会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

蔵元に生まれて

2012-02-06 18:00:05 | Weblog
2012年2月6日(月) 晴れ・小雨ぱらぱら 
 日本列島に何日も居座っていた寒気団も少し遠ざかり、上を見上げると澄み切った真っ青な空、そして暖かい陽射し。周囲は真っ白な雪景色。このコントサストは雪国でなくては味わえない風景である。




 
用事があって住吉神社の近くの医院へ出かけた。その医院の駐車場に接して私の生家跡がある。酒蔵が5つ、米蔵、味噌蔵、麹室などが建っていた。大きな蔵は戦後、会津図書館の書庫として移築し使用した。(現在の会津稽古堂の場所に公民館と図書館があった)その他は木工場になって一昨年まで使用されたいた。その工場も廃業し、地震で倒壊のおそれもでてきたので昨年11月に取り壊した。
 なんにもなくなった更地の向こうに実家の千俵入る米蔵と蔵座敷のある蔵と仏間のある蔵がみえる。複雑な気持ちでパチリ。
  雪原に 蔵男達の 声を聞く


生家は戦前(太平洋戦争)まで、市内で大きな酒造業を営んでいた。 当時下町には 河野(此の花)酒造、鍋三(清滝)酒造、山中(金の〆)酒造、鍋嘉(住之江)酒造、石橋酒造、松本酒造、長尾酒造などがあった。
戦争末期、児童疎開、物価統制、工場疎開などが行われた。生家の鍋嘉酒造を営んでいた父は会津の酒造組合長であり、町内会長などをしていたため率先して国の政策に従った。  酒造業を止め日立製作所の工場疎開を引き受けた。私が幼稚園児の時である。

 昔は、酒造りは寒仕込みといって1月から2月が最盛期。杜氏や蔵男、女中達が何人もいて活気溢れていた。節分の時は、いくつもの酒蔵をまわって「鬼は外、福は内・・・・」と言って豆をまくと後ろから付いて来た蔵男が「ごもっとも、ごっもとも」と合いの手を入れた。(なぜそうするのかはわからないが関西ではこのような豆まきもあるらしい) この年になっても節分の豆まきをすると幼い頃の記憶が鮮明に浮かぶ。