パソコンを背負って徘徊する生活から離れてほぼ一カ月になろうとしています。電車にもバスにも乗ることなく、人と会うことも話すこともほとんどありません。失業中なので弟に対して肩身がせまく、色々と生活の細かいところで、自分のせまい一人用のマンションでの生活と同じようにやってしまって怒られても何も言えません。私にとって普段の生活の場所ではないので分が悪いですが、失業中なのでばかにするようなことを言われても言い返す言葉はありません。会社に行っていないってこういうことなんですね。だから、どんなにクソ会社でも自分から辞めることはできませんでした。
昨日は母の衣類を一部整理しました。主に下着類と古い洋服。大きな収納ボックスの引き出し一杯分です。主にセシールとグンゼ。子供の頃から下着類は綿でないといけないという父の言いつけを母は守って下着類はほとんどグンゼの綿製品でした。今は夏場大量に汗をかいてそのまま冷房の効いている所に入ると体を冷やしてしまうので綿オンリーは避けられますが、綿でなければ・・・で大きくなりました。
セシールは妹がよく利用していたようなので、一緒に購入していたのだろうと思います。妹の遺品の中にも大量のセシールで購入した長袖のTシャツ等があります。妹が亡くなった翌日だったと思いますが注文してあったセシールの洋服が届きました。私が着たおしてお別れしましたがダンガリーのシャツでした。お葬式をだした翌日ぐらいに妹あてにセシールから電話もかかってきました。「ご注文いただいた品は気に入っていただけましたか?」という電話でした。「妹は亡くなりました」と伝えると電話の向こうの男性は絶句していたと思います。静かに電話は終わりました。23年たっても忘れることができません。母が残したものも妹が残したものも私が使えそうなものは使いたいので、一枚一枚タグをみてはこういうものを買ったんだね、中国製だ、日本製だと心の中で話しかけながら使うものとお別れしていくものに分けていきます。お別れするものもたたみなおして袋に入れていくので時間はかかります。
すでに書いていますが母は何十冊ものノート類を残しています。新聞の切り抜きをはったものはお別れしました。91(平成3)年の家計簿ノートをみると金銭の収支よりも毎日の小さな出来事や気持ちが細かくびっしり書き込まれています。私が今気持ちが辛くなるとメモ帳に書かないではいられなかったり、こうしてブログを書きはじめると止まらなくなってしまうのは母の血を受け継いでいるのでしょうか。母は統合失調症を発症し、一緒にいられなくなった私はすでに家を離れていました。お別れしようとしていた92年と93年の家計簿ノートと合わせてお別れすることができず、保留にします。
今日は表紙に平成1(1989)年-3(1991)年の日付が書かれたノート数冊とお別れすることにしました。母は時間をもてあまし、新聞を丹念に読み込んでは気になった記事を書き写していたようです。病理をうかがわせる書き込みの仕方がみられるのはちょっと辛くなります。お別れするのも忍びないですがいつかどこかでお別れしなければならないので今お別れしていきます。私が一人暮らしを始めてから数年は時々両親あてに葉書や手紙を送っていました。自分でもすっかり忘れていましたが全部保管されていて、そんな過去の自分と再会することにもなっています。こうして再会してはお別れしていくのが喪の作業、本当のお別れのプロセスなのかもしれません。私が書いた手紙と葉書も今すぐお別れすることはできず保留にしますが、いずれお別れしていきます。
日記・雑記帳と書かれたノートは明日以降みていきますが発症してからもまだ日常生活をなんとか送ることができていた頃、びっしりと書かれています。読もうとするとかなり時間がかかります。読めば妹が旅立っていく前、私も弟もいなかった頃家の中でなにがおきていたのか知ることができるのかもしれません。
