2013年1月2日(水)晴れ 3.3度
午前中はからりと晴れて暖かかった。妻と二人で近所の住吉神社にお参りに行った。初詣は正月三日以内とか一週間以内とかいわれているが
新年になって、正月に初めて神社やお寺、寺院に参詣し、その一年の幸せを祈願することを初詣でというので期間はないと思う。
(初参り=はつまいりとも言われます)
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住吉神社の御祭神は底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)、神功皇后(ジングウコウゴウ)、総称して住吉大社という。
由緒:会津領主葦名直盛公(七代)の重臣簗田左京亮盛胤は、直盛公に従った鎌倉より来て当地に居住した。葦名公は至徳元年(1384)に始めて黒川(若松)に築城し、この城を小田垣城と呼び、後に黒川城と改めた。現在の鶴ヶ城の前身である。領主直盛公は今後の会津発展のためには、農工商業の守護神である住吉大社を勧請し、神の御加護を願わねばと思いたち、重臣盛胤に命じ京都に上京させた。簗田盛胤は、足利将軍義満公より会津四郡並びに隣国迄の商人の司となることを許され、帰若にあたり、大阪住吉大社の御分霊を材木町の川原の清浄な地に勧請し奉鎮したのが始まり。十日市は住吉神社で行った市神祭や大町四つ角で行った簗田市が始まりである。市神様の「おふだ」には住吉大社と春日大社の二柱の神名が載せてある。
明治戊辰戦争では、住吉神社前で激しい戦火を交え、向拝殿は焼失したが、会津兵は勝利の凱旋を挙げる。この戦いを「住吉川原の戦い」と云って史実として有名である。
毎年7月31日には夏超大祓の祭式が盛大に行われる。
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罪や穢れを自ら祓い、汚れや不吉を浄化し過去を反省し、心を改め明日への新しい出発を誓って祈った。
午前中はからりと晴れて暖かかった。妻と二人で近所の住吉神社にお参りに行った。初詣は正月三日以内とか一週間以内とかいわれているが
新年になって、正月に初めて神社やお寺、寺院に参詣し、その一年の幸せを祈願することを初詣でというので期間はないと思う。
(初参り=はつまいりとも言われます)
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住吉神社の御祭神は底筒男命(ソコツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツオノミコト)、表筒男命(ウワツツオノミコト)、神功皇后(ジングウコウゴウ)、総称して住吉大社という。
由緒:会津領主葦名直盛公(七代)の重臣簗田左京亮盛胤は、直盛公に従った鎌倉より来て当地に居住した。葦名公は至徳元年(1384)に始めて黒川(若松)に築城し、この城を小田垣城と呼び、後に黒川城と改めた。現在の鶴ヶ城の前身である。領主直盛公は今後の会津発展のためには、農工商業の守護神である住吉大社を勧請し、神の御加護を願わねばと思いたち、重臣盛胤に命じ京都に上京させた。簗田盛胤は、足利将軍義満公より会津四郡並びに隣国迄の商人の司となることを許され、帰若にあたり、大阪住吉大社の御分霊を材木町の川原の清浄な地に勧請し奉鎮したのが始まり。十日市は住吉神社で行った市神祭や大町四つ角で行った簗田市が始まりである。市神様の「おふだ」には住吉大社と春日大社の二柱の神名が載せてある。
明治戊辰戦争では、住吉神社前で激しい戦火を交え、向拝殿は焼失したが、会津兵は勝利の凱旋を挙げる。この戦いを「住吉川原の戦い」と云って史実として有名である。
毎年7月31日には夏超大祓の祭式が盛大に行われる。
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罪や穢れを自ら祓い、汚れや不吉を浄化し過去を反省し、心を改め明日への新しい出発を誓って祈った。