たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『エリザベート』_2012年宝塚ガラコンサート

2016年01月07日 21時42分36秒 | ミュージカル・舞台・映画
 一昨日久しぶりに2012年宝塚ガラコンサートのDVDを観ました。DISC1、伝説の1995年雪組初年メンバーバージョン。

 一路さんトート、花ちゃんシシィ、高嶺さんフランツ、轟さんルキーニ。

 この時の成功がなかったら、その後宝塚、東宝で繰り返し上演されることはなかったと思います。初演から16年の歳月を経てのガラコンサート。何回観ても感無量です。『エリザベート』は楽曲が素晴らしく、その素晴らしさを体現できる役者、オーケストラ、スタッフ、観客・・・全てがそろって創り上げられる舞台なのだとあらためて思います。

 初演を観ていることは宝物のひとつ。

卒業論文_序章

2016年01月07日 14時37分18秒 | 卒業論文
 私に膨大な長さの卒論を書かせたのは「怒り」だと指導してくださった先生がおっしゃいました。当時自分では自覚していませんでしたが、労働紛争も経た今振り返ってみると、2001年6月に働き始めた大会社のひずみを、過重労働になる前からすでに敏感に私は感じ取っていたということになります。日々の就労の現場で感じ取っていたことがそのまま卒論につながっていきました。2003年の春頃派遣元移籍という違法行為をし(これってまったく珍しいことではないことを労働紛争になってから知り驚きました)、過重労働に陥っていかざるを得なくなり、結果的に4年ぐらいかかってかきあげました。いつ終わるかわかりません。長文になりますが載せていこうと思います。よろしければお読みください。

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混み合う電車に押し込まれ
ガラスに額をつけたまま
大きなため息をついたら
なお気がめいる

どんなに悲しい夜ばかり
過ぎても会社に着いたなら
笑顔を振りまいて
Jokeの一つもとばす

何を求めて明日を探せばいいのか
大きな海を漂う木の葉のようだわ

仕事を始めていたずらに
時間が流れていくけれど
けじめと名のついた
卒業証書がほしい

誰もが自分の生き方を
見つけて歩いてゆくけれど
私は変わらずに
私でいるしかできない

『電車』作詞・作曲/岡村孝子 編曲/荻田光雄(1987年)

「電車」というタイトルがつけられたこの歌は、しんどい「OL」の心情をよく現していると思う。今や職業との関係を抜きにして女性の人生を語ることはできないが、働く女性の代名詞ともなったいわゆる平凡な「OL」、つまりキャリアではない「女に適した仕事」に就いている女性にとって仕事は働きがいのないもののように思われがちである。働いている女性自身もそう思っている。「OLなんか続けていても、何の将来性もないし。ただ古いというだけで認めてもらいない仕事でしょ。事務って・・・」。 1) 35歳独身、大手生命保険会社に14年間勤務している女性のことばである。

 短大卒業後地方銀行に10年間勤務した作家の唯川恵は,OL7年目の心情をこう書いている。「私にもいちおう7年のキャリアがあります。だけどキャリアなんて言葉を使うのも気恥ずかしいぐらいの仕事です。いつまでたっても補助的なこと。やりがいのある、なんて口にもできない」。 2) つまらない、やりがいが感じられないとなれば、結婚した女性は、「仮にOLを続けたとしても、昇進でも昇給でも確実に男性社員と差をつけられる。家事との二重負担に苦しみながら続けるには割に合わない」(35歳専業主婦) 3)ので、家事や育児に専念した方がまだしも魅力的に思われてくるのである。

 女性雑誌には、やりがいを求めて華麗なる転身をした女性が紹介される。添付の資料にあるように、例えば、「入社3年目は女の転機、やりたい仕事つかむ 人生リセット作戦」 4)「アンアン読者107人から聞いた仕事白書-これを読めば、やりたい仕事、自分に合った仕事が見えてくる」5) 「コレが転職してキャリアアップする人 私たち転職したので毎日仕事が楽しいです!!」6) など、「OL」の仕事はつまらないもので転職してやりがいのある仕事に就かなければいけないかのように思わせる誘惑の数々が巷には溢れているのである。

