようなものだったから再回答のしようがなかったのであろうが、はてこれは「フェアに品のある議論」であったのかどうか、難しいところだ。

 こんなふうに知識も思考力も様々な方々を相手にしたこの十年、実に多領域の勉強をさせられたし、いろいろ考えさせられつつ今日まで来た。慰安婦問題は明治維新以降百年の日朝関係史学習にまで拡がっていったし、南京虐殺や「連合国史観」は「アジア・太平洋戦争史」の復習に繋がった。こちらが学んでいくごとに「これだけ稚拙な知識しかない相手が、どうしてこれだけ自信ありげに頑張れるのだろうか」と気付き始めた。その度に訝り、考え込んで来たのがこのこと。これだけ確信ありげに語るのは、世界も狭いからというだけではなく、自分を納得させ、確信させる信念を何か持っているからだろうが、それって何なんだろうかと。
 これらすべてにおいて、同じ人間という生き物に、どうしてこれだけ見解の相違が生じるのだろうかと、そんな哲学的問題意識をも温めつつ、相手の言い分を観察してきた。
 そこで最近になってようやく気付いたのが、これだ。

 米国は実体経済がIT産業ぐらいしかない。サービス業ばかりで、相対的貧困者と格差が大問題になっている先進国である。サブプライムバブルや九年にも及ぶ紙幣大増刷・官製バブルなどなどマネーゲームで儲けて、日本やBRICS諸国相手の現物貿易収支大赤字をその分カバーしている。がこの国、戦争が流行ればその苦手な現物経済もなかなかの物なのである。兵器産業でいえば世界ダントツの実力があるからだ。貧乏な国、地域には、本来廃棄すべき多量の中古品などの廃棄料が収入に転化する。日本や石油成金国などには第一級の高価な最新兵器などなど。世界のどこかで戦乱が起こるほどにこの商売はいつも大繁盛だ。
 ところで、戦争は無くならないと語る人は当然、こう語る。「国が滅びないように、国土防衛が国として最大の仕事」。こういう人々が世界に増えるほど、貿易大赤字国の米国は助かる。いや、助かるという地点を越えて、今の米国は「テロとの戦い」とか、以前なら「共産主義との戦い」などなどを世界戦略としているからこそ、地球の裏側まで出かけていったりして、あちこちで戦争を起こしているのである。まるで、人間永遠に闘う存在だという世界観を広める如くに。失礼を承知で言うが、「人間必ず死ぬ。貴方も間もなく死ぬ」と大いに叫べば、葬式屋さんが儲かるようなものではないか。


 さて、戦争違法化が、二十世紀になって世界史上初めてその国際組織と法が生まれたりして着手されたが、地上から戦争はなくせるのだろうか。この問題で極めて簡単な正しい理屈が一つある。戦争はずっとなくならないと語る人は「その方向」で動いていると言えるのだし、なくせると思う人はそういう方向に「参加していく」のである。つまり、戦争が未来になくなるか否かという問題とは、人間にとって何か宿命的に決まっているようなものではなく、今及び将来の人間たちがこれをどうしようと考え、振る舞うだろうかという実践的な問題なのである。世界の政治課題というものは、人間が決めるものだと言い換えても良いだろう。ところが、人間が決めるものだというこの真理を意識せずして否定する以下のような「理論」に最も多く出会えたのだと理解してから、僕の頭はすっきりした。
 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論がある。その現代版亜流の世界観が存在するようだ。「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」。この理論で言えば夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。
『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』
 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識の出発点なのである。最近、そう気付いた。対案はこれしかない。「二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれたではないか」などの歴史的事実と戦争はなくせるという世界観とを広めていくこと。その実を例え少しずつでも、粘り強く作り広げていくこと。


 以上ありふれて見えるようなことを書いたが、正面からは案外批判されてこなかった誤った戦争に関わる信念が巷に溢れていると言いたい。この日本には特に広く。集団主義ムラ社会の中で激しい競争を演じてきた団塊世代以降では、自然に持つ世界観なのかも知れない。


(2016年1月の同人誌に初出)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日韓不幸の源   文科系

2019年09月15日 19時01分04秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 ちょうど五十年前の一九六五年六月二二日、日韓基本条約が調印された。この七月には、「アジア・太平洋戦争敗戦七十年」に関わって、安倍首相の新たな談話も出るようだ。去年だったか「ハルピン安重根記念館設立で、韓国が中国に謝意」というニュースに管官房長官が怒りの談話を発表したという出来事もあった。「伊藤博文暗殺のテロリストを褒め称えるとは、日本に対してなんたる失礼、侮辱!」と、正式抗議までしたようだ。そんなこんなで、この機会に日韓問題について、改めて思うところを書いてみたい。

 六五年の日韓条約合意は、締結までに十四年もかかった……。両国の立場が大きくかけ離れ過ぎていたからだ。その理由をたとえば六月一日の中日新聞が、二つの問題に集約できると述べている。この二つとは、①三五年間の植民地支配をどうとらえるかということ、②①の「賠償」についての名目と金額のことである。加えてさらにこの二つそれぞれに別の難問が付け加わってくる。韓国は①を明治維新直後からの日本武力侵略史と捉えているのだろうし、①も②も太平洋戦争以前の「歴史」問題であって、連合国による日本「裁き」とは別個に二国間交渉だけにゆだねられたものだったということだ。
 これらの問題をさらに難しくする対立点もあった。日韓条約交渉に臨んだ当初の日本側久保田代表が、韓国植民地化は合法的になされたとか、インフラ整備など韓国近代化に貢献したなど良いことも多数あったから在韓財産を請求できるはずだと語ったのである。韓国は当然、武力による侵略であったし、財産請求などとんでもないと反応した。このような対立、認識の相違こそ日韓関係を難しくしてきた原点、大元だと僕は観ている。
 この久保田発言は後にお詫び付きで完全撤回される。それなのに、この久保田発言の思想が今でもいわゆるネット右翼諸氏の理論の骨子であり続けているということが、興味深いところだ。難しくて当然なのである。朝鮮植民地化までに日本がどれだけ長く、どんなふうに武力鎮圧してきたかという歴史認識で、日韓間には大差がありすぎるからだ。痛みを与えた側よりも痛められた側がその記憶を消せない理屈である。この数年僕も調べてみたが、日本が朝鮮に行った以下のことなどを、日本人はどれだけ覚えているだろうか。
 日本の武力侵略は、明治維新直後一八七五年の江華島事件にまで遡ることができる。日本に置き換えて言えばこれは、「ペリー来航・即東京湾周囲を砲撃しつつ東京まで侵出」と言えるようなものであって、朝鮮にとっては大事件であった。大日本帝国軍隊初の平時外国常時駐留も、八二年に朝鮮で認めさせている。九三年の東学教徒反乱事件は日清戦争のきっかけになったものだが、日本軍がこのときどれだけの朝鮮人を殺したことだろう。九五年には、こんな大事件も起こった。夜陰に紛れて宮廷深くに忍び込んだ日本人が王妃暗殺という大事件を引き起こしている。日本の駐朝公使が主導して、王妃の死体に石油をかけて焼くというショッキングなものである。この背景の性質上、世界的な大問題になった事件でもあった。王妃・閔妃が初め清国と、次いでロシアと連携して、日清戦争後の反日機運に動いていたからである。首謀者は三浦梧楼日本公使。この残忍な行為に現れた反日行動への憎しみこそ、日本側の一部の人々がその後の日韓関係をどう理解してきたかを象徴しているように僕には思われる。

