母が突然旅立ってもうすぐ丸四年になろうとしています。
統合失調症を発症してからはほとんど手つかずのまま、20年以上眠り続けていた着物など箪笥二棹分+アルファとようやくお別れしました。京都に本社をおく業者さんに依頼したら、母が仕立てた着物の他に、帯や着付けに必要な小物類、反物などかなりの数でしたが全部ひきとってくれて、一時間ほどで片付きました。最初に電話した業者からは値段の着くモノだけを引き取るので、査定に行く前に何点あるか数えてほしいと言われましたが、素人の私がひとつひとつ箪笥から出して数えていたら大変な時間と労力がかかっていたと思います。お値段はわずかでしたが、全部引き取ってくれる業者さんに来てもらってよかったです。さすが着物のプロたち。
丁寧に仕立てられたものばかりでした。どうなっていくのかおたずねしたら、汚れがついているものはたぶん廃棄処分になっていくが、だいたいのものは染め直したりして使えるのはではないかとのことでした。できるだけ再利用していただけると母も喜ぶと思いますとお伝えしました。
物ごころついた時、家に帰ると母はいつも仕立て台の前に正座して着物を縫い続けていました。冬は火鉢をそばにおき、膝に小さいアイロンをあっためたままのせて寒さを防いでいたのでひざが軽く火傷していました。母が誰から和裁を習ったのか思い出すことができませんが、町の呉服屋さんから仕事を請け負うまでの腕前になっていました。一着仕立てていくら稼いでいたのかわかりませんが、今思えば立派な職業婦人の一人だったということだと思います。10代の頃は全くわかっていませんでしたがたいしたもんでしたね。そうやって一生懸命に私たちを育ててくれました。無駄にはできません。
気になっていた着物たちとはようやくお別れしましたが、まだまだ遺品はあります。父のモノも妹のモノもまだまだあります。特に細かいモノや捨てるに捨てられないモノは大変です。ひとつひとつ見直して分別していくのでモノとのお別れは本当に大変です。自分のモノもまだまだあります。こうしてお別れしていくことで、気持ちの整理もついていくような気がします。この機会にがんばってもう少し片づけて行きたいなあ。お別れの作業をしているとモノをほしいと全く思わなくなりますね。自分がいなくなれば全てゴミです。高級ブランド品とか、もともとほとんど興味ありませんが、いっそうどうでもよくなりました。何万円もするモノを人がもっていても羨ましいとか全く思いません。この世を旅立つ時はこの身ひとつでなにも持っていくことはできません。命ある間になにができるのか、何をすべきなのか、私はまた立ち直って行けると信じて、あこがれだっただらだら時間も持ちながらもう少しこんな生活は続いていきそうです。
父・母と震災をはさんでお別れが続いた後私の心は揺れ続けていました。
「2013年3月31日(日)
1993年から94年にかけて、私が最も愚かだった頃の日記を捨てた。デジタルデータとして残すまでもなく捨てた。ここまで持っているべきではなかった。読み返すと細かなことがおぼろげに思い出されてしまう。もう忘れよう。過ぎた時間は帰らないがどうせ死ぬんだ。もういい、忘れよう。軽くなっていこう。
ヅカのパンフレットもデジタル化して現物は捨てる。いつか捨てなければならないんだ。古い物は捨て去って新しく歩き出していこう。すぐに何かは見つからないが新しい風が通って見つけていけると思う。大丈夫。まだ人生の時間はある。」
「2013年5月4日(金)
忙しく働いてかなりの疲労がきている。
1985年6月19日、本を出版した前後の日記を捨てた。思い出すことができない場面もたくさんある。妹や母のことがでてくると辛い。もう忘れよう。よくそんなエネルギーがあったもんだと思うが、一途な日々だったがすべては過去だ。もう忘れよう。捨て去っていこう。新たに生き直していきたい。」
実家から駅まで車だと5分、徒歩だと30分ぐらい。バスの本数も少ないので、二週間ほど電車に乗ることもなく、カフェに入ることもなく、散歩がてらのお墓参りとコンビニまで20分ぐらい歩いていってお菓子など買うぐらいでしょうか。13年間にわたり長時間過重労働を続けたあと、労働紛争の異常な緊張感の中でパソコン背負いながら徘徊する生活を一年半余り続けたので今はこれでいいです。あんな弁護士とよく闘えたもんだと手帳を読み返しながら思いました。明日こそは辞退する旨の電話をしなければなりません。気が重くってなかなかできないのですが、今日ようやく福祉人材センターに連絡したら本人から電話することになっているんだそうです。行政機関はやれやれです。明日こそはがんばります。
