こんな「売らんかな」のタイトルがついた本、一瞬でスルーするのが常なのだが…
「超東大脳の育て方」
←東大に入れたら幸せな人生が待ってる、ってことにならないのは確か
あれ、これってあの伊東乾では!? と著者名が目に留まった。伊東は多い姓だが、「乾」という名はあまり見ない。ぱらぱらと中を確認すると間違いないようなので買って帰った。帯のあおり文句は、「わが子を真の「人生の勝者」にするために」だって。ふふ(^^;;
「あの」伊東乾というのは誰かというと、大学時代、「制作集団」と称する音楽グループを作って変てこりんな現代音楽をやっていた人だ。私はそこで、伊東乾が作ったわけわからん曲の、フルート・パートを吹かされたことがあるのだ。
友だちってほど近しい人ではないし、卒業してから一度も会ったことはないので、向こうはたぶん私のことは記憶にないだろうけど、こちらは忘れられない。なにしろ大学時代に会った数ある変人の中でも間違いなく一番変なのが彼だったから。
彼は作曲をするほど音楽が好きで、あれこれ詳しくて、いつも驚かされるような着眼点と感性をもっていて、それなのにどの楽器ができるということはなかった。それだけでも変わっているけど、彼は私より一学年下で、でも二歳年上で、その三浪の間に何をしていたかというと、留学して理転(文二から理一に)していた。
文句なくおもしろい人だったけどちょっと変すぎてあまり近寄れなかったので(-_-;; 詳しくは知らない。今は助教授さんですか(「助教授」はこの本の発売当時。2007年に「准教授」)。しかも「作曲=指揮・情報詩学研究室」ってそれなに?? 東大に音楽の先生がいるの?? それにしても、あれだけ変わってればその部分がちゃんと飯の種になるのね。なるほど。
それで、この本で言っている「超東大脳」というのは何かというと、まず
「東大脳」は「東大入試に合格できる力」と定義する。
「東大脳」というと、融通が利かないとか、世間を知らないとかいうマイナスイメージで使われることもあると思うが、ここではただ単に「東大入試に合格できる力」。読み書きそろばん、基本的な情報処理能力、論理思考能力、表現力などを持っていることを指す。
伊東氏が教える相手の学生たちは、ともかく「東大脳」は持っていることが前提なので、だから何というか、それだけでは特に意味はない。その中で、すぐ学校にこられなくなってひきこもってしまう人あり、一片の創造力を発揮することなく低空飛行で卒業していく人あり。そして一部に、大学生になったあともすくすくと成長し、(主に学問的な)創造性を発揮し豊かな成果を挙げていく人がいる。
それで、その一部の人を称して「超東大脳」の持ち主とこの本では呼んでいるわけだ。この本はその「育て方」なんだから、これを読めば私の子どもももしかして…!?
ということにはならない。当たり前だけど。この「育て方」の中身には、そんなにめちゃくちゃなことが書いてあるわけじゃないけど、結局のところ実践できるかどうかは人それぞれ、素質によるというか読んでできるもんじゃなし、あと、仮に同じ育て方したって、あとは子どもによるわけよ(笑) 身も蓋もないけど。
ま、読み物としてはおもしろかったので、ご興味のある方はご覧ください。伊東さんちの子育て(つまり乾の母)はかなり変わってると思う。伊東氏が卒業した武蔵もだいぶ変わってるし。
この本の中では、「東大脳」は持ちつつ人生に挫折する人のパターンが、「走り高飛び」にたとえられている。ポテンシャル(能力・努力などから得た力)がバーより低くても、バー(入試)を越える瞬間だけの必死の調整でえいやと無理やり越えさせるようなニュアンスである。
実際の走り高飛びの競技に問題があるといっているわけではもちろんないけど。そういう入試の越え方にマイナスイメージを持っているということだ。伊東氏は紛れもなく、めちゃくちゃにあばれながら効率悪く高く飛んで越えた人であり、ほかにも、スーッと涼しい顔して無駄なくらい高く優雅に越えた人とか、姿勢が変でよくあれで越えられるなと思われつつバランス悪く奇跡のように越えた人(誰とはいわないけど…)とか、いろいろいるんだと思う。
ところで自分のことを振り返れば、間違いなく私は「走り高跳び派」。バーの位置や性質をよくよく吟味し、すれすれででも確実に超えられるよう準備して、最小限の能力と努力で、重心低めの背面飛びをした。
そうやって越えてしまったら、もっと余力のある人たちの中でアップアップするかというと、別にそんなことはない。自分が得意なこと、つまり「バーをよく見て効率よく調整して越えること」の能力を生かせばいいわけだ。大学生の間にある試験やレポートはもちろんのこと、社会人になってからの仕事だって、この能力はすごく役に立つ。別にズルしているわけじゃなくて、この能力自体が価値を生み出すシーンは公私問わずいろいろあるのだ。逆さにしてふったって「超東大脳」のカケラも出てこないが、優れた研究者になれないだけの話で、暮らす上での不都合は感じない。
だから、充実した幸せな人生を送れるかどうかは、「超東大脳」を持っているかどうかではなくて…何か別の分かれ目があると思う。たぶん伊東氏がいっている「育て方」は「超東大脳」を育てる必要条件のごく一部であって、それは「東大脳/超東大脳」に関わらず、なにかしら自分なりに充実した人生を築けるかどうかの分かれ目にも深く関係することであるような気がする。そして、そのほかの必要条件には、伊東氏があまり意識していない部分もあるんだ、きっと。
ちなみに、我が家の子どもたちは「東大脳/超東大脳」のいずれも持っていないようだけど、だからどうだということはない。向き不向きが違うだけで、その、「何か別の分かれ目」のところさえはずさなければ、自分の能力を発揮しつつ充実した人生を掴む道を見つけてくれると信じている。それが何なのか今はまだよくわからないんだけどね…。
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←東大に入れたら幸せな人生が待ってる、ってことにならないのは確か
あれ、これってあの伊東乾では!? と著者名が目に留まった。伊東は多い姓だが、「乾」という名はあまり見ない。ぱらぱらと中を確認すると間違いないようなので買って帰った。帯のあおり文句は、「わが子を真の「人生の勝者」にするために」だって。ふふ(^^;;
「あの」伊東乾というのは誰かというと、大学時代、「制作集団」と称する音楽グループを作って変てこりんな現代音楽をやっていた人だ。私はそこで、伊東乾が作ったわけわからん曲の、フルート・パートを吹かされたことがあるのだ。
友だちってほど近しい人ではないし、卒業してから一度も会ったことはないので、向こうはたぶん私のことは記憶にないだろうけど、こちらは忘れられない。なにしろ大学時代に会った数ある変人の中でも間違いなく一番変なのが彼だったから。
彼は作曲をするほど音楽が好きで、あれこれ詳しくて、いつも驚かされるような着眼点と感性をもっていて、それなのにどの楽器ができるということはなかった。それだけでも変わっているけど、彼は私より一学年下で、でも二歳年上で、その三浪の間に何をしていたかというと、留学して理転(文二から理一に)していた。
文句なくおもしろい人だったけどちょっと変すぎてあまり近寄れなかったので(-_-;; 詳しくは知らない。今は助教授さんですか(「助教授」はこの本の発売当時。2007年に「准教授」)。しかも「作曲=指揮・情報詩学研究室」ってそれなに?? 東大に音楽の先生がいるの?? それにしても、あれだけ変わってればその部分がちゃんと飯の種になるのね。なるほど。
それで、この本で言っている「超東大脳」というのは何かというと、まず
「東大脳」は「東大入試に合格できる力」と定義する。
「東大脳」というと、融通が利かないとか、世間を知らないとかいうマイナスイメージで使われることもあると思うが、ここではただ単に「東大入試に合格できる力」。読み書きそろばん、基本的な情報処理能力、論理思考能力、表現力などを持っていることを指す。
伊東氏が教える相手の学生たちは、ともかく「東大脳」は持っていることが前提なので、だから何というか、それだけでは特に意味はない。その中で、すぐ学校にこられなくなってひきこもってしまう人あり、一片の創造力を発揮することなく低空飛行で卒業していく人あり。そして一部に、大学生になったあともすくすくと成長し、(主に学問的な)創造性を発揮し豊かな成果を挙げていく人がいる。
それで、その