 安重根事件は一九〇九年にハルピンで起こったが、韓国の記念館パンフレットではこれを「ハルピン義挙」と呼んでいる。この問題の理解は難しい。当時の「法律」から見れば当然テロリストだろうし、今の法でも為政者殺しは当然そうなろうから。が、四〇年かけて無数の抵抗者を殺した末にその国を植民地にしたという自覚を日本側が多少とも持つべきであろうに、公然と「テロリスト」と反論・抗議するこの神経は、僕にはどうにも理解しがたいのである。「向こうは『愛国者』で、こちらは『テロリスト』と言い続けるしかない」という理解にさえも、僕は賛成しかねる。
 今が民主主義の世界になっているのだから、やはり植民地は悪いことだったのである。「その時代時代の法でみる」観点という形式論理思考だけというのならいざ知らず、現代世界の道義から理解する観点がどうでもよいことだとはならないはずだ。「テロリスト」という言い方は、こういう現代的道義を全く欠落させていると言いたい。当時の法で当時のことを解釈してだけ相手国に対するとは、言ってみるならば今なお相手を植民地のように扱うことにならざるをえないと、どうして気づかないのだろうか。僕にはこれが不思議でならない。こんな論理で言えば、南米で原住民の無差別大量殺人を行ったスペイン人ピサロを殺しても、スパルタカスがローマ総督を殺した場合でも、テロリストと呼んで腹を立てるのが現代から観ても正当ということになるだろう。


 一九一〇年の朝鮮併合は、こういう弾圧・反乱・鎮圧のエスカレートを高めていった四十年近い歴史の結末であった。朝鮮をめぐってここまで、初めは清国と争い、次いでロシアと戦った。今ふり返れば、ここから満州事変・十五年戦争までは既に指呼の間ということになる。朝鮮併合前四十年と併合後三十五年。この全体に対する真摯な反省が日本国民に生まれないうちは、正常化などうまくいかないにちがいないのである。


(2015年の所属同人誌に初出)
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆 “全体主義的感性”    文科系

2019年09月15日 18時45分56秒 | 文芸作品
 高校時代のある友人と昨日偶然会った時に、孫の教育で悩んでいるらしく、こんな話がいきなり堰を切ったように出された。同時にそこにいた同期女性の一人が小中教員だったからなのだ。
「近ごろの学校教育はどうなっているのかな。どうも戦後の米国流個人主義が日本人を駄目にしているように感じる。教育勅語を読んでみたけど、結構いーこと書いてあるよね」
 話はそこからどうも、個人に義務や道徳を強調し、教え込む必要というような話に移っていった。〈なんだか、安倍首相と同じだなー〉、僕は憂鬱になってしまった。

 そうなのだ、社会に不公正、犯罪、不道徳などが多くなると、誰かが上からタガを締めるべきというよくある発想なのである。誰が、どのようにタガを、が不十分なら当然、旧ソ連や北のような全体主義的「秩序」に繋がる発想でもある。人の内面が荒れる現実的な原因をきちんと問うていない場合にすぐに「心」が原因になって、ただ心を締め直せという安易な発想が出てくるとも言える。こういう人は、日本がまだ世界一安全な先進大国に辛うじて留まっているという点や、よってこういう世界的な社会悪傾向には世界的な原因があろうとも、観ようとはしていないのである。原因を日本国内だけに求めている口調がその証拠になる。そこで一計を案じた僕のある質問から、こんな討論になった。
「世界も荒れてるから、当分戦争は無くせないよね?」
「なに、君は戦争は無くせると思っているのか?」
「当然そうだよ。無くせない理由がない。『絶対に』ね」
「戦争は絶対になくならんよ。夫婦ゲンカもなくならんようにね。動物だってそうだし」
「やっぱりそう語ったね。ならば言うが、動物や人間夫婦の争いと、部族や国がやる戦争なんかが全部同じ原因で起こるという意味で、これらの背後に同じ本質を想定するのは馬鹿げている。そういう考え方は、既に誤りとされた社会ダーウィニズムと言うんだよ」
「君は絶対にと言ったね? 絶対の真理なんて語ることこそ、馬鹿げている!」
 そんな言葉を捨て台詞に吐き出して顔も真っ赤にした彼、向こうへ行ってしまわれた。ご自分も「戦争は絶対に無くならん」と語られたのは、お忘れらしい。僕もそうなのだが、こういうお方も短気なのである。

 さて僕のこの論法は、十年やって来たブログの数々の論争体験から学んだもの。個人同様タガが必要に見える国にも自然に戦争が想定され易い時代というものがあって、国同士の生存競争こそ国家社会の最大事と主張する人々が増えてくる訳だ。