昨日ぺらぺらっとめくった日記の中にはこんな記述。まだ妹が存命の頃です。「お父さん、早く迎えてきてほしい、生き地獄・・・」。記述しているお父さんとは旦那さん(=私の父)ではなく、母のお父さん(=私のおじいちゃん)でしょう。おじいちゃんは、私が生まれる前に亡くなっているので、おじいちゃんといっても全くイメージできませんが、どんな人だったんでしょうね。私は父が亡くなった後自分を守ってくれていた大きな柱がいなくなってしまったような、すごく不安な感覚がありましたが、母にとってのお父さんもそんな存在だったのでしょうか。私の父は、妹がネズミ講にひかかって帰りの遅いことが多くなったことでかなりきびしく母を叱責していました。父と母のがなりあうような会話が辛くてたまりませんでした。子供の私が何も言うことはできませんでしたが、母は相当に辛かったと思います。お星さまになったお父さんに助けを求めたのでしょうか。今さら家の中で何が起きていたかを知ることができたところでなにがどうなるということでもありませんが、どうして妹は自ら逝ってしまったのか、やっぱり納得したいです。どうして私の家族なのか。年末からずっと考えている、自ら命を絶つことで突然お別れとなった自死遺族と、突然理不尽に命を奪われた事件・事故遺族は違うのか・・。正解も納得できるものもどこにもありませんがなにかしら輪郭のみえるものを求めないではいられません。
今日お別れした新聞記事を書き写したノートの中に書かれていた詩のようなもの。母の言葉でしょうか。
平成2年8月8日
居間
娘がいる
息苦しくなる
外に出る
空を仰ぐ、なぜかほっとする
居間に娘がいない
心が安らぐ
暑い夏の午後
喉が乾く
氷を口に含む
息苦しくなる
すいかを食べる
頭が痛くなる
何にか口に入れればどこかが痛い
わが運命悲しい
平成2年8月9日
雑巾がけ
早朝の楽しい一時
タオルをギュ~としぼって
無心に押して走る
押して走る程
板と素足の感触が気持ちいい
このごろは息切れもしなくなった
またこれ楽しい
足だけは痛めないように気付けて
雑巾がけする
気分爽快
家族はむずかしいです。血のつながりは残酷なものがあります。本来こうして人にさらけ出すようなことではない内輪のことをさらけ出してしまっています。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
チャンネル一覧に出していますが『モーツアルト』の写真を整理しようとしています。帝劇で撮影したものを追加したいのですがもう少しお待ちください。
昨日は母の衣類を一部整理しました。主に下着類と古い洋服。大きな収納ボックスの引き出し一杯分です。主にセシールとグンゼ。子供の頃から下着類は綿でないといけないという父の言いつけを母は守って下着類はほとんどグンゼの綿製品でした。今は夏場大量に汗をかいてそのまま冷房の効いている所に入ると体を冷やしてしまうので綿オンリーは避けられますが、綿でなければ・・・で大きくなりました。
セシールは妹がよく利用していたようなので、一緒に購入していたのだろうと思います。妹の遺品の中にも大量のセシールで購入した長袖のTシャツ等があります。妹が亡くなった翌日だったと思いますが注文してあったセシールの洋服が届きました。私が着たおしてお別れしましたがダンガリーのシャツでした。お葬式をだした翌日ぐらいに妹あてにセシールから電話もかかってきました。「ご注文いただいた品は気に入っていただけましたか?」という電話でした。「妹は亡くなりました」と伝えると電話の向こうの男性は絶句していたと思います。静かに電話は終わりました。23年たっても忘れることができません。母が残したものも妹が残したものも私が使えそうなものは使いたいので、一枚一枚タグをみてはこういうものを買ったんだね、中国製だ、日本製だと心の中で話しかけながら使うものとお別れしていくものに分けていきます。お別れするものもたたみなおして袋に入れていくので時間はかかります。
すでに書いていますが母は何十冊ものノート類を残しています。新聞の切り抜きをはったものはお別れしました。91(平成3)年の家計簿ノートをみると金銭の収支よりも毎日の小さな出来事や気持ちが細かくびっしり書き込まれています。私が今気持ちが辛くなるとメモ帳に書かないではいられなかったり、こうしてブログを書きはじめると止まらなくなってしまうのは母の血を受け継いでいるのでしょうか。母は統合失調症を発症し、一緒にいられなくなった私はすでに家を離れていました。お別れしようとしていた92年と93年の家計簿ノートと合わせてお別れすることができず、保留にします。
今日は表紙に平成1(1989)年-3(1991)年の日付が書かれたノート数冊とお別れすることにしました。母は時間をもてあまし、新聞を丹念に読み込んでは気になった記事を書き写していたようです。病理をうかがわせる書き込みの仕方がみられるのはちょっと辛くなります。お別れするのも忍びないですがいつかどこかでお別れしなければならないので今お別れしていきます。私が一人暮らしを始めてから数年は時々両親あてに葉書や手紙を送っていました。自分でもすっかり忘れていましたが全部保管されていて、そんな過去の自分と再会することにもなっています。こうして再会してはお別れしていくのが喪の作業、本当のお別れのプロセスなのかもしれません。私が書いた手紙と葉書も今すぐお別れすることはできず保留にしますが、いずれお別れしていきます。
日記・雑記帳と書かれたノートは明日以降みていきますが発症してからもまだ日常生活をなんとか送ることができていた頃、びっしりと書かれています。読もうとするとかなり時間がかかります。読めば妹が旅立っていく前、私も弟もいなかった頃家の中でなにがおきていたのか知ることができるのかもしれません。
昨日ぺらぺらっとめくった日記の中にはこんな記述。まだ妹が存命の頃です。「お父さん、早く迎えてきてほしい、生き地獄・・・」。記述しているお父さんとは旦那さん(=私の父)ではなく、母のお父さん(=私のおじいちゃん)でしょう。おじいちゃんは、私が生まれる前に亡くなっているので、おじいちゃんといっても全くイメージできませんが、どんな人だったんでしょうね。私は父が亡くなった後自分を守ってくれていた大きな柱がいなくなってしまったような、すごく不安な感覚がありましたが、母にとってのお父さんもそんな存在だったのでしょうか。私の父は、妹がネズミ講にひかかって帰りの遅いことが多くなったことでかなりきびしく母を叱責していました。父と母のがなりあうような会話が辛くてたまりませんでした。子供の私が何も言うことはできませんでしたが、母は相当に辛かったと思います。お星さまになったお父さんに助けを求めたのでしょうか。今さら家の中で何が起きていたかを知ることができたところでなにがどうなるということでもありませんが、どうして妹は自ら逝ってしまったのか、やっぱり納得したいです。どうして私の家族なのか。年末からずっと考えている、自ら命を絶つことで突然お別れとなった自死遺族と、突然理不尽に命を奪われた事件・事故遺族は違うのか・・。正解も納得できるものもどこにもありませんがなにかしら輪郭のみえるものを求めないではいられません。
今日お別れした新聞記事を書き写したノートの中に書かれていた詩のようなもの。母の言葉でしょうか。
平成2年8月8日
居間
娘がいる
息苦しくなる
外に出る
空を仰ぐ、なぜかほっとする
居間に娘がいない
心が安らぐ
暑い夏の午後
喉が乾く
氷を口に含む
息苦しくなる
すいかを食べる
頭が痛くなる
何にか口に入れればどこかが痛い
わが運命悲しい
平成2年8月9日
雑巾がけ
早朝の楽しい一時
タオルをギュ~としぼって
無心に押して走る
押して走る程
板と素足の感触が気持ちいい
このごろは息切れもしなくなった
またこれ楽しい
足だけは痛めないように気付けて
雑巾がけする
気分爽快
家族はむずかしいです。血のつながりは残酷なものがあります。本来こうして人にさらけ出すようなことではない内輪のことをさらけ出してしまっています。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
チャンネル一覧に出していますが『モーツアルト』の写真を整理しようとしています。帝劇で撮影したものを追加したいのですがもう少しお待ちください。