会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

松阪城跡と御城番組屋敷

2014-12-10 18:50:57 | 旅行
2014年12月9日(火)曇5.2℃~ -2.2℃
 
   退職公務員連盟北会津支部福利厚生部主催の第1回ボウリング大会がサンシャインボウルで開催された。昨年までは囲碁大会だったが参加者が高齢になり集りも悪かった。今回誰でも参加できるボウリング大会となった。
2ゲーム、靴、飲み物1本で1,000円。安いか高いか分からないが、ボウリングが盛んな時は2時間待ちでもゲームをしたことを思い出した。また、ボウリングが静かなブームを呼んでいるのだろか、若い人達もゲームを楽しんでいた。

10ポンドのボールをもって試技第1投。ストライク。周りの人から喝采。自分でびっくり。10数年ぶりだったのでいざゲームが始まるとストライクは2回だけ、スペアが3回、後はガーターなどめちゃくちゃだった。19名参加で5チーム。私の組は高齢者。みんな似たり寄ったりで笑いながらゲームをした。若い人がいるチームは勢いがあり高得点を出す者もいて拍手、拍手。  時には孫など連れて家族でボウリングを楽しむのもいいかなと思った日であった。  

「ガイドの案内で公園を歩く」

 旅行2日目(12月1日)ホテルを出発して「龍泉寺へ」

 当山は、昔から「お伊勢に七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」とうたわれ、火防安住、商売繁盛、良縁祈願所として当地の人々から信心を集め「あたごさん、あたごさん」と親しまれています。ご本尊は、火防(ひぶせ)の霊神『愛宕大権現』と御分身の敬愛慈悲佛『愛染明王』をお祀りする寺院です。また、三重四国八十八霊場の「第八十番札所」であり、伊勢乃国・松阪霊地七福神「毘沙門天」をお祀りする寺院。

 この寺の片隅に蒲生氏郷の碑があった。わずか2年だけの藩主だったので扱いもこの程度かと思ってしまった。それでも商都まつさかの礎を築いた蒲生氏郷公を偲んで開催する氏郷まつりは、今年11月3日に53回目を迎えて実施した。
蒲生氏郷を中心とした武者行列も行われている。
 
 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男。初名は賦秀、または教秀。また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン。子に蒲生秀行
天正12年(1584)、羽柴秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄四五百(よいほ)の森の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで同16年(1588)に入城できた平山城がかつての松坂城です。
 
 氏郷の松坂在住はわずか2年でしたが、郷里日野町や伊勢の大湊などから商人を招き、商業による町の繁栄に意を注ぎ、のちの“商都まつさか”の基を築いた。その後1590年には92万石の太守として会津に移封された。
誇らしげにそびえ立つ石垣は、松阪のシンボル的存在。桜や藤、銀杏が石垣を彩り、四季を通じて市民に親しまれている。城跡からは城下町の面影を残す町並みを一望できる。平成23年2月7日 国の史跡に指定されました。


松坂城跡が公園になっており、一番印象深かったのは松坂御城番のことであり、当時とあまり変わりなく今も生活している組屋敷が残っていたことである。
 ネットで調べると
 「松坂御城番、紀州藩士(40石(こく)取り)20人とその家族が住んだ組屋敷で、文久3年(1863)に建築された。市道を挟んで並び立つ東西2棟の主屋(しゅおく)からなり、周囲には槇垣(まきがき)が巡る。

 主屋は、平屋建、桟瓦葺(さんがわらぶき)で、各戸は間口5間、奥行5間を標準とし、これが東棟に10戸、西棟に9戸分連なる。

 当初は、東西合わせて20戸あったが、明治35年、松阪工業高校創設当時、西棟の北端2戸が仮教室として使用された後、1戸が切り詰められた。

 各戸の平面は、向かって右手を1間幅の土間とし、左手には田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台(しきだい)を構える。

 市道に面する表側には前庭を設け、裏側には幅1間の角屋(つのや)が付く。

 屋敷は現在も子孫の方々により維持管理され、整然と住まわれている、全国的にも類例の少ない武士の組屋敷である。

 松阪市では、1戸分を借用して復元整備し、平成2年4月より一般公開している。」