 さて、ここが大事な所なのだが、「上からタガを締めろ」とか「国家の最大事は戦争、軍備である」と感じ、考える人はほぼ必ず政治的には右の方と僕は体験してきた。つまり僕のような「憲法九条派」がこういう人に他のどんな現実的政治論議を持ちかけても何の共通項もなくただ平行線に終わる、と。言い換えればこういうこと。いったん上記二点のような相手の土俵に入ってこれ自身を決着付けておかなければ、他のどんな「現実的」反論もすれ違うだけと体験してきたのである。個人の悪や不道徳などがなによりもまず個人の心の中から生まれると観るなら上から心を変えるしかなく、そんな時代の国と国との間では国連のような調整機関は無力と観て戦争も覚悟しなければならない理屈だ。
 この二つ(心のタガと、社会ダーウィニズム的「闘争」)は、いずれもそれぞれの問題の原因を現実の中に問うて、現実を変えるという道が見えなくなる考え方なのだ。それどころか、現実は悪、心がそれに抗していかねばならないという感じ方、「思想」と述べても良いだろう。いずれも、全体主義に結びつく考え方だという自覚は皆無なのであるが、僕は結びつくと考えている。ヒトラーも東條も、それぞれ優秀な民族が乱れた世界、人類を鍛え直すという意気込みを国民に徹底したと記憶する。そのためにこそこの戦争を聖戦として行うという決意表明、大量宣伝とともに。

 ちなみに、あの時代も今もその現実世界は同じこういったものと、僕は観ている。二九年の世界恐慌から、弱肉強食競争へ。強食から見たら子供のような弱肉を容易に蹴倒していける世界になって、普通の人々は生きるためにどんどん道徳など構っていられなくなっていく。今の強食がまた、普通の日本マスコミは報じないのだが、桁外れである。アメリカ金融の一年のボーナスを例に取ってみよう。二〇〇六年の投資銀行ゴールドマンの優秀従業員五〇名は一人最低一七億円もらった。二〇〇八年全米社長報酬トップ・モトローラ社長は、一億四四〇万ドル(約百億円」)のボーナスを貰った。これで驚いてはいけない。二〇一一年に出たある経済書の中には、こんな記述さえある。
『今でも、米国でよく槍玉に挙げられるのは、雑誌の個人報酬ランキングのナンバーワンあるいはナンバーツーになるウォルト・ディズニー社社長のアイズナー(数年前に、ストック・オプションも含めて五億七五〇〇万ドルという記録的な額を得た)……』(ロナルド・ドーア著、中公新書「金融が乗っ取る世界経済 二一世紀の憂鬱」P一四七)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京虐殺史実の決定版   文科系

2019年09月14日 15時30分47秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
「あんたも無知丸出しかい? 南京市民より死者が多い三十万人などというヨタ話を、ほんとに信じるの?」
 今度の相手も上から目線でこちらを頭から押さえ込んで来た。いつも同様、僕のブログの過去文章を読んでいないことも丸分かり。丁寧に反論する。

 ①虐殺直前に、日本軍がしかけた上海上陸攻防の大激戦が三か月続いた。そこの中国軍三〇万が揚子江すぐ上流の首都・南京城めがけて潰走し、日本軍がこれを我先にと追撃して出来上がったのが南京城包囲である。城の外、付近の住民も首都軍の庇護を求めて逃げ込んだし、膨大な人数に増えていて当たり前なのである。

 ②次いで、「あんな短期間にそんなにたくさん殺せる訳がない。日本軍はスーパー・サイヤ人か?」とのご批判。これには、こうお応えする。南京城壁は高さ一八メートルで分厚く、一方は揚子江。この城の限られた城門から全軍脱出が敢行されたのが一九三七年一二月一二日の夜から一三日朝にかけて。作戦は完全な失敗。揚子江を渡れた兵はごく少なく、膨大な数の捕虜はその後どうなったか。以降の日本軍中国南下作戦を考えれば、生かして放つはずがない。以降七年半の占領下早い内に、収容施設へ連れて行くように見せかけて秘密裏に殺したと考えるの普通だろう。三一年の満州事変の無法行為で国連を脱退したことを巡る国際的批判と、国内の戦意高揚とのためにも、秘密裏にということが大事だった。

 ③と、僕が返した反論には間髪を入れず、こんなご批判。「それだけ死んだら、死者名簿は? 慰霊祭は? なぜ家族の猛抗議はなかったのか? これらがいまだにないのは嘘である証拠! せいぜい二万人がイーところだな!」。まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇って来る。これもネトウヨ本の鸚鵡返しであって、勝ち誇ったこの態度も「自信」の顕れなのである。ただし僕は、一一年ここで闘ってきた勤勉な古参兵。こんなひょろひょろ弾に倒れる訳がない。
 当時の中国政府は、戸籍がないに等しく、兵士は浮浪者が多かった。それも、あの広大な全土から集められた人々。浮浪者が多く、戸籍がないなら、どうやって名簿を創り、家族に知らせるのか。しかも、以降一二年の中国は戦乱と、さらには国共戦争と政権分裂。日本の習慣で思い付いた訳知り顔の屁理屈に過ぎない。現に、中支派遣軍事前教育教科書にこんな記述がある。
『三三年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」中の「捕虜の取扱」の項には、(中略)「支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、特に兵員は浮浪者」が多いので、「仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し」と書かれていた(藤原彰『戦死した英霊たち』)』
(岩波新書「シリーズ日本近現代史全10巻」の第5巻『満州事変から日中戦争へ』加藤陽子・東京大学大学院人文社会系研究科教授、220ページ)

 ④すると今度はまた、こう返ってきた。「どんな理屈を語ろうと、死者数二万という学者の有力説もある。三〇万ははっきり嘘として、数をはっきりさせろよな!」。古参兵はこの数字弾のひょろひょろぶりもよく知っているから、こう反論するだけだ。
 確か小泉内閣の時に日中の学者が集まって虐殺数を検討する会議を持った。日本からも一〇名ほどが出たが、北岡伸一など政府系の学者らが多い日本側の結論は、二~二〇万というもの。なぜこんなに開きが出るのか。「虐殺犠牲者」の定義とか虐殺期間・地域などで一致できなかったからだ。特に虐殺に兵士を含むか否か。兵士の戦死は当たり前、虐殺の数には入らないと。が、これにも反論は容易だ。日本は中国に最後まで宣戦を布告をせず、地中あちこちから折り重なって出てきた膨大な若者人骨は捕虜を虐殺した証拠にもなる。以上から、日本の(政府系)学者らさえ二〇万人の含みを否定できなかったのである。


