たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ヒルティ『眠られぬ夜のために(第一部)』より‐5月1日~5月31日

2024年07月07日 08時18分57秒 | 本あれこれ

「5月1日

 神はその子らのために、試練のかまどをあまりにも熱くされることは決してない。まったくその反対に、すでに決定されたものから、いつもいくらか軽減される。他の人間たちもまた、彼らがなすべき以上に、髪の毛ひと筋ほども多くの害を、神の子らに加えることは許されない。」

 

「5月2日

 宗教的素質をもつ人びとがごく普通におちいりやすい愚かさの一つは、神になにかを「与え」ようと思ったり、彼らの「徳」によって神の気に入ろうとすることである。元来、われわれは、真実あるがままの神を決して知りうるものではない。単に、真実の神から遠くかけはなれた、きわめて人間的な、神の観念を持つにすぎない。おまけにこの観念でさえ言葉では表わしえないか、わずかに不完全な比喩で表現しようと努めるよりほかない。しかし次のことだけは、われわれも確かに知ることができる、すなわち、神はわれわれの思考や直観にくらべて、はかありがたく「偉大な主」であって、われわれが神に与える名称や比喩的表現をもってしてはただ神の偉大さを引き下げるにすぎないこと、また、神の眼から見れば、人間たちの「徳」のどんな差異も、全くあるかないかのほんのちいさなものにちがいないということである。神が喜ばれるのは、おそらく、神へのひたすらな憧れと、神に向って手をさしのべることだけであろう。そして最も神の気にいらないのは、満ち足りた、富める、ひとりよがりな人間である。これはちょうど、子供たちについても、生まれつきひとなつっこいので可愛いと思われる子供もあれば、どんなに「お行儀がよく」ても親しみを覚えない子供がいるのと、だいたい似ているであろう。

マタイによる福音書21の31、23の13ー15、イザヤ書55の8・9」

 

「5月3日

 ある事柄が義務であるかぎり、それをなすべきかどうかを、もはや問うてはならない。これを問うことが、すでに裏切りの始まりである。そして、義務を‐最も明白な義務をさえ‐果すまいとする理由づけは、つねに「きいちごのように安価」である。

 その最もいとうべき理由としてすでにキリストがきびしくしりぞけたのは、「信心ぶった」理由である。

 ルカによる副申書11の52、マタイによる福音書15の3ー8。

 神が大きな義務をわれわれにはっきりわからせないのは、意味のないことではない。それを果す力を持っていない人たちには、それを疑うという恵みが与えられるのである。」

 

「5月5日

「よい計画でも破滅への道が敷かれている」という格言は、大体において確かに適切な言葉である。だが、それはなぜであろうか。それは、単に人間が移り気なためや、われわれを四方から取り巻く反対勢力のためばかりではなく、実にしばしばわれわれのよい計画そのものが実際上遂行できないものであり、われわれの力や時間や外的事情に適しないものだからでもある。

 神の「導き」においては、事情は全く異なる。この場合には、その人がなしえないこと、時期に合わないこと、あるいはそれをなす力がまだ与えられていないことは、なに一つ要求されない。

 あなたが神の導きに身をゆだねるならば、いろいろと「計画」を立てることをさし控えるがよい。あなたを前進させるすべてのものが、きわめて明白な要求、あるいは機会という形をとって、つぎつぎに、しかも正しい順序で、あなたを訪ねてくるのである。これを、イスラエルのある預言者はいみじくも、「愛のひもに導かれる」(ホセア書11の4)と呼んだ。すなわち、幼児が手引きひもで歩かせられるように、導かれるのである。これは、人間の計画よりもはるかにまさっている。

 ホセア書11の4、ルカによる福音書1の6・78・79、ヨハネによる福音書1の51、3の27」

 

「5月6日

 ともすれば心に疑いをよび起す最大の誘惑の一つは、世の中においても、われわれ自分の内でも、およそ善が悪ほど眼につきやすくないこと、悪の方がなんといってもすっとのさばっていることである。だから、人びとは全く正しい道にありながら、自分の内的進歩を半ば疑ったり、または神の正義の堂々たる歩みは、歴史の上からも自分の人生経験からも、眼の前に明らかでなければならないのに、なおもそれを疑うことになる。

