2014年12月28日(日)晴 -1.3℃~ー11.1℃
朝から快晴。昨日雪片づけを本気でやったがまだ少し残っていた。寒さ厳し冬には暖房が欠かせない。向いの息子夫婦の家と我が家で使用する灯油はかなり多い。ポリタンク10本とホームタンクを満杯にしている。
12月初旬に給油したが、今冬は大雪になるかもしれない。 大通りから拙宅まできれいに雪片付けしたので灯油センターへ給油を頼んだ。日曜だったが年末なので営業していた。大きなタンクローリ車が来たが入り口のところで横滑りするからといって拙宅まで入れなかった。昨年までは入り口の両隣の家人が屋根の雪が落ちると片づけていたので車が入ってこれた。今年は無人となり片づけない。我々家族だけでは20m以上の路地をきれいにするのは大変だ。ポリタンク給油し、何度も往復してホームタンクを満杯にした。業者には苦労をかけた。できるだけこまめに雪片付けをして車が入ってこれるようにするか、業者に苦労を掛けるがポリタンクで運んでもらうしかない。
「旧軽井沢散策」
碓氷峠・めがね橋の見学を終える頃、空模様が悪くなった。軽井沢に着いた時は午後4時ころだというのに小雨が降りあたりがうす暗くなっていた。
標高1000mに広がる軽井沢。宣教師・外国人・要人、皇族などの別荘地、避暑地、観光客の賑わいのイメージが先入観としてあった。駐車場で軽井沢マップをもらい自由散策。
<町のホームページから>
『 追分の浅間神杜に、芭蕉の『ふきとばす石も浅間の野分かな』という句を記した碑があります。元禄元年(1688)、芭蕉は『更科紀行』の旅で中山道の追分・沓掛・軽井沢宿を通り、碓氷峠を越えています。当時3つの宿場は浅間根腰の三宿と呼ばれ、参勤交代の行列や善光寺参詣の人々でにぎわいました。いまその面影はほとんど失われましたが、追分にわずかばかり残る建築物が街道筋の風情を感じさせます。
明治になると離山から矢ケ崎を通り群馬県坂本へ通じる碓氷新道や馬車鉄道が開通し、近代化のなかで峠越えの旅は様相を変えていきます。
明治19年、一人の外国人の来訪が、軽井沢を宿場町から避暑地へと一変させます。友人とともに軽井沢を訪れたカナダ生まれの英国聖公会宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーは、故国スコットランドを紡佛させるすばらしい自然に感動して、『森の中の屋根のない病院』と軽井沢を称えました。明治21年には大塚山に山荘を構え、軽井沢の魅力を内外の知人に紹介。それ以後、別荘が建ち、明治中期には万平ホテル、三笠ホテルなどの西洋ホテルが登場し、保健休養地としての地位を確立していきました。』
傘を差しながらマップをみながら歩いた。マップは旧軽メーンストーリーの一部分の地図だったので、軽井沢のシンボル昭和10年設立。米建築界の巨匠アントニン・レイモンド設計の木造建築「聖パウロ教会」やショー氏ゆかりの教会と別荘第一号を復元したシュー記念礼拝堂と記念館、万平ホテル などを見ることがっできなかった。
ミツバチを顔中につけたお蜂蜜の家とか裏通りにある天皇陛下と皇后陛下がテニスをしたコートなどを見つけることができた。
朝から快晴。昨日雪片づけを本気でやったがまだ少し残っていた。寒さ厳し冬には暖房が欠かせない。向いの息子夫婦の家と我が家で使用する灯油はかなり多い。ポリタンク10本とホームタンクを満杯にしている。
12月初旬に給油したが、今冬は大雪になるかもしれない。 大通りから拙宅まできれいに雪片付けしたので灯油センターへ給油を頼んだ。日曜だったが年末なので営業していた。大きなタンクローリ車が来たが入り口のところで横滑りするからといって拙宅まで入れなかった。昨年までは入り口の両隣の家人が屋根の雪が落ちると片づけていたので車が入ってこれた。今年は無人となり片づけない。我々家族だけでは20m以上の路地をきれいにするのは大変だ。ポリタンク給油し、何度も往復してホームタンクを満杯にした。業者には苦労をかけた。できるだけこまめに雪片付けをして車が入ってこれるようにするか、業者に苦労を掛けるがポリタンクで運んでもらうしかない。
「旧軽井沢散策」
碓氷峠・めがね橋の見学を終える頃、空模様が悪くなった。軽井沢に着いた時は午後4時ころだというのに小雨が降りあたりがうす暗くなっていた。
標高1000mに広がる軽井沢。宣教師・外国人・要人、皇族などの別荘地、避暑地、観光客の賑わいのイメージが先入観としてあった。駐車場で軽井沢マップをもらい自由散策。
<町のホームページから>
『 追分の浅間神杜に、芭蕉の『ふきとばす石も浅間の野分かな』という句を記した碑があります。元禄元年(1688)、芭蕉は『更科紀行』の旅で中山道の追分・沓掛・軽井沢宿を通り、碓氷峠を越えています。当時3つの宿場は浅間根腰の三宿と呼ばれ、参勤交代の行列や善光寺参詣の人々でにぎわいました。いまその面影はほとんど失われましたが、追分にわずかばかり残る建築物が街道筋の風情を感じさせます。
明治になると離山から矢ケ崎を通り群馬県坂本へ通じる碓氷新道や馬車鉄道が開通し、近代化のなかで峠越えの旅は様相を変えていきます。
明治19年、一人の外国人の来訪が、軽井沢を宿場町から避暑地へと一変させます。友人とともに軽井沢を訪れたカナダ生まれの英国聖公会宣教師のアレキサンダー・クロフト・ショーは、故国スコットランドを紡佛させるすばらしい自然に感動して、『森の中の屋根のない病院』と軽井沢を称えました。明治21年には大塚山に山荘を構え、軽井沢の魅力を内外の知人に紹介。それ以後、別荘が建ち、明治中期には万平ホテル、三笠ホテルなどの西洋ホテルが登場し、保健休養地としての地位を確立していきました。』
傘を差しながらマップをみながら歩いた。マップは旧軽メーンストーリーの一部分の地図だったので、軽井沢のシンボル昭和10年設立。米建築界の巨匠アントニン・レイモンド設計の木造建築「聖パウロ教会」やショー氏ゆかりの教会と別荘第一号を復元したシュー記念礼拝堂と記念館、万平ホテル などを見ることがっできなかった。
ミツバチを顔中につけたお蜂蜜の家とか裏通りにある天皇陛下と皇后陛下がテニスをしたコートなどを見つけることができた。