 さて、以下の内容がまた、以上すべてを裏付けるものである。

【 南京大虐殺、一師団長の日記から  文科系 2017年03月09日

「教育図書出版 第一学習社」発行の「詳録新日本史資料集成 1995年改訂第8版」という高校日本史学習資料集がある。これをぱらぱらと見ていて、南京大虐殺の資料を新たに一つ発見したので、ご紹介したい。408頁に南京攻略軍指揮官の中島今朝吾(けさご)第16師団長日記というのが載っていた。そこの全文を書いてみる。

大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ、千、五千、一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ、唯彼等ガゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ、之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ、部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ、十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ。シカシナガラ戦勝直後ノコトナレバナカナカ実行ハ敏速ニハ出来ズ。カカル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ、参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ。
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊ダケニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇、其仙鶴門付近ニ集結シタルモノ約七、八千人あり。ナオ続々投降シ来ル。
一、コノ七、八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ、中々見当ラズ。一案トシテ百、二百ニ分割シタル後、適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ。』

 高さ18メートルもある分厚い南京城壁の限られた門から一夜にして日本軍包囲網を脱出しようとした中国軍兵は、その多くが捕虜になった事が示されている。どうせ逃げられないから、捕虜になって助かろうという態度にさえ見えるのである。ところが、これを最初からの方針として、全部殺してしまった。あちこちに分けて連れて行って殺し、埋めたということなのである。そもそも冒頭のこの部分が僕がこのブログで強調してきた要注意か所と言える。

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレドモ」

 最初から捕虜は殺す方針であったことが明確に述べられている。酷いもんだ。こんな資料があるのに、ネトウヨ諸君の種本論客達は、兵士虐殺を否定してきたのである。一師団長が聞いただけで彼等がよく語る「せいぜい2万人」などは、優に超えている。すべて世界に向けては、いや南京攻略兵にすら秘密の仕業であった。なんせ、上の手記にあるように師団長すら虐殺の全貌は知らないのだから。少し前にあった満州事変に対する国連非難囂々に懲りていたのだろう。また、国民の戦意高揚のためにも、敵への残虐行為は極力秘密にするものだ。実に卑怯、姑息な日本軍である。もっとも命令を出した奴らが卑怯、非道なのであるが・・・。】
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本サッカー選手の世界的大成への条件   文科系

2019年09月14日 12時18分08秒 | スポーツ

 11日に「中島翔哉を巡る過去の大論争」をエントリーしました。このエントリーは、4年ほど前にここで行われた中島翔哉の将来性論争で僕が勝ったと、今は分かるという話です。このほかにもこのブログには同種のことがいろいろありました。中田ヒデのこと、岡崎のこと、岡崎に少し遅れて、長谷部が世界的名声を得るまでのこと。さらには、香川の、中村憲剛との代表コラボで日本サッカー史の未来を指し示すような得点を挙げた10年のパラグアイ戦ゴール以降のこと。

 さて、若手選手の将来性って、どこで見るのでしょうか。まずとにかく、サッカー選手を見抜く重要ポイントをいろいろ上げてみなければなりません。
① 止める蹴るなどのプレーの、速さ正確さ。いわゆるアジリティー。これはまず、誰でも強調することですが・・・。
② 広く正確に相手が見えて、それに合わせてその都度、的確な戦術展開ができること。ヒデ、遠藤などで、いつも強調されてきた能力です。これは守備面でも重要なもので、長谷部がドイツで高評価を受け続けている第一の原因にもなっています。
③ 身体の強さ、ダッシュを繰り返せる走力など、身体能力。これもヒデ、岡崎で強調され、逆に①も②も十分すぎるほどあった宇佐美が、大成できない理由に上げられたことです。
④ 以上の世界水準や世界一流チームの戦略などが見えて、これらについて自分の長短を知り、早いうちに修正・強化できる思考力。

 さて、①番は案外大切なものではないと、僕は考えます。若い頃は普通のプロ技術程度で良い。というか、技術全体は下手でも何か一つ特殊な技能があれば良い。そのことは、ヒデと岡崎が教えてくれました。普通の日本人優秀選手としてですが、①よりも、②③の方が遙かに大切なのだと。ヒデ、岡崎、長谷部、遠藤ら世界的な選手に②③がない人はいませんから。

 中島は、エントリーにもあるように、②の点ではかなり晩稲だったと見ています。財前や前園を見ても分かるように、ドリブルがうまい選手はどうしても視野が狭くなる。そこを20歳以降になってどんどん修正できた中島は、非常に賢い選手だと思います。つまり、④が素晴らしい!
 ③ですが、これが日本の評論家などに最も見えていなかったこと。ヒデ、岡崎、長谷部の大成には、このことが必須条件であったにもかかわらず、この点を見る専門家が案外少なかったのが日本の現状だったと思います。さらに付け加えると、ダッシュを繰り返す力は、20歳前になって鍛えようとしても生理学的にもう遅いと言われています。その代わりと言っては何ですが、筋力は高校生以降になってこそ初めて鍛えられ、20歳をかなり過ぎても十分に間に合うと、これも生理学の知見です。


 さて、そんなわけで、日本人の世界的名選手の18歳頃の姿を、以上①~④について改めて振り返ってみるのも一興というわけで・・・。その頃の同年齢の日本代表選手の平均能力を標準として、それと比べてみようという趣向です。

 中田英寿 17歳頃までは①的には彼より上の選手は、多かったということです。財前、前園らのことです。ただ、③はありました。そこから、16歳の時までに④を積むにつれて、18~19歳には非常に優れた②と、①「止める蹴る」やパス力を身につけて行ったと、これは有名な話。俊輔が往時のヒデを語った表現にこんなのがあります。
『ヒデさんがドリブルで走ったとき、止めようとする相手をどんどん蹴散らして、奪われるかと思ってもまた蹴散らして、最後にギリギリの好パス。ぜんぜん全く、日本人っぽくない』

岡崎慎司 20歳過ぎまで平凡な、特に「下手な」選手と言われていました。FWとしては脚も遅く、けっして器用とは言えないような。ただ、ヘディング能力と、走り続けられる力には非凡なものがありました。ちなみに、08年頃ここで彼に目をつけ始めたのは、このヘディングに驚かされたことがきっかけでした。彼が、チームのレギュラーになるとほぼ同時に、フル代表選手から日本代表エースへと駆け上がっていった08年前後にはこんなことがあったと、これは有名な話。400メートルリレーの元オリンピック選手、杉本龍勇に通い詰めて、ダッシュ、走り出しなどの身のこなしを教わったこと。これが、岡崎の選手生活に革命を起こしたと、清水エスパルスでは語り草になっている話です。この杉本氏、今はもう、多くの代表選手らの個人トレーナーをやっています。