 われわれはかなり長い間、自分が内的にいっこうに進歩しないように思われることがしばしばある。ところが、そういう場合に、いつの間にか自分が前とは全く別人になっているのに気づく日が突然やってくるものだ。エゼキエル書11の19、36の25ー27、エレミヤ書24の6・7。」

 

「5月7日

 人間の内的進歩も、もちろん全く段階的に行われるものであって、まれなあ天才的素質の人は別として、めざましく急速な進歩をとげることはない。むしろわれわれは、自分自身に対して辛抱づよくあることを学ばねばならない。自分のことばかり考えたり、知らず知らずのうちにあらゆる事を自分の快楽や満足の尺度ではかったりするのを、ごく自然に、特に努力せずとも断念できるようになり、むしろ自分をただ偉大な理念の召使と考えるようになったら、その人はすでに確実な頂きに達したといえる。聖書は、これを「神のしもべ」と呼んでいる。

イザヤ書49の1-6、50の4-9。」

 

「5月9日

 人生の途上でたびたび出会う最も不愉快なものの一つは、嫉妬である。これは、耐えしのぶよりほかはない。妬む人たちの心は、なかなかなだめられないからだ。しかし、われわれはたゆみない着実な活動によって、静かにこれに対抗することはできる。多分ゲーテから出たと思われる。いささかどぎつい諺が、このことをつぎのように言っている。

  ひとの妬みをうち砕きたければ

  バカなお洒落をやめたまえ

    (ゲーテ『おだやかな風刺詩』)

 しかしまた、われわれは自分の長所や所有物などをわざと見せびらかして、他人の嫉妬心を刺激しないように慎まなければならない。そういうことをすると、隣人の心を大いに傷つけるきっかけをつくり、ひいては「腹立ち」の呪いを受けることになる。とりわけ、女性はこの点で過ちをおかすことが多い。なぜなら、彼女たちは婚約者、良人、子供たち、装身具、楽しい家庭生活など、これらを全く持たない人たちの前で見せびらかしたがるからである。これは女性の性格の最もみにくい面の一つである。」

 

「5月11日

 すでにローマの哲学者ポエティウスは彼の有名な論文『哲学の慰め』(562年)のなかで、人間は神の生命にあずかることによってのみ真に幸福になりうる、と論じている。それ以来ほぼ千五百年を経たが、だれにおっても、この事情は全く変りがない。

 その点で、とくにありがたいことは、神は人間のように、欺かれないということである。だから、ただ形式的に神に近づいただけで暗い心に陽(ひ)の光を呼び入れることはできない。なおまた、宗教的熱狂や興奮によってもこの目的を達することはできない。神のそば近くにあることは、それらとはまるで別なことで、むしろ独特な、静かで、平和に満ちた感情である。

 出エジプト記34の6、列王記上19の12。」

 

「5月15日

 人との交わりにおいて、もっとも有害なものは、虚栄心である。だれでも、最も単純な人ですら、相手の虚栄心をかぎつける正確な本能を持っている。彼らは相手の虚栄心を認めない場合にのみ、よろこんで信服するのである。

 虚栄心はつねに見すかされる。その上、他の悪徳はまだしも讃美者を見出すのに、虚栄心ばかりはだれの気にもいらない。従って、虚栄心は決してその目的を達しえないのだから、悪徳のなかでも一番ばかばかしいものである。」

 

「5月16日

 人との交際において最も気持のよい、最も有効なものは、落着いた、いつも変わらぬ友愛である。ごく幼い子供でさえ、それどころか、あらゆる動物でさえ、そのような友愛には敏感であって、とくに、相手の親しみがたまさかの気紛れか、ただその場かりぎの動機から出たものか、それとも永続的な性質のものか、それすら見分けることができる。」

 