 「OL」というと、結婚までの腰掛としてお気楽に働く職場の花、コピーとりとお茶汲みだけでなんら生産性のある仕事をせず、男をみつけるためだけに会社にいてチャラチャラおしゃれしているような人、というイメージがあり、「OL」という呼び名は、何だか屈辱的なものに感じられた7) と、「OL」からエッセイストへと転身した酒井順子は言っている。『好きを仕事にする本』の中で、「OL」からリフレクソロジストへと転身した25歳の女性は、以前は警備会社で営業事務をしていました。当時は仕事内容があまり自分に合わず、毎日「本当の自分ではないな」と感じながら働いていました8) 、と言っている。

 「OL」から一般にイメージするのは事務職従事者であるが、「OL」が毎日オフィスの中で、実際にやっていることは、実に様々で細々とした「雑務」が多い。男性は仕事、女性は家事を担うという性別役割分業が徹底していた日本型企業社会において「OL」に求められてきたのは、基幹的な作業を担う男性や上司の補助をする「女房的役割」であった。そのため、「OL」の職業活動は、社会の中で積極的に意味のあることを自分のため、世の中のためにやっているのだという働く人間としての実感と納得が得られにくいものなのである。そのため、今ここにいる私は本当の私ではない、という思いが強くなる。高校卒業後地方銀行に就職した私は、4年目の秋の日記にこう書いている。「私はなんだかいてもいなくてもいいような
存在、やりがいのあることをやってみたい」。

 しかし、私自身も含めていわゆる「OL」の仕事はそれほどつまらないだけのものなのか、無意味なことなのか。会社にいる時間は本当の自分ではないのか。今日「OL」を取り巻く環境は、厳しさを増すばかりである。平成不況の長期化は、職場におけるゆとりを奪い、目先の利益を求めて厳しいリストラや雇用調整に走る傾向が続いている。要員は削られ、定型作業の一部は「パートさん」や「派遣さん」に委ねられていく。雇用形態の多様化は、「OL」たちの集団的な「レジスタンス」のできる環境を奪いつつあり、仕事はストレスに満ちた「結構しんどい」ものへと変わってきている。正社員・契約社員・派遣社員と雇用形態の異なる「OL」たちが働く今日の職場では、同じ労働に従事していても、仕事と家庭生活が不可分の「OL」たちの互いの課題や目標、悩み事はまちまちで、性差別を受けながら組織だった抗議行動をとることをさらに難しくしているのである。
 
 私たちは自分自身でありたい、自己実現したい、日常生活の中で自分の位置を確認したいと願うけれど、それは難しいことである。今日、人間の幸せのためのほどよい生産計画、ほどよい消費計画などまったくとびこえて、巨大な産業、めまぐるしい情報が動き続ける。超現代的な大工業や金融機関・官庁機構さらに情報網の完全なプランと組織化のなかで、人間は、労働すること、働くことの意味についてあらためて徹底した内省を強いられているのである。9)

 人間の生きた活動、人間らしいよろこびを感じることのできる活動は、個人の場でしかないことになるのか。それとも、家族やレジャー仲間での<骨休め>の場にしかないのか。10)働きがい、さらには生きがいを考える時、仕事=労苦、遊び=安楽といったステレオタイプ的な捉え方から出発するのが私たちの日常生活では一般的であり、そこには、仕事には何かを生み出す、何かを作り出すという加算のポジティヴな意味があるのに対して、遊びの方には普通、何かを使う、あるいは消費するという減産のネガティブな意味しか認められないからだろう。しかし、このような考え方を純粋に適用できるような場面というのは、私たちの生活にはほとんど例外的にしか存在しない。働くか、さもなくば遊ぶか、といったオール・オア・ナスィングの選択は、むしろ抽象的である。仕事が労苦として受けとめられているとき、人びとは仕事と仕事ではないものとを「労働」と「余暇」に分けて考えていた。

 「労働」と「余暇」は、目的の有無、価値の生産と消費、効率と非効率、規律と自由、まじめと遊び、つらさと楽しさというふうに、さまざまに対比されてきた。そしてリクリエーションということばに象徴されるように、後者はいずれも前者により多くのエネルギーを注ぎ込むことができるように、休息し、リフレッシュし、エネルギーを蓄えるための時間とみなされてきた。つまりそういう思考の枠組みは、あくまで前者の労働を中心に設定されたものだ。

 理屈の上では労働を神聖視し、称賛しながら、実際にはできるだけそこから逃れようとしているのが、今日的な状況である。皮肉なことに、会社での労働よりも無償のボランティアの方が、かつての仕事、他者のために体を動かすこととしての「働く」ことの原型イメージにより近くなっている。 11)