中島翔哉 若い頃からのドリブルお化けでした。ただ、視野が狭く、FC東京時代にさえ同僚の大久保からよくこう言われていました。「彼がもう少し周囲を見て、使うことができたら、すごい選手になるのに・・・?」。この時の大久保は、川崎のパスサッカーで再教育されて2年連続得点王になって、30歳過ぎに大成した中山ゴンを思わせる名選手。その大久保から、川崎の高水準のパスサッカーには全く合わないなと中島が批判されたわけでした。当時、スペインサッカーを取り入れようとしていた日本では、致命的な欠陥にも見えます。東京でレギュラーがとれなかったのは、この点と防御ができないと見られていたことが関わっていたのではないでしょうか。公称167センチですが、実は164センチという身体もハンディになっていたはずです(城福監督のチーム戦術に合わなかった?)。今はパスもしますし、十分に防御もできます。ただ、あれだけドリブルで崩せればこれに相手2~3人を引きつけてパスというのが、相手を崩した得点への効果的戦略になるはずです。なお、彼については昔から一つの特技がありました。ゴールに向かって左45度からの中長距離シュート。僕が彼に目をつけ始めたのは、国際大会でのこれを2本見たことがきっかけになりました。


 最後に一言。上のようにいろんな選手の歴史などをすっと思い出して、書けるのは、ここで15年もそれぞれを追いかけ、調べ、学び、思いだし、そして書き続けなどをしてきたから。その意味ではブログというものはとても有り難いものと、感謝しています。何よりも、記録が残り、それがいつでも簡単に取り出して、読めるから。これは、記憶力がなくなった78歳の、この身には、この上なく有り難いものなんです。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米政府9・11『報告』は偽りと、また一つ   文科系

2019年09月13日 17時43分58秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など
 一昨日11日はアメリカを揺るがせた「9・11『テロ』」の18周年。この事件、未だに政府解明内容自身が陰謀という説が後を絶ちません。そういう疑惑の焦点は、常にここ。
「飛行機がぶつかっただけでビルの鉄骨すべてが、あのように『一挙に』メルトダウンするわけがない」
「あれだけのアメリカ屈辱事件なのに、FBIとかCIAとか安保・治安・情報当局などの担当者が誰1人とがめられていないのはなぜなのか?」
 そういう政府解明への最新の権威ある反論を「マスコミに載らない海外記事」のサイトから転載してみました。


【 瓦礫と化したWTC7ビル崩壊の公式説明 2019年9月4日 Paul Craig Roberts

 リロイ・ハルシー博士、Zhili Quan博士と、南京科学技術大学土木工学学科の肖鋒Feng Xiao教授が率いるアラスカ大学の土木・環境工学部の研究チームが、昨日公式コメントとして、2001年9月11日のワールド・トレードセンター第7ビル崩壊に関する彼らの四年にわたる研究の調査結果を発表した。これは建物崩壊に関する初めての科学的調査だ。以下が結論だ。
 「我々の研究の主要結論は、崩壊を調査した国家規格研究所や民間エンジニアリング企業の結論に反して、火事は、9月11日にWTC7の崩壊を起こしていないということだ。我々の研究の第二の結論は、WTC7の崩壊が、建物の全ての柱のほぼ同時の崩壊を伴う全体的崩壊だったということだ。」
 三点に注目願いたい。(1)イスラム教テロリストのせいにされた建物の破壊の本当の調査には18年を要した(2)「建物の全ての柱のほぼ同時の崩壊」が起こり得る唯一の方法は制御倒壊だ、そして(3)この注目に値する調査結果は売女メディアは報じない。
(中略)

http://action.ae911truth.org/o/50694/t/0/blastContent.jsp?email_blast_KEY=1403010
 フランクリン・スクエア・マンソン消防区域のこの決議に注目願いたい。
 2001年9月11日の攻撃は、フランクリン・スクエア・マンソン消防署と、密接かつ永久に結びついている。
 2001年9月11日に、ニューヨーク市のワールド・トレードセンターで活動する中、ニューヨークのフランクリン・スクエア・マンソン消防署フック・アンド・ラダー第一部隊、バッジ番号290の消防士トーマス・J・エッツェルが、他の2,976人の緊急時応対者や一般人とともに、業務遂行中に死亡した。
 フランクリン・スクエア・マンソン消防署のメンバーは、ワールド・トレードセンター現場で、救出と復旧作業と清掃を支援するよう要請されたが、現場にあった致死毒素を吸い込んだ結果、彼らの多くが生命にかかわる病気で苦しんでいる。
 フランクリン・スクエア・マンソン消防区域の消防審査会は、2001年9月11日のワールド・トレードセンターでの訴追されない連邦犯罪を訴えるニューヨーク南地区連邦検事への請願の重要さと切実さを認め、連邦検事に対し、アメリカ憲法と合州国法典18.SS3332(A)に従い、特別大陪審に請願書を提出するよう要求する。
 当該請願書で提出された確かな証拠は、飛行機とその後の火事だけでなく、事前に仕掛けられた爆発物、および/あるいは発焼剤が、当日亡くなった被害者の圧倒的多数を殺害した、三棟のワールド・トレードセンタービル崩壊を引き起こしたことをいかなる疑いの余地もなく明示している。
 9/11犠牲者、彼らの家族、ニューヨーク市民と我が国は、2001年9月11日攻撃に関連するあらゆる犯罪が完全に調査され、責任ある全員に公正な裁きを受けさせるに値する。
 よって、フランクリン・スクエア・マンソン消防区域消防審査会は、あの恐ろしい日の出来事をめぐる完全な真実を調査し、暴露する他の政府機関によるあらゆる努力と同様、完全に包括的な連邦大陪審調査の全面的支持と、2001年9月11日の攻撃に関連する全ての犯罪の起訴を決議する。