「5月18日

 大きな内的進歩がなされる前には、つねに絶望への誘惑が先立ち、大きな苦難が訪れる前には、非常な内的喜びと力の感じが与えられるものだ。つまり、神はこれによってわれわれをその苦難に堪えうるほどに強めようとされるのである。私はすばらしい成功をおさめる前ほど不幸だったことはなく、また最も困難な出来事に出会う前ほど、喜ばしい、力づよい気分にみたされたことはなかった。

 もしあなたが憂鬱であったり、不安であったり、そのほか不機嫌なときには、すぐ真面目な仕事にとりかかりなさい。もしそれができにくいならば、だれかに(福音書のいわゆる「隣人」に)小さな喜びを贈りなさい。これなら、いつでもできるはずだ。この方が、普通みんながするように、なにか享楽や気晴らしでもって、陰気な霊を追い払おうとするよりもはるかに有効である。そんなごまかしをしても、この霊はすぐにまた戻ってくるものであるから。

 他人の場合でも、仰々しい訓練や説得を加えるよりも、ちょっとした贈物でもしてやる方が、かえって陰気な霊をたやすく追い払うことができる。」

 

「5月19日

 「高い尊敬」を受けることは、しばしば自己改善の道の妨げとなる。」

 

「5月20日

 われわれの内部で本当に起ることは、すべて事実であって、われわれの単なる観念ではない。今まで存在しなかったものが、まさに生起するのである。このような出来事を導く道は、それが起るであろうという確信である。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身に成るであろう」(マタイにりょう福音書9の29)。信じることの多い人は、多く与えられるであろう。

 すべての苦難は、それがのちに現実となった時よりも、その前に想像された時の方が、よほど困難に思われる。キリストでさえ、彼が祭司長やローマの法官の前に出た時よりも、いやおそらく十字架につけられた時よりも、捕えられる前にゲツセマネで祈った時の方が、多くの苦しみを感じたのである。もしキリストが尻ごみし、譲歩と屈服をする可能性があったとすれば、それはおそらくゲツセマネにおいて起ったであろう。」

 

「5月21日

 まことの聖心とは、神のみこころをつねに喜んで、気がるに、それどころか、さながら自明のことのように行い、また耐え忍ぶことである。その他の聖心はすべて本物ではない。

 信仰にとって都合の悪いことは(それとも、よいことかもしれないが)、最も力づよい信仰体験は全くひとに語ることができないこと、あるいは、それを語ったとしても、他人にはつまらないもの、信じがたいものと思われることである。」

 

「5月22日

 フリード・ニーチェが『漂白者とその影』のなかで、富者と無産者という人間の二つの階級は絶滅されねばならないといっている。これは、彼一流の奇矯な言い方であまりに過激な言葉ではあるが、しかし真にその目的に完全にかなった国家(今のところそれはまだ「理想国」にすぎない)にとっては、間違った考えではない。今日では、この二つの階級に生まれることは不幸だと、平静に主張してよろしい。これらの階級は、どちらも各個人の道徳的、精神的発達を妨げ、その結果、彼らは、社会全体にとっても、当然あるべき通りの有用な人間になっていないのである。それにもかかわらず、奇妙なことに、富者にとって富は桎梏(しっこく)であるからには当然それからのがれようと決心したり、あるいは彼らがみずからその富を管理しようと思えば、少なくとも自分の生存中に、せめてその富をなるべく正しく使用しようと決心できるはずなのに、そのような富者はほとんどいない。まさに富は、彼らをとりこにしておく力である。

 同胞教会讃美歌372番、374番。

 富と祝福とは全く異なった二つのものであって、祝福の宿らない富はあまり価値のないものである。祝福は、それを得ようと努めても手に入れることができない。それは一つの神秘的な力であり、賜物である。また、祝福は特にある個人に、その一つの特質のように、いたるところに付きしたがい、なお、その人に好意を示したり親切を施したりする人たちにまで、その力が及ぶものである。だから、賢明な者ならば、つねにそのような祝福ある人と関係を結ぼうと努め、反対に祝福の宿らぬ人をできるだけ避けようとするだろう。

 創世記27の27-29、民数記23の19-22、ヨブ記42の7ー9

、列王記下4の8ー10、マタイによる福音書10の13-15。」

 

