「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意識も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言語を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす責務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で応えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、
ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみをひきうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」
「旧版訳者のことば
著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーンに生まれ、フロイト、アドラーに師事して精神医学を学び、ウィーン画医学医学部神経科教授であり、また同時にウィーン市立病院神経科部長を兼ね、臨床家としてその識見が高く買われているばかりでなく、また同時に理論家として、精神分析学のいわゆる「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では知られていた人である。また戦後はアメリカ合衆国およびラテンアメリカ諸国によく招聘され、各地で学術講演をする他に、ジャーナリズムでも精力的に活動していた。
このような少壮の精神医学者として嘱目され、ウィーンで研究をしていた彼は、美しい妻と二人の子供にめぐまれて、平和な生活が続いていた。しかし、この平和はナチスのオーストリア併合以来破れてしまった。
なぜならば、彼はユダヤ人であったから。だたそれだけの理由で、彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構を持つアウシュヴィッツ等に送られた。そしてここで彼の両親、妻、子供たちは或いはガスで殺され、或いは餓死した。彼だけが、この記録の示すような凄惨な生活を経て、高齢まで生きのびることができたのである。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、
129-131頁より)
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言語を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす責務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で応えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、
ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみをひきうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」
「旧版訳者のことば
著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーンに生まれ、フロイト、アドラーに師事して精神医学を学び、ウィーン画医学医学部神経科教授であり、また同時にウィーン市立病院神経科部長を兼ね、臨床家としてその識見が高く買われているばかりでなく、また同時に理論家として、精神分析学のいわゆる「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では知られていた人である。また戦後はアメリカ合衆国およびラテンアメリカ諸国によく招聘され、各地で学術講演をする他に、ジャーナリズムでも精力的に活動していた。
このような少壮の精神医学者として嘱目され、ウィーンで研究をしていた彼は、美しい妻と二人の子供にめぐまれて、平和な生活が続いていた。しかし、この平和はナチスのオーストリア併合以来破れてしまった。
なぜならば、彼はユダヤ人であったから。だたそれだけの理由で、彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構を持つアウシュヴィッツ等に送られた。そしてここで彼の両親、妻、子供たちは或いはガスで殺され、或いは餓死した。彼だけが、この記録の示すような凄惨な生活を経て、高齢まで生きのびることができたのである。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、
129-131頁より)
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