 Paul Craig Robertsは元経済政策担当財務次官補で、ウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者。ビジネス・ウィーク、スクリップス・ハワード・ニューズ・サービスとクリエーターズ・シンジケートの元コラムニスト。彼は多数の大学で教えた。彼のインターネット・コラムは世界中の支持者が読んでいる。】
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今、ブログ討論への戒めとして   文科系

2019年09月13日 16時50分43秒 | その他
 ブログも当然、討論の場所。それも、認識を深めるべき討論の場所のはず。すると、当然、それに相応しいやり方があるというもの。それはやはり、学問研究やその討論のやり方を見習うというか、それに準じるやり方が良い。そんな観点から、名無し君にお答えした拙稿を改変してここに再掲してみます。大事なことなので・・・。 


 皆さんに、名無し君コメントがいかに悲しいものかを示してみたい。僕が書いている、信頼できる良い文を書くこと、そのための方法について最も大事なことが全く理解できない、無知・無理解があります。

 まず、「相当先の話」と「足下の問題」との関係。これは単に時間的な後先などと言う問題などでは全くなくって、思考、論理の問題だということが分かってもらえなかったということ。会社などでいう、長期方針と目先の明日の仕事との区別のような。方針、思考上の目先は、すべからく中長期方針(の思考)を実現するため、これに縛られてあるもの。この区別をしたことがなく、長期目標と今の仕事との区別もつかない思考、論理もあるとは知っていたが・・・情けない。
 もっと言えば、社会のことで理念、目標など中長期問題を見たり考えたりしたことはほとんどないらしく、単なる「今の現状社会で基本すべて結構」という保守、それも言葉通りのそれだけの頭脳を示していないだろうか。
 すると当然、反論コメントはこんなのばかりになるはずだ。
①相手の言い分の中心点は何も語れず、枝葉のところで「矛盾している」とかのあら探しか揚げ足取り「反論」だけ。
②反論の一助として「これを読め」とよく言ってくるが、それについては以下。
③というような反論しかやってこないのに、ご本人は何か気の利いたことを語っているつもりだから、困ってしまう。

 さて上の②である。現職アメリカ大統領を筆頭としてフェイクニュースがあふれている今、彼の以下の言葉は極めて重要である。
『読めと言われたネタは、絶対読まない宣言の文ちゃん』
 別のところでも述べたように、社会や人間の明日を語る人文社会系の学問・討論では、信頼に足る文献こそエビデンス。フェイクニュース大はやりの昨今では、実証的に見える歴史知識でさえ、誰の本から取ったものかは、極めて重要なことなのだ。僕が彼に返したのはそういうことで、何の信頼もついて回らないどころか、著者さえ書いてないただのネット文章を読めと言われて誰が読むかという話である。
 それも自分が要約なり何なりしてみせればよいのに、その努力もできないらしくてこれを省いてしまって、他人に「あれ読めこれ読め」とネトウヨ文献のすすめが右翼の専門。 そんな人々に返した言葉を、すべての文献を僕が否定してきたと彼が曲解・断言していると、そんな馬鹿馬鹿しいお話でした。彼がチョムスキーとかケインズ、ラッセルの文章とか、森嶋通夫、進藤榮一、孫崎享の文章とかを名前付きで指定してきたら当然読みますよね。というように、人が薦める文献によってその人の言い分の質、思考の深さ、知性程度自身さえも分かる人には分かってしまうというのが、学問の世界。普通の討論でも信頼に足るものにしようとしたら、できるだけこの学問手法を踏まえるべきだと、僕は言ってきたのでした。

 なお、文献の献って、賢ともかくのだそうで、「研究資料になり得ru+もの」のことなんです。広辞苑にそうありました。

 さて、以上は当然ご当人には馬の耳に念仏、蛙の面にナントカ。これは百も承知で書いたこと。だが、真剣な長文を、15年近く書き続けてきた身としては、そしてそんな長文に対して今は週間累積アクセス3000前後になっているサイトとしても、今念を押しておきたかったことなのでした。一つの信用問題ですから。
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝、ボルトン解任  文科系

2019年09月12日 08時18分20秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 一昨日夕刊から表記のことが伝えられて、僕は本当にほっとして、同時に嬉しくて仕方ないのだが、その次第、心中を描いてみたい。

 ボルトンはトランプ政権2年半で3人目の国家安保担当大統領補佐官。去年の4月就任以来まーなんと世界を荒らし回ってきたことか。その逐一をここにもエントリーしてきたが、こんなやり方であった。

 まず「世界一多量の石油があるから」と彼自身公言までして、ベネズエラに対して「武力介入もあり得る」! その上、これと並んで二つの大作戦まで敢行してきたのだった。一つは「隣国コロンビアから米援助物資を搬入するから、その日に国民は立ち上がってくれ」大作戦。今ひとつは、「何月何日にベネズエラ軍が反乱を起こすから、国民は立ち上がってくれ!」。これは軍人部隊が走り回る予告編映像の流布とか、間には、失敗に終わった対ベネズエラ武力介入有志国募集のための中南米会議招集とかもあった。もっとも、コロンビア、ブラジルでさえ反対して、武力行使連合はご破算になったのだが。
 なお、これら舞台がいずれも、アメリカが勝手に決めたファン・グアイド大統領を押し立てた公然たる反乱呼びかけだったが、すべてグアイドがピエロに成り果てて終わっている。

 次が、イスラエルやサウジと連んだ対イラン戦争工作。ベネズエラに対してと同様に、ここでも「参戦有志国募集の国際的呼びかけ」まで執拗に努めてきた。イラク戦争の時と同じあの有志国連合創りである。日本タンカーへの攻撃だとか、「シリアへの石油輸送はEU制裁違反だからと、イラン・タンカー没収」事件から、米、イラン双方の無人飛行機の撃墜などなど次々ときな臭さを演出しつつのことだった。この数々の戦争準備、動機創りに至っては、まるで中学生の学芸会演出かという感さえ持ったものだった。なお、イラク戦争には参戦した日本が、今回は体よく参加を断ったのには心底ほっとしたものだ。

 そして最後が、9・11以降アメリカ最長期間に及ぶ戦争を続けているアフガニスタンである。停戦、米軍撤退を巡って、ボルトンが大反対。結局このアフガンのボルトン独断専行が、大統領選挙を控えたトランプの目に「いくら何でもやり過ぎ!」と映ったようだ。

