たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

緊張してきました

2016年01月30日 17時10分26秒 | 日記
 繰り上げ採用となった○○市から宅配便で必要書類と分厚いマニュアルが届きました。(実家に送っていただくようにお願いしました。)初日の研修場所が、応募書類を駆け込みで提出した場所と同じようなのですが、こうなるとは思わなかったので年末に地図も含めて関連書類はスキャナーで読み取った後全部廃棄してしまいました。不合格通知が届いた応募書類をそのままもっていたくはないですよね。必要書類のフォームを独自に用意している自治体だし、民間企業とはまたちがう独特のものがあって、応募書類もそうでしたが全部揃えていくの手間がかかります。ほんとに急な話なのでなんだかドタバタしてきました。

 名字が書かれたストラップに臨時職員とは記入されていないので、内部では雇用形態によってストラップの色が区別されているのかもしれませんが、外部の方にはわからないですね。誓約書には日本国憲法という言葉が・・・。民間とは違いますね。守秘義務を負うし、なんだか緊張してきました。研修は初日だけ。これでわかった人のように対応していかなければなりません。一年と10カ月のブランク。労働紛争ですり減ってしまいましたと言えるはずもなく、自信がありません。

 13年間働いて使い捨てにされた大会社で働く前に、半年程鍵のメーカーで派遣社員として働きました。なんの商品説明もされないまま初日からいきなり苦情電話の対応をしなければなりませんでした。代表電話にかかってくる問い合わせや苦情電話が、なぜか私が働いていたリフォームサービス部という部署に全部回されてきたのです。電話の向こうのお客様に、自分は今日からきたばかりの派遣社員なのでそんなこときかれてもなんにもわかりません、とは言えず、さも知っているかのようなふりをして、社員が電話で話していることを即座に耳で吸収して真似たり、むずかしくて答えられない時には、電話を保留にして社員に平身低頭で質問しては答えたりしていました。すごく大事なことなのにこんないい加減でいいのかなというぐらいテキトーでした。2-3日経ってから電話対応のための資料を渡されたり、一週間ぐらいしてから製品説明を受けたりした記憶があります。課長の口利きで、当時住んでいた部屋の鍵を無償で交換してもらうことができたのだけはありがたかったですが、そこは高卒の新入社員を採用して一般職を補充していたので半年ほどで契約終了となりました。この時から15年ぐらいの時が過ぎ、年齢を重ねました。老眼が進んできているし、この時のような集中力とパフォーマンスが自分に戻ってくるでしょうか。今はやってみるという選択肢しかありません。

 自分の部屋に送る荷物をつくり、母が遺したノートをもう少しだけ整理したら明日ぐらいはだらだらとDVD観たりしましょうか。一週間でリカバリーして出直していかなければなりません。緊張してきました。

お別れの作業はひとまず終わりです

2016年01月30日 10時53分01秒 | 祈り
 今日はまた寒さが厳しくなっていますね。7時半ぐらいに町内の防災無線の呼びかけで目が覚めてしまったので寝足りない感じもあって気持ちがあがってきていません。想定外に、あと10日足らずで6時半前に起床して7時半過ぎには部屋を出ないといけない生活が訪れることになりました。私大丈夫でしょうか。最近は一時過ぎに寝て9時半、10時近くまで起き上がれない生活が続いていました。眠気がひどかったのは、歯の治療が中断しているため抗生物質と痛み止めを飲み続けてきたせいもあるようです。昨夜は抗生物質はなくなっていたし、痛みもなかったので薬を飲んでいません。飲んだ時と飲んでいない時ではこんなに違うということは、体によくないということなんでしょう。喉の渇きはひどいです。一度就寝がおそくなってしまうと、そのサイクルがなかなかとまらなくなります。どこかで修正して早寝早起きにしていかないといけない状況です。

 ほんとに想定外にまた忙しくなりそうなので月曜日には自分の部屋に戻らなければなりません。いろいろと準備しなければならないものがあり、戻らないと揃えることができません。区役所、美容院、証券会社、新しい靴を買う、老眼鏡を首からさげるためのアクセサリーを買うなど用事をすませて、スパで汗と汚れを流したらまた忙しい日々に戻っていくことになります。もう少し遺品整理と断捨離をし、ごろごろもしたいです。せまい自分の部屋に戻っていくのも、広い家で一カ月余り過ごした後ではきつくなりますが、先の見えないままこの生活を続けていくわけにもいきません。繰り上げ合格となった業務がいいとは思っていません。新しく始まったばかりの制度ですが早くも消滅していく運命をたどることになるのではないか、という声が出始めているようです。半年契約でスタートしますが、一カ月先がどうなるのか分からない状況だと正直思います。色々なことが分かり過ぎてしまったので内心苛立ったり怒りが湧いてくることもたくさんありそうですが、生活もあるし、勉強の機会がめぐってきたと思ってここはひとまずもぐりこんでみます。13年間クソ会社で働いていた時にも、矛盾が見えすぎて数え切れないほど口には出せない苛立ちや怒りをこらえ続けてきました。それよりもマシなのか、さらに大変なのか、もぐりこんでみないとわかりません。巨大な組織の一員になるということは、どこにいってもこういうことです。

 昨日は父が収集していた菓子折り一箱分の記念切手を業者さんに売りました。古銭を売ったのと同じ業者さんです。大阪万博、東京オリンピック、国体・・・1970年頃の高度経済成長期の入口に始まる記念切手の数々。丹念に収集していました。戦前のモノのない頃に子供時代を送った父は集めることが楽しかったんだと思います。戦後高度経済成長期に入ると、モノをたくさん持つことが豊かになることだという風潮に社会全体がなり、父のように切手や古銭を収集した人はたくさんいたようです。今私と同じように遺品整理をしてそうした収集物が業者さんに毎日のように業者さんに持ち込まれるそうです。ちょうど集めた世代が高齢になり、子供の世代が遺されたモノを整理する時期ですね。今は必要のないものは捨てる、できるだけモノを持たないで暮らすという考え方に変わりつつあります。記念切手を収集する人もすくなくなったそうです。業者さんは買い取ったものをまとめてネットオークションに出すと売れることがあすようですが、手間を考えると薄利ですね。それでも私のように親が遺したモノだと思うと捨てるに捨てられない人たちが持ち込んでいくので、業者さんは買い取っては商売にしているというわけです。記念切手など使わない限りとっておいても仕方ない、値段のつくものは売った方がいいですよ、と言われたのでそうしました。

 大阪万博の記念メダル、スタンプ帳、会場内の地図、入場チケット・・・記念メダルは本物ではないので売れませんでした。これらはいずれスキャンしたり写真を撮ったりして、現物は廃棄するつもりですが、我が家の歴史としてもうしばらく残しておくことにします。私も妹も小学校の低学年でした。日曜日、両親に連れられて行ったことをおぼろげにおぼえています。パビリオンで撮った写真が我が家のアルバムには残っています。写真を撮った場面もなんとなくおぼえています。私と妹、一緒にカメラにおさまりました。その時から25年ぐらいあとに、哀しみ、苦しみの時が訪れるなど予想できるはずもありませんでした。大阪万博の時に日本ではじめて原発が稼働をしたことを思うと、今日本で起きている色々なひずみは高度経済成長期のツケ払いだと思うと、あの頃はよかったと到底思えません。高度経済成長期は日本人にとってなんだったのか、考えていかなければならないと思っているので、複雑な思いが様々にめぐります。

 昨日は母の衣類引き出し一杯分もさらに整理。残念ですが全て汚れがあるのでお別れです。妹の衣類も既製品で着古しているものはまた少しお別れ。余り布や手作りの服で自治体のリサイクルに出せないものはコミュニティハウスに持ち込んで、イベントの時などに使っていただけるようにしようと思います。捨てることはできません。ささやかでも生かしてあげたいです。

 母が遺した40冊に及ぶ日記、20冊ほどの雑記帳・家計簿・・・。少しずつ読んでからお別れしていきたので今は保留にします。新聞の切り抜きはほぼお別れしました。平成元年から2年まで、中日新聞の今日の天気を書き写したノートもお別れ。今朝の言葉や中日春秋などエッセイを書き写したノートもまだまだあります。お別れする前にひととおり読み返すのでかなり疲れます。今回はこれにてひとまずくりぎをつけます。宅配便ぐらいの費用は出たので、自分の部屋に送る荷物の準備をしなければなりません。知らなかった父と母の思い出に出会い、お別れしていくことができてよかったと思います。まだまだ終わりませんが、今回の帰省ではこれで終わりです。一カ月後、半年後の私はどうしているでしょうか。安らかに眠りながら守り続けてほしいと祈るばかりです。