マサオは はなをすすり上げ なきじゃくっていた 母さんに たたかれたほっぺたが まだ 少しあつい なんだよ 母さんのばか!
マサオは どうして 母さんが おこったかわからない。
おひるごはんのときだった。
日よう日のおひるには 母さんは いつもやきそばとかおこのみやきとか オムライスなんかを つくってくれる。なのに きょうは 朝たべのこしの つめたいごはんと みそしるだけだった。マサオのすきなハムも 目だまやきも出てこない。なんだ つまんないの。マサオはがっかりした。たのしみに していたのに。
「あーあー きょうは たったこれだけ なにか ほかに なあい?」
マサオがいうと 母さんはいった。
「いやなら たべなくたっていいよ」
「わかったよ たべてやるよ」
マサオはふてくされていった。
ピシッ!
そのとき マサオは はじめて 母さんにぶたれたのだった。
マサオは しゃくりあげると 手で なみだをぬぐった。
雨が はげしく トタンのやねをうちはじめた。
(ああ おなかが すいたなあ)
マサオは 少し さむくなってきた。そういえば 母さんのかお かなしそうだった。
そんな気もするなあ。
マサオは ふとんにもぐりこむと かおをまくらでかくした。
目をさますと あたりは もうまっくらだった。足おとを立てないよう そっと あるいて
だいどころを のぞいてみた。
あっ コトコト コトコト お父さんが ねぎを きざんでいるみたいだ。
「どうしたの 父さん」
「母さんが かぜをひいたらしい だから しずかにしてなさい こんやは 父さんのつくったラーメンと かんづめだ」
そういうと 父さんは たまごをゆではじめた。
ぼくが いけない子だったから 母さん かぜを ひいちゃったのかなあ。
マサオは 母さんがねているへやの ふすまをあけた。母さんは 白いタオルを ひたいにのせて じっとしていた。
マサオは そっと まくらもとへよった。
母さんは からだがえらかったから おひるごはんを つくれなかったんだね。
ぼく しらなかったんだ。母さんが あたまが いたいってこと わからなかったんだ。
「ごめんね 母さん」
マサオは 母さんの耳に 口をちかづけて 小さな声でいってみた。
母さんは 小さな ねいきを たてていた。
もう あんなこと いったりしないよ。雨がやんだら 母さんの すきなコスモスをとってきて そばに おいとくよ。
だから 早く よくなって。
****************
商業高校を卒業して二年目、19歳の私が書いた小さな童話です。
地方新聞に掲載されて、原稿料5,000円もらいました。
その原稿料で買ったのが、モリー・ギレン著 『運命の紡ぎ車_L・M・モンゴメリの生涯』だったと思います。
その後も自作童話は2本新聞に掲載され、21歳のときに童話集を自費出版しました。
銀行で忙しく働きながら、枯れそうな心を潤すかのように仕事以外の時間は
書くことに必死でした。楽しくて楽しくてたまりませんでした。
それは今思えば自宅通勤で、家事を母が全部やってくれていたので出来たことでした。
父も母も元気で家族は幸せだと思っていた頃、その記憶はずっとわたしの心の中に幸せな時として、ずっとあり続けます。
写真は、春のプリンス・エドワード島 グリーン・ゲイブルズの庭からの景色です。
マサオは どうして 母さんが おこったかわからない。
おひるごはんのときだった。
日よう日のおひるには 母さんは いつもやきそばとかおこのみやきとか オムライスなんかを つくってくれる。なのに きょうは 朝たべのこしの つめたいごはんと みそしるだけだった。マサオのすきなハムも 目だまやきも出てこない。なんだ つまんないの。マサオはがっかりした。たのしみに していたのに。
「あーあー きょうは たったこれだけ なにか ほかに なあい?」
マサオがいうと 母さんはいった。
「いやなら たべなくたっていいよ」
「わかったよ たべてやるよ」
マサオはふてくされていった。
ピシッ!
そのとき マサオは はじめて 母さんにぶたれたのだった。
マサオは しゃくりあげると 手で なみだをぬぐった。
雨が はげしく トタンのやねをうちはじめた。
(ああ おなかが すいたなあ)
マサオは 少し さむくなってきた。そういえば 母さんのかお かなしそうだった。
そんな気もするなあ。
マサオは ふとんにもぐりこむと かおをまくらでかくした。
目をさますと あたりは もうまっくらだった。足おとを立てないよう そっと あるいて
だいどころを のぞいてみた。
あっ コトコト コトコト お父さんが ねぎを きざんでいるみたいだ。
「どうしたの 父さん」
「母さんが かぜをひいたらしい だから しずかにしてなさい こんやは 父さんのつくったラーメンと かんづめだ」
そういうと 父さんは たまごをゆではじめた。
ぼくが いけない子だったから 母さん かぜを ひいちゃったのかなあ。
マサオは 母さんがねているへやの ふすまをあけた。母さんは 白いタオルを ひたいにのせて じっとしていた。
マサオは そっと まくらもとへよった。
母さんは からだがえらかったから おひるごはんを つくれなかったんだね。
ぼく しらなかったんだ。母さんが あたまが いたいってこと わからなかったんだ。
「ごめんね 母さん」
マサオは 母さんの耳に 口をちかづけて 小さな声でいってみた。
母さんは 小さな ねいきを たてていた。
もう あんなこと いったりしないよ。雨がやんだら 母さんの すきなコスモスをとってきて そばに おいとくよ。
だから 早く よくなって。
****************
商業高校を卒業して二年目、19歳の私が書いた小さな童話です。
地方新聞に掲載されて、原稿料5,000円もらいました。
その原稿料で買ったのが、モリー・ギレン著 『運命の紡ぎ車_L・M・モンゴメリの生涯』だったと思います。
その後も自作童話は2本新聞に掲載され、21歳のときに童話集を自費出版しました。
銀行で忙しく働きながら、枯れそうな心を潤すかのように仕事以外の時間は
書くことに必死でした。楽しくて楽しくてたまりませんでした。
それは今思えば自宅通勤で、家事を母が全部やってくれていたので出来たことでした。
父も母も元気で家族は幸せだと思っていた頃、その記憶はずっとわたしの心の中に幸せな時として、ずっとあり続けます。
写真は、春のプリンス・エドワード島 グリーン・ゲイブルズの庭からの景色です。