あかない日記

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忠臣蔵・赤穂浪士

2016-12-14 | 出来事・行事

 

旧吉良邸跡(本所松坂町公園)


12月14日は
“赤穂浪士” が 吉良邸に討 ち入った日。


1702(元禄15)年12月14日
 寅の刻(午前4時頃)

火事装束に身をかためた
赤穂浪士47人が 本所「吉良邸」に討ち入った。


本懐を遂げて 卯の刻(午前6時)頃
 浪士達は  隊列を整え

降り積もった雪を踏みしめ
 江戸の街を縦断して

辰の刻(午前8時)頃 泉岳寺に到着した。
その距離は 約 12km。

そして 旧主の墓前に 吉良上野介の首を供えた。

 


現在の吉良邸跡は 
首洗い井戸周辺の 約 30坪(約100㎡)が

吉良邸跡として残っている。

当時の吉良邸は
現在の約85倍の広さが あったという。

 

 討ち入り後 最初に休息した地
両国橋東詰の「広小路」

 

「一之橋」

隅田川から入って最初の橋から
「いちのはし」と名付けられた。

浪士一行が 最初に渡った橋とされている。

 

ちくま屋前の碑

引き上げの途中 永代橋の手前にあった
味噌問屋・乳熊(ちくま)屋で休息した。

寒さと疲労の赤穂浪士たちを 甘酒で 迎えた。
現在も 12月14日には
甘酒を店先で ふるまっているそうだ。

 

現在の永代橋

 永代橋は 将軍綱吉が 50歳を迎えたことを
記念して1690(元禄11)年に創架された。
 その4年後 赤穂義士たちは 大川に架かる
永代橋を渡って泉岳寺へ向かう。


 

 松の大廊下跡(皇居)

江戸城内にあった大廊下の一つ
畳敷きの「松の大廊下」は
全長50m 幅4mあったという。


廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が
描かれていたことから
「松の大廊下」と言われた。

浅野内匠頭が吉良上野介を
切りつけたのが この廊下であった。

 

 

 平河門(不浄門)

事件のその日のうちに 浅野内匠頭は
網駕篭に乗せられ 不浄門といわれる 平河門から

芝愛宕の 田村右京大夫屋敷 へ送られた。

 

 

 浅野内匠頭邸宅跡

この場所(中央区明石町)に 
浅野内匠頭の邸宅があったが
刃傷事件で 即日 切腹を命じられた。

また 江戸屋敷 領地など 取り上げられ
浅野家は 御家取り潰し 断絶した。

 

港区新橋4にある史籍

 
奥州一ノ関藩3万石
田村右京大夫屋敷にて
浅野内匠頭は 切腹した。
享年35歳 
 
辞世の句
「風さそふ 花よりも なほ我はまた
  春の名残を いかにとやせん」

「南部坂」(港区赤坂6)

この「南部坂」は 
歌舞伎 忠臣蔵の名場面のひとつ。

討ち入り直前 大石良雄 が
内匠頭正室・阿久里(搖泉院)に 暇乞いに訪れた
「南部坂雪の割れ」の舞台になった。



 赤坂氷川神社(港区赤坂6)

浅野内匠頭 切腹後
正室・搖泉院は 実家である

三次藩浅野家屋敷に引き取られていた。

この屋敷は 赤坂・南部坂の頂上付近
現在の 氷川神社境内にあった。

しかしながら
我々の知っている「忠臣蔵・赤穂浪士」の
話のほとんどが
お芝居の創作なんですね!