統合失調症を発症してからはほとんど手つかずのまま、20年以上眠り続けていた着物など箪笥二棹分+アルファとようやくお別れしました。京都に本社をおく業者さんに依頼したら、母が仕立てた着物の他に、帯や着付けに必要な小物類、反物などかなりの数でしたが全部ひきとってくれて、一時間ほどで片付きました。最初に電話した業者からは値段の着くモノだけを引き取るので、査定に行く前に何点あるか数えてほしいと言われましたが、素人の私がひとつひとつ箪笥から出して数えていたら大変な時間と労力がかかっていたと思います。お値段はわずかでしたが、全部引き取ってくれる業者さんに来てもらってよかったです。さすが着物のプロたち。
丁寧に仕立てられたものばかりでした。どうなっていくのかおたずねしたら、汚れがついているものはたぶん廃棄処分になっていくが、だいたいのものは染め直したりして使えるのはではないかとのことでした。できるだけ再利用していただけると母も喜ぶと思いますとお伝えしました。
物ごころついた時、家に帰ると母はいつも仕立て台の前に正座して着物を縫い続けていました。冬は火鉢をそばにおき、膝に小さいアイロンをあっためたままのせて寒さを防いでいたのでひざが軽く火傷していました。母が誰から和裁を習ったのか思い出すことができませんが、町の呉服屋さんから仕事を請け負うまでの腕前になっていました。一着仕立てていくら稼いでいたのかわかりませんが、今思えば立派な職業婦人の一人だったということだと思います。10代の頃は全くわかっていませんでしたがたいしたもんでしたね。そうやって一生懸命に私たちを育ててくれました。無駄にはできません。
気になっていた着物たちとはようやくお別れしましたが、まだまだ遺品はあります。父のモノも妹のモノもまだまだあります。特に細かいモノや捨てるに捨てられないモノは大変です。ひとつひとつ見直して分別していくのでモノとのお別れは本当に大変です。自分のモノもまだまだあります。こうしてお別れしていくことで、気持ちの整理もついていくような気がします。この機会にがんばってもう少し片づけて行きたいなあ。お別れの作業をしているとモノをほしいと全く思わなくなりますね。自分がいなくなれば全てゴミです。高級ブランド品とか、もともとほとんど興味ありませんが、いっそうどうでもよくなりました。何万円もするモノを人がもっていても羨ましいとか全く思いません。この世を旅立つ時はこの身ひとつでなにも持っていくことはできません。命ある間になにができるのか、何をすべきなのか、私はまた立ち直って行けると信じて、あこがれだっただらだら時間も持ちながらもう少しこんな生活は続いていきそうです。
父・母と震災をはさんでお別れが続いた後私の心は揺れ続けていました。
「2013年3月31日(日)
1993年から94年にかけて、私が最も愚かだった頃の日記を捨てた。デジタルデータとして残すまでもなく捨てた。ここまで持っているべきではなかった。読み返すと細かなことがおぼろげに思い出されてしまう。もう忘れよう。過ぎた時間は帰らないがどうせ死ぬんだ。もういい、忘れよう。軽くなっていこう。
ヅカのパンフレットもデジタル化して現物は捨てる。いつか捨てなければならないんだ。古い物は捨て去って新しく歩き出していこう。すぐに何かは見つからないが新しい風が通って見つけていけると思う。大丈夫。まだ人生の時間はある。」
「2013年5月4日(金)
忙しく働いてかなりの疲労がきている。
1985年6月19日、本を出版した前後の日記を捨てた。思い出すことができない場面もたくさんある。妹や母のことがでてくると辛い。もう忘れよう。よくそんなエネルギーがあったもんだと思うが、一途な日々だったがすべては過去だ。もう忘れよう。捨て去っていこう。新たに生き直していきたい。」
実家から駅まで車だと5分、徒歩だと30分ぐらい。バスの本数も少ないので、二週間ほど電車に乗ることもなく、カフェに入ることもなく、散歩がてらのお墓参りとコンビニまで20分ぐらい歩いていってお菓子など買うぐらいでしょうか。13年間にわたり長時間過重労働を続けたあと、労働紛争の異常な緊張感の中でパソコン背負いながら徘徊する生活を一年半余り続けたので今はこれでいいです。あんな弁護士とよく闘えたもんだと手帳を読み返しながら思いました。明日こそは辞退する旨の電話をしなければなりません。気が重くってなかなかできないのですが、今日ようやく福祉人材センターに連絡したら本人から電話することになっているんだそうです。行政機関はやれやれです。明日こそはがんばります。