 私たちは、欲望を満たし、楽しいことを享受して存続するためには、働かなければならないが、ただそれだけではないはずだ。お金のために辛抱して働くという労働観とは異なる労働観があるにちがいない。労働が人間の活動であり実践でありかぎり、“働く”ということも、我慢してやっているのではない、自らやっていることとしての能動的な意味を持ったものでなければならない。労働を通じて私たちは己を社会的世界に関係づけているのである。

 そこで、「OL」の視点に立って、私自身の体験も織り交ぜつつ、あまり平等を語ることなく恵まれない労働に携わるノンエリート女性の不安やしんどさを文字にしながら、日常生活の次元で私たちがもってきた労働についての知識や考え方に疑問を投げかけ、労働の真の意味を問い直してみたい。私たちがふつう労働という場合は、もちろん精神的・肉体的な社会経済的労働を指しているが、そればかりでなく、人間の活動・行動とを考え合わせて、生活の中に生きた労働観を見出したいと思う。

 市場経済的に合理的である私たちの労働が社会的に、したがって私たち個人にとってどのような意味をもつのか。金銭をどう考えるか。何のために働くのか。労働は労苦でしかないのか。働きがいをどこに見出せるか。仕事の種類、クリエイティブな仕事をしているか、していないかは働きがいに結びつくのか。「労働」対「余暇」という既成概念を超えて、日常生活の主体者として、自分がしたいことと生活のためにしなければならないこととのバランスをどうとっていくか。

 そして、経済的自立も含めた、女性にとっての自立を問いかけてみたいと思う。平成不況の長期化により、終身雇用制度・年功序列賃金は見直されつつある。高度経済成長期に定着した「男性は仕事、女性は家庭」という性別役割分業に基礎をおく男女共生の社会システムは揺り動かされている。これまでの家族を中心にした日本型企業社会を超えて、夫や子どもなど他人を通じて生きる前に、まず「個」としてどう生きるかを考えることは、女性にとって極めて今日的な課題である。

 今や女性のライフサイクルは多様化している。先に紹介した酒井順子は、最近女性に様々な選択の道が与えられていることをケーキブッフェに例え、「選択の幅が大きいことは、もちろん良いことです。しかし本当に「自分はこうしたい」という意志をもっていない人にとっては、かえってつらいこととも言えます」 12)と言っている。必要なのは、まず日常生活者として自分の考え方をしっかりもつことなのである。今や人生80年のライフサイクルの中では、何が起きるかわからない。会社の倒産、リストラ、失業は、珍しいことではなくなった。病気になったり、身近な人の死に向きあわなければならないこともある。そうした困難・危機を乗り越え、さらなる成長、再生へのステップとしていく。人生の転機に、自ら考え、意思決定してリスクに立ち向かう能力を身につけることは、今日の急激に変化する世界において、自分自身の人生を創造していくために必要な能力である。

 持つこととあることの存在様式の違いに注目したE・フロムは、「あるということによって私が言及しているのは、人が何も持つことなく、何かを持とうと渇望することもなく、喜びにあふれ、自分の能力を生産的に使用し、世界と一になる存在様式である」 13)と言っている。この“ある”ということを日常生活の次元で考察することを通して、さらに、私たちが生きることを支えているものはなにか、真の幸福とはなにかを考えてみたいと思う。

 今日ほど、生きることが生活実感として問われている時代は、これまでなかったのではないだろうか。この卒業論文作成を通して、これまで私自身が歩んできた道を振り返り、これからの生き方の方向性を見出すことができればと思う。



引用文献

1) 松原惇子 『クロワッサン症候群(文庫版)』147頁、文春文庫、1991年(原著は1988年刊)。
2) 唯川恵『OL10年やりました』141-142頁、集英社文庫、1996年(原著は1990年刊)。
3) 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』167頁、朝日新聞社、1994年。
4) 『ケイコとマナブ2002年11月号』リクルート。
5)『an・an2001年10月3日号』マガジンハウス。
6)『CANCAN2002年7月号』小学館。
7) 酒井順子「解説」唯川恵『OL10年やりました』203頁。
8)『好きを仕事にする本』リクルート、2002年11月。
9) 清水正徳『働くことの意味』172頁、岩波書店、1982年。
10) 清水正徳、前掲書、172頁。
11) 鷲田清一『だれのための仕事』2-6頁、岩波書店、1996年。
12) 酒井順子、前掲書、201頁。
13) E・フロム著、佐野哲郎訳『生きるということ』38-39頁、紀伊国屋書店、1977年。