「5月23日

 愛は、他のいかなるものにもまして、人を賢明にする。ただ愛のみがよく、人びとの本質と事物の実相とについての洞察を、また人びとを助けるための最も正しい道と手段とについての本当の透徹した洞察力を与えてくれる。

 だからわれわれは、あの事この事について、なにが最も賢い処置であるかを問うかわりに、なにが最も愛の深い仕方であるかを問う方が、たいていの場合、たしかに良策である。というのは、後者の方が前者よりもはるかに分り易いからである。なにが愛の深い仕方であるかについては、才分の乏しい者でも、自分を欺こうとしないかぎり、そうたやすく錯覚に陥ることはない。ところが、最も才能豊かな人でも、ただ賢さだけでは、将来のあらゆる出来事を正しく予見し、判断することはできない。」

 

「5月28日

 「魂の底にふれることなく、ただ良心をなだめるためにのみ存在する、外面的な、わざとらしい宗教を持つよりも、全く宗教など持たない方が、おそらくましであろう。」これはフランス革命時代の言葉であるが、これと同じ意味のことを、すでにキリストがこの上なく痛烈な言葉で語っている。マタイによる福音書21の31。

 単に外面的な信仰だけを抱いてすっかり自己満足をしている人たちは、今日でも、不信者よりもキリスト教の大きな障害である。実際、不信者のなかには、真理を渇望している人がきわめて多い。彼らはただ、かつて歴史的にこの(キリスト教の)真理がたしかに盛られていたその容器(いれもの・教会的形式)とか、その担い手たちを恐れて、これに近づきえないのである。

 それにもかかわらず、さらによく考えれば、上の言葉はすべて、ただ個人についてのみあてはまることだと、いわねばなるまい。概していえば、一般大衆にとっては、たとえ表面的なキリスト教の存在と実践であっても(実際、現在キリスト教はおしなべてそうであり、また過去千九百年の間たいていそうであった)、もしそれがなかったならその代りに現われたであろう他のものに比べれば、やはりまだしもましである。この点についても、フランス革命は一つの明らかな実例をのこしている。

 個々の人にとっては、力づよい内的革命が最上の方法である場合がきわめて多い。古い着物に新しい補布(つぎ)をあてても仕方がない。これに反して、社会全体として考えれば、過去との完全な断絶によってよりも、漸進的改革による方が、つねに事がはこびやすいであろう。キリスト自身もその当時、あのような断絶の避けがたいことを嘆いている。もっとも、この断絶がいつかは癒されるだろうという希望はすてなかったが。マタイによる福音書23の37‐39。

 この個人的革命か社会的革命かという一見明らかな二律背反と思われることも、次のような事実によって解消する。すなわち、実際には、社会全体がすぐさま改革されるわけではなく、各個人が、その時代に一般に認められている真理よりもすぐれた真理を、まず自分の内に明らかに感じ取り、それから、これを教えと実践とで個人的に表明することによって、つねに全体の改革が推進されるのである。

 イザヤ書46の11,49の1-3、エレミヤ書1の5‐10・17‐19、15の19‐21、マタイによる福音書12の18‐21。」

 

「5月31日

 われわれは喜びよりもかえって苦しみを愛し、ついには喜びを恐れることを学ぶような境地にまで達することができる。ここまでくれば、人生の最大の困難はすでに終ったのである。

 われわれが苦しみをただできるだけ早くとり除こうとしたり、あるいは全く受身に、ストア主義的にできるだけ無感覚な態度で、これを堪え忍ぼうとしたたりするのは、いずれにせよ、正しい態度ではない。むしろ苦悩を、種まきの時期として利用しなければならない。そうすれば祝福の穀物が実りうるのである。しかもこの種まきの時期は、一旦過ぎさると、そうたやすく、同じ形で戻ってくるものではない。

 神の最大の恵みの一つは、ある大きな善い仕事の勝利がほぼ戦いとられたときに、はじめてその仕事の主な困難さが認められるということである。さもなければ、戦いをはじめる勇気を、だれも持ちえないであろう。」

 

(ヒルティ著 平間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために(第一部)』岩波文

庫、141~167頁より)

 

 

 


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