 というようにこのボルトンは、自ら敵視した国に対しては過去イラクやアフガンに対したように「体制転覆」戦争をいつもちらつかせてきたのだった。単なる制裁を踏み越えた嘘の理由をでっち上げてまでの戦争工作とは、さすがにイラク戦争時のラムズフェルド直下の部下だっただけのことはある。そういつも思っていた僕から見た彼は、「マッチョ・アメリカの威信のためにはいつでも戦争」という狂気の筋肉男だ。ちなみに、アメリカの前国防長官マチスは就任の遙か前から長く「狂犬」と呼ばれて来た将軍である。

 さて、そんな彼が退けられた。ベネズエラ、イラン、アフガニスタンなどなどに関連する各国で彼と連んで来た人物が、今後力と信用をなくしていくにちがいないのも、嬉しい。嘘の理由で開戦したイラク戦争や トランプがすぐ終えると公約しながら未だに続いているアフガニスタン戦争も含めてそんなことが重なってきたのだから、今後アメリカの誰を信じたらよいのかという疑心暗鬼も、アメリカ同盟国などにさらに深まっていくだろう。これだけ閣僚が替わるトランプ政権とは、結局そういう政府。そういう信頼のなさも、トランプ政権誕生からすでに分かっていた、アメリカ斜陽の一環、象徴と言える。
 この9月下旬には国連総会もある。総会パフォーマンスを大統領選挙に結びつけたいという今のトランプの最大関心事も、これでおそらく成功はなくなった。 

ベネズエラ、イラン、アフガニスタン、シリア、カタール、そして韓国のみなさんにも、心からお祝い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島翔哉を巡る過去の大論争  文科系

2019年09月11日 04時15分25秒 | スポーツ
 今でこそ大迫と並んで日本攻撃陣のエース、中島翔哉だが、ここでは彼をずっと注目してきた。その初めてころ、今から4年ほど前の1月、こんな大論争があったと振り返るのも一興というわけで・・・・。ヒデや岡崎の例も出てきて、まー激しい論争だったこと!

【 ハリルジャパン(48) 中島翔哉! 文科系 2016年01月31日 | スポーツ
 五輪アジア予選の日本優勝で、中島翔哉選手が大会MVPに選ばれた。この選手、大変なハンディがあるが、素晴らしい才能だと思う。ハンディというのは、このこと。背丈が164センチしかないのである。長友佑都でさえ170センチだから、普通なら誰でもが難しいと言うだろう。(中略)
 まず、当たりがとても強いから期待できると言いたい。次いでテクニックは、この大会でのイラン戦2得点や、ボール奪取技術に見るように、十分。この彼には、さらに二つの特徴が加わっていく。一つは、164センチ64キロという身体を真っ向から打ち消すような大変な大志。「バロンドールを取りたい」と広言していると聞いた。それに、何よりも、いろんな応対の言動を見ていると、非常に頭脳明晰に見える。多分これら全てを認めてのことだろうが、手倉森監督がこのチームの10番を中島君に付けさせているということも、参考資料の一つにさせて頂いた。僕がそれだけ手倉森を買ってきたからである。特に、仙台時代の彼のことを、ここで何度も扱ってきた。
 この中島君は21歳。僕の将来予想は、岡崎と香川では当たっているが、彼らと同様の期待をしたいのである。頭脳が特に、ヒデやオカ並みと総合判断をしている。
(後略)】

『 悪いけど無理笑 (X氏) 2016-01-31 11:35:52
 MVPを貰えたのは審査員の目の錯覚だな。とにかく全試合通じて攻守に穴。相手の身体が動いてる内は何も出来なかった。
攻撃ではドリブルが下手。本人は好きみたいだけど。欠点はボールの置き方。必ず相手が届く位置に置く。そして狩られる。ドリブラーとしては致命的。イラン、イラク、韓国共に狙われそして狩られた。パスの視野も狭い。だからサイドで起点にならない。日本の中盤が機能しなかった大きな原因になった。
守備は他の選手と同じ。ポジショニング、カバーリング、アタック共に落第。そもそもサイドから崩された相手攻撃の入口になっていたからね。FC東京で出番が無いのは頷ける。
この年代でJ1でレギュラーになれないというのはかなり不味い。世界処の話ではないから。
ボランチやSBとの連携を含めクオリティはかなり低いプレーヤーだった。MVPはイラン戦の派手な得点が決め手だろう、それはおめでとうだがOAの補強ポイントだな。今回の選手で及第点をつけられるのは、久保、南野、櫛引の3人と育て方次第でオオイナウだろう。
大苦戦の原因になったDF、MFはとても及第点をつけられる選手は居ない。勝ったからオブラートに包まれるだけ。』

『男子3日会わざれば・・・ (文科系) 2016-01-31 13:35:11
 君を意識してこのエントリーを書いたから、こういうコメントが来ることは、覚悟の上だったのだ。その上で以下を・・・。
「男子3日会わざれば刮目して見よ」
 この場合の男子とは「それらしい男子」という意味だと解してきた。つまり、頭脳の問題。サッカーもスポーツ。最後は身体で覚えるが、その身体を頭で導かなければけっして名選手にはなれない。例えば、ヒデの例をあげてみよう。最初に当時の若手代表最高の名手・財前が出会った時には、彼がヒデに面と向かってこう評したもの。
「トラップ止まらへんなー」

 ところが、17~19歳のころに激変が起こっている。パスを受ける人間からパスを出す人間に変わっていったと。これは宮本の言葉。①世界標準で自分を分析して何が足らぬかを正しく見つめられ、②その修正方法を正しく設定でき、③賢く、粘り強く短期間にこれを直すことが出来る。ーーそんな力と言えよう。
 君が言う欠点を中島は確かに持っている。視野が狭いのである。これがこのチーム全員の欠点でもあるとは、僕もここで何度も書いてきたことだし、昨日中島自身がこのチームや自分の最大の欠点と総括として語っている映像にも出くわしたものだ。もっともこんなことは、ヒデや俊輔、遠藤を観ていれば分かりそうなものだけどと僕は思うのだが、まー難しいことなのだろう。足元をなるべく見ないで、フィールドを出来るだけ見たり、2秒後のその動き、変化を正しく予測するという能力のことだが。

 21歳はサッカーでは確かに若くない。でも、下手くそ岡崎が世にで始めたのは確か08年、22歳の時と記憶している。ということがあるから、今の時点に目が曇らされてもいけないと思うのだ。
 勿論僕が恥を掻くかも知れないが、まーお互いの目をお互い信じながら見ていましょう。そんなのもサッカーの面白い見方でしょ。
』 

『比較の対称が違うな (X氏) 2016-01-31 14:20:14
岡崎や香川、ましてヒデ?
そのメンバーの21、22の頃の実績とは比較にならないよ。先ずチームでレギュラーにならないことにはね。比較も何もあったもんじゃない。サッカー頭脳に関しても同じ。それが良ければ今回のようなプレーは無い。もちろんある程度の伸びしろはあるだろうが今までの五輪代表によくある2~3年後には、そういえばそんな選手が居たなという可能性の方が大きいね。残念ながら。何故そう思うか?
これといって通用する武器が無いんだよ。技術、フィジカル、頭脳と。中盤の話で言えば対面の韓国選手の方がはるかに上だったが、それでも同年代のブラジル、メキシコ、アルゼンチン、ポルトガル、ドイツ等リオ五輪に出てくる選手の足元にも及ばない。
これが現実。だから将来の話をするならば、先ずはJでレギュラーになってからだね。それも無理な状況では殆ど話にならないから。』

『例がある (文科系) 2016-01-31 14:45:04
 ヒデや俊輔は君の言う通り。だけど、君が否定した大人物が一人いるよ。岡崎慎司ね。清水でレギュラーを取ったのと、代表に出てきた時とがほとんど重なるのね。入団後3年近くは、レギュラーにも遠かった人ね。それが今は、ヒデはともかく、俊輔、遠藤、高原よりも確実に上でしょ。

『Unknown (X氏) 2016-01-31 15:44:17
ま、ポテンショナルの問題だね。
いろいろと…』

『ポテンシャル? (文科系) 2016-02-01 19:13:40
 ポテンシャル? 僕が言うポテンシャルって、プロとして普通の技量と身体があるならば、結局、頭脳だよ。
 必要な時に、必要な頭脳がある奴は、ある時に急に化ける。化けられる時期というものがあるけれど、それも巾があるのね。
 ヒデは、16歳でナイジェリアを見てびっくりした。そこから19歳ほどまでに、世界的ポテンシャルを身につけていった。だから20歳にして、日本を初めてWCフランス大会に連れて行くことが出来た。
 岡崎はおそらく北京オリンピックだ。Jリーグもろくに体験していない彼だったから、そこの強い当たりにさぞ驚いたことだろうが、すぐに適応できたのが彼の頭の良さを示している。そこからほとんど期間もなく、あっという間にWC南ア大会予選段階で化けたよね。彼の唯一の世界水準、ヘディング技術を最大限に生かす戦術を見つけていったわけだ。WC南ア大会予選段階の世界得点王になったことは知ってるよね。目立たなかったけど、日本としては釜本以来の国際大会大エースに既になっていたわけだ。こうして岡崎が伸びたのは、21~2歳の時。ヒデよりも遙かに遅いけど、もっと急激に伸びた。なんせ、FWだからね。
 ポテンシャルって、結局結果論。急激に伸びていきそうな奴が現れたら、目を向けようと言う事ね。頭が良さそうな奴は、それが言葉に表れると僕は観てきたけど。』

この論争まだまだ続いて、25のコメントがつきましたが、ここで終わっておきます
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜寿ランナーの手記(265)足底筋膜炎など慢性疲労痛はとても怖い!②  文科系

2019年09月10日 00時09分33秒 | スポーツ

 足底筋膜炎休養後、初のラン

 診断が下ってからかっきり中1週間の完全休養をとって、昨日9日初のランをやってきた。まだ十分に走ることができるこの小さな痛みが思ったよりもはるかに難しいもので、1週間の休養を取ってもまだ残っていたのだ。が、氷冷やしとか、ストレッチ体操とか、日常生活では医者が出してくれたサポーター着用とか、いろんな努力をしてきたこととて、恐る恐る、走りに行った。
 ここらの決断、その背景になる判断力は、過去いろんな故障、痛みに出会って対処してきた経験的知識によるものである。つまり、こういう勘のない人は無理をしない方がよい。

 8・2キロ走った

 本当に恐る恐る走った。いつもの靴に厚めのインソールを初めて入れた上に、靴紐を緩めて、足前方の靴指部などを十分に押し広げて。まず初めは15分、1・9キロほど走って終わり、ちょっと様子を見る。大丈夫そうだったのでまた15分だけ走って、ここまでの合計4キロジャスト。ちょっと休んで痛みとかを見たら大丈夫そうだったので、今度はほぼ普通に走った。7・5キロ時を基本として、8~9・5キロ時まで上げるインターバル30分で、4・2キロになった。あとは慎重に一般ストレッチと、患部ストレッチを入念にやって、帰宅。
 帰宅して驚いたことには、走行中とか直後よりも痛みが増している。あわててアイシングに努めたら痛みは前日よりも治まったから、多分この分では明日も走れる。走行前よりも走行中は痛みが減って、走行後少ししたら走行前の痛みに戻ったという感じだったのが、アイシングでほぼ痛みを感じなくなったからだ。そこで気づいたことが以下である。

 慢性疲労故障はとても怖い

 慢性疲労痛などは、とても対処が難しいものだと、改めて痛感した。これでは、足底筋膜炎とか足部疲労骨折などでランナー断念が、特に高齢者に生まれるわけである。痛みは、まだ十分に走れるとたいしたことのないものだが、治すのは大変時間がかかるのである。「もう走れない」ほど痛くなってやっと医者に行ったのでは、長期の完全ブランクを強いられるはずだ。筋膜炎なら1か月でもだめ。疲労骨折なら、数か月を棒に振るのではないか。いずれも周辺がボロボロになっているのに、痛みがそれほどではないからだろう。
 思えば僕は、この病気がランナー断念になるものと知っていたから、ごく軽い痛みで医者に行けたのである。そして、今の段階ではもう、こう振り返ることができる。この痛みはかなり前からあったが、一進一退で進行が遅く、痛みとしてはっきり意識したのは医者へ行く1週間ほど前だったのだなー、と。

 僕の今後もご用心ご用心、である。中1日置きなどといわずに、今度は3日置き、当面は最低2日置きほどで走ろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする