新しい居場所に行くかどうか返事をしなければならないのに、今週とうとう電話できませんでした。こんな奴は社会人として失格ですね。インフルエンザにかかりながらも出社して吐きながら仕事をせざるを得なかった日々を思い出すと吐きそうになってしまい、そんなに自分に無理をさせていたことを思うと体中の力が抜けていきます。
他にも会社で具合悪く近所の医者で薬を出してもらいながらも、吐きながら仕事を続けた場面は幾度もありました。ひとつひとつ思い出してしまうと、それだけ吐きそうです。
母の遺品も整理しています。病気になる前は詩吟をやったり、婦人会の文芸クラブ?で旅行に行ったりした記録のノートや資料、新聞の切り抜きもたくさんあります。目を通していると元気だったころの母がたちあがってくるかのようです。私や妹が高校に入学した時に出費や慶弔金を記録した家計簿ノートも出てきました。がさつでしたが私と同じで記録は几帳面で丁寧でした。私がそんな母に似たんですね。美術館や舞台の観劇チケット、家計簿ノートはお別れできませんでした。
一昨日内科でだしてもらっている薬がなくなってきたので、こちらで同じ薬をだしてもらうためにお医者さんに行きました。よくしてもらいました。生活のリズムが整わず夜更かしを続けてきたし、なによりも長時間労働、過重労働で2時前後に就寝して朝はなんとか7時過ぎに起床。5時間あるかないかの睡眠時間を平日は何年にもわたって続けてきた疲れが一気にきています。とにかく夜更かしすると調子が悪いです。なので名残惜しいですが今日はここで終わって明日書き足そうと思います。
11日は成人の日だからまた連休なんですね。ちひろ美術館のFBに「大人になるということ」のちひろさんの言葉が投稿されました。自分のブログに書いているので読み返しました。
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/7b3923bae3d2b15a33a3bb88d7fdfb62/3
日本では、どうでもいいタレントの不倫騒動とか一部マスコミが騒いでいるみたいですが、シリアでは子ども達が命を落としています。世界は日々動いており、そんなことを思うと今だ「あけましておめでとうございます」と言える気持ちにはなれない私がいます。
2010年10月26日付の母の主治医とあった先生へのお手紙。
年末に慌ただしく帰省して往診に立ち会い、話をしたいと思って書きました。
医者に家族の状況を知ってもらい、生活のことまで相談しても取り合ってもらえるはずなどなかったのですが、勘弁してくださいよでしたが、今読み返してみるとちょっとずれている感じがしますが、その時私は必死になっていました。
プライベートな事情が丸わかりなのでどうかなとも思いますが載せてみようと思います。
「O先生
こんにちは。29日にお目にかかることになりました。よろしくお願いします。私の立場は、結婚しているわけでもないのに家を離れ、横から口だけは出すという、第三者からも弟からも勝手なように映る状況であることを十分承知しています。親類たちからも、(父の)葬儀・法要と折々に非難されました。弟にも一年前母が10年近く本人受診がないまま、主治医も決まっていないということがわかった時点で、私がうるさく心配し過ぎた為に、そんなに言うなら自分が帰ってきて面倒みればいい、と言われてしまいました。その時の温度差は埋まっていないような気がします。父がなくなった今、私の立場では、実家に対して全ての義務と権利を放棄して弟に委ね、一切手を引くという選択肢もあり得ます。それができないのは、私なりになんとかしていきたいと考えてしまうのは、妹の自死という事実があるからかもしれません。今でも信じられず、またおそろしくて体がふるえてきてしまいますが、16年前の9月、妹は突然自ら選択していなくなってしまいました。妹のことを思わない日はありません。その重い荷物を背中からおろすことは自分がいきているかぎりできません。
なぜ死ななければならなかったのか、正解はどこにもありませんが、父と母のきびしい人間関係からくるきしみが一番脆弱な妹にいってしまった、子供が親の犠牲になったと考えてしまうのは、あまりに辛すぎますが妹が自分の命と引き替えに、私と弟の分まで引き受けてくれたのかもしれません。私が20歳を過ぎた頃まで家族はあたたかいもの、両親はいつでも帰れば迎えてくれる安全基地でした。その歯車が狂い始めたのは、23歳ぐらいの時だったでしょうか。細かい時間の経過はおぼえていませんが、亡くなった妹がネズミ講にひっかかっているとわかった時からです。その頃弟は家を離れて働いていたので何も知りませんが、私は両親が怒鳴りあうように、会話にならない会話を続けていた情景を今でもおぼえています。おそらくその頃から母は自分では受け容れられないストレスと緊張にさらされていたのでしょう。
父はすごくいい人でしたが、昔の家父長制の中で次男として子供時代を送り、若い頃は一等航海士として働いていたそうです。なんとなくちょっとズレているような面があり、家族に対しては威圧的ですごく細かい所まで自分の思った通りになっていないと気がすまない、とても難しい人でした。母はずいぶん惚れ込んで一緒になったときかされています。子供が成長して落ち着いたらお父さんと二人で旅行に出かけたりしたい、そんな人並みなことを夢見ていました。お父さんのしていることに間違いはない、ずっと従って私たちを一生懸命に育ててくれました。本当に真面目な人です。
それだけに妹のことで警察を呼ばざるを得なかったその事態は母に津波のようなストレスとなっておそいかかってしまいました。その直後、「私は子育てを間違えた。お父さんの言うことをきいてきた私がバカだった。」それからほどなくして気がついた時、妄想の症状が現れていました。おそらく母は自分を守るために、受け容れがたい、日常的なレベルをはるかに超えたストレスにおそわれた時、病気になることでしか自分を守る、生きる術がなかったのではないか、今私なりに考えています。
妹も自分を守るために家から逃げ出す力があればよかったのかもしれません。私が逃げ出して両親のもとに一人残って、だんだん自分がわからなくなってしまって、亡くなる頃家の中で何が起こっていたのかを説明できる人はもういませんが、ただ亡くなる少し前に私に助けを求めてきた、今思えばお姉ちゃん助けてよ、という意志表示があった、そこを救ってやろうとしなかった、どころかつき離すようなことを言ってしまった。
何を言ったかをお話しすることはあまりに私にとって辛く、私のカウンセラーの先生の他には話していません。ただすごく残酷でした。妹はどんな思いできいて、そして何を思いながら遠くへいってしまったのでしょう。
誰にもわかりません。私はただただ今あらためて妹の写真に手を合わせ、わびるばかりです。母の健康度がわかりませんが、謙譲な部分で妹のことをずっと思い続けているようです。私には、「可哀想なことをした」という話をします。
私の母に対する思いは、愛情と恨み、憎しみが交互にまざりあい、なかなか複雑です。近くで毎日顔をみていればどうしても負の感情の方がまさってしまいます。だから私は自分の心の健康を守るために、自分が一緒に暮らすという選択はしません。すごく勝手なように第三者からはみえるかもしれませんが、弟が一緒に暮らしてくれているから成り立つことですが・・・。
父の危篤から法要まで、母の日常生活のリズムをできるだけ壊さないようにやってきた、ストレスと疲れで叫び出したいような衝動にたびたびおそわれながらなんとか今まできた。心の負荷がそろそろ限界にきているのはないかと思いながら、私を応援してくれる人もいることでなんとか毎日を過ごしています。幸いなことに仕事もあります。
母にとってどうしてくことがこれからいいのか、私と弟にとってもいいのか、私なりに一生懸命考えようとして先生の意見をうかがいたいと思うしだいです。
相続のことに関して医療機関の責任の範囲を超えていることは十分承知しています。(略)母にも(法的に相続の)権利があることを弟にわかってもらわなければなりません。これからいずれにしろ、母も直筆で書類に名前と住所を記入するという作業が必要になってきますので、母の認知能力をどう見るべきなのか、今後の方向性と合わせておきかせいただければ幸いです。
乱筆、乱文で読みづらくて申し訳ありません。
三人、それぞれにとって一番いい方向性が見い出していけるよう御意見をいただければ幸いです。
よろしくお願い致します。
2010年12月26日 たんぽぽ」
先生は高齢の統合失調症の患者などに興味はなく、若年層のうつ病、気分障害の患者をみて臨床経験を積み上げていきたかったみたいです。往診の看板も出しておらず、それでも困っている人に往診しているのは、医者としての良心だったようです。往診がなく、本人が受診を拒んで医者に連れて行くことができない時、よそのご家族はどうしているのか今も気になります。そんなご家族に対してお手伝いさせていただける人に、私はこれからなっていけるでしょうか。
写真は秋のプリンス・エドワード島。エルマイラ駅舎前です。
寒風ふきすさぶ10月半ばなのに、お花が咲いていました。
他にも会社で具合悪く近所の医者で薬を出してもらいながらも、吐きながら仕事を続けた場面は幾度もありました。ひとつひとつ思い出してしまうと、それだけ吐きそうです。
母の遺品も整理しています。病気になる前は詩吟をやったり、婦人会の文芸クラブ?で旅行に行ったりした記録のノートや資料、新聞の切り抜きもたくさんあります。目を通していると元気だったころの母がたちあがってくるかのようです。私や妹が高校に入学した時に出費や慶弔金を記録した家計簿ノートも出てきました。がさつでしたが私と同じで記録は几帳面で丁寧でした。私がそんな母に似たんですね。美術館や舞台の観劇チケット、家計簿ノートはお別れできませんでした。
一昨日内科でだしてもらっている薬がなくなってきたので、こちらで同じ薬をだしてもらうためにお医者さんに行きました。よくしてもらいました。生活のリズムが整わず夜更かしを続けてきたし、なによりも長時間労働、過重労働で2時前後に就寝して朝はなんとか7時過ぎに起床。5時間あるかないかの睡眠時間を平日は何年にもわたって続けてきた疲れが一気にきています。とにかく夜更かしすると調子が悪いです。なので名残惜しいですが今日はここで終わって明日書き足そうと思います。
11日は成人の日だからまた連休なんですね。ちひろ美術館のFBに「大人になるということ」のちひろさんの言葉が投稿されました。自分のブログに書いているので読み返しました。
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/7b3923bae3d2b15a33a3bb88d7fdfb62/3
日本では、どうでもいいタレントの不倫騒動とか一部マスコミが騒いでいるみたいですが、シリアでは子ども達が命を落としています。世界は日々動いており、そんなことを思うと今だ「あけましておめでとうございます」と言える気持ちにはなれない私がいます。
2010年10月26日付の母の主治医とあった先生へのお手紙。
年末に慌ただしく帰省して往診に立ち会い、話をしたいと思って書きました。
医者に家族の状況を知ってもらい、生活のことまで相談しても取り合ってもらえるはずなどなかったのですが、勘弁してくださいよでしたが、今読み返してみるとちょっとずれている感じがしますが、その時私は必死になっていました。
プライベートな事情が丸わかりなのでどうかなとも思いますが載せてみようと思います。
「O先生
こんにちは。29日にお目にかかることになりました。よろしくお願いします。私の立場は、結婚しているわけでもないのに家を離れ、横から口だけは出すという、第三者からも弟からも勝手なように映る状況であることを十分承知しています。親類たちからも、(父の)葬儀・法要と折々に非難されました。弟にも一年前母が10年近く本人受診がないまま、主治医も決まっていないということがわかった時点で、私がうるさく心配し過ぎた為に、そんなに言うなら自分が帰ってきて面倒みればいい、と言われてしまいました。その時の温度差は埋まっていないような気がします。父がなくなった今、私の立場では、実家に対して全ての義務と権利を放棄して弟に委ね、一切手を引くという選択肢もあり得ます。それができないのは、私なりになんとかしていきたいと考えてしまうのは、妹の自死という事実があるからかもしれません。今でも信じられず、またおそろしくて体がふるえてきてしまいますが、16年前の9月、妹は突然自ら選択していなくなってしまいました。妹のことを思わない日はありません。その重い荷物を背中からおろすことは自分がいきているかぎりできません。
なぜ死ななければならなかったのか、正解はどこにもありませんが、父と母のきびしい人間関係からくるきしみが一番脆弱な妹にいってしまった、子供が親の犠牲になったと考えてしまうのは、あまりに辛すぎますが妹が自分の命と引き替えに、私と弟の分まで引き受けてくれたのかもしれません。私が20歳を過ぎた頃まで家族はあたたかいもの、両親はいつでも帰れば迎えてくれる安全基地でした。その歯車が狂い始めたのは、23歳ぐらいの時だったでしょうか。細かい時間の経過はおぼえていませんが、亡くなった妹がネズミ講にひっかかっているとわかった時からです。その頃弟は家を離れて働いていたので何も知りませんが、私は両親が怒鳴りあうように、会話にならない会話を続けていた情景を今でもおぼえています。おそらくその頃から母は自分では受け容れられないストレスと緊張にさらされていたのでしょう。
父はすごくいい人でしたが、昔の家父長制の中で次男として子供時代を送り、若い頃は一等航海士として働いていたそうです。なんとなくちょっとズレているような面があり、家族に対しては威圧的ですごく細かい所まで自分の思った通りになっていないと気がすまない、とても難しい人でした。母はずいぶん惚れ込んで一緒になったときかされています。子供が成長して落ち着いたらお父さんと二人で旅行に出かけたりしたい、そんな人並みなことを夢見ていました。お父さんのしていることに間違いはない、ずっと従って私たちを一生懸命に育ててくれました。本当に真面目な人です。
それだけに妹のことで警察を呼ばざるを得なかったその事態は母に津波のようなストレスとなっておそいかかってしまいました。その直後、「私は子育てを間違えた。お父さんの言うことをきいてきた私がバカだった。」それからほどなくして気がついた時、妄想の症状が現れていました。おそらく母は自分を守るために、受け容れがたい、日常的なレベルをはるかに超えたストレスにおそわれた時、病気になることでしか自分を守る、生きる術がなかったのではないか、今私なりに考えています。
妹も自分を守るために家から逃げ出す力があればよかったのかもしれません。私が逃げ出して両親のもとに一人残って、だんだん自分がわからなくなってしまって、亡くなる頃家の中で何が起こっていたのかを説明できる人はもういませんが、ただ亡くなる少し前に私に助けを求めてきた、今思えばお姉ちゃん助けてよ、という意志表示があった、そこを救ってやろうとしなかった、どころかつき離すようなことを言ってしまった。
何を言ったかをお話しすることはあまりに私にとって辛く、私のカウンセラーの先生の他には話していません。ただすごく残酷でした。妹はどんな思いできいて、そして何を思いながら遠くへいってしまったのでしょう。
誰にもわかりません。私はただただ今あらためて妹の写真に手を合わせ、わびるばかりです。母の健康度がわかりませんが、謙譲な部分で妹のことをずっと思い続けているようです。私には、「可哀想なことをした」という話をします。
私の母に対する思いは、愛情と恨み、憎しみが交互にまざりあい、なかなか複雑です。近くで毎日顔をみていればどうしても負の感情の方がまさってしまいます。だから私は自分の心の健康を守るために、自分が一緒に暮らすという選択はしません。すごく勝手なように第三者からはみえるかもしれませんが、弟が一緒に暮らしてくれているから成り立つことですが・・・。
父の危篤から法要まで、母の日常生活のリズムをできるだけ壊さないようにやってきた、ストレスと疲れで叫び出したいような衝動にたびたびおそわれながらなんとか今まできた。心の負荷がそろそろ限界にきているのはないかと思いながら、私を応援してくれる人もいることでなんとか毎日を過ごしています。幸いなことに仕事もあります。
母にとってどうしてくことがこれからいいのか、私と弟にとってもいいのか、私なりに一生懸命考えようとして先生の意見をうかがいたいと思うしだいです。
相続のことに関して医療機関の責任の範囲を超えていることは十分承知しています。(略)母にも(法的に相続の)権利があることを弟にわかってもらわなければなりません。これからいずれにしろ、母も直筆で書類に名前と住所を記入するという作業が必要になってきますので、母の認知能力をどう見るべきなのか、今後の方向性と合わせておきかせいただければ幸いです。
乱筆、乱文で読みづらくて申し訳ありません。
三人、それぞれにとって一番いい方向性が見い出していけるよう御意見をいただければ幸いです。
よろしくお願い致します。
2010年12月26日 たんぽぽ」
先生は高齢の統合失調症の患者などに興味はなく、若年層のうつ病、気分障害の患者をみて臨床経験を積み上げていきたかったみたいです。往診の看板も出しておらず、それでも困っている人に往診しているのは、医者としての良心だったようです。往診がなく、本人が受診を拒んで医者に連れて行くことができない時、よそのご家族はどうしているのか今も気になります。そんなご家族に対してお手伝いさせていただける人に、私はこれからなっていけるでしょうか。
写真は秋のプリンス・エドワード島。エルマイラ駅舎前です。
寒風ふきすさぶ10月半ばなのに、お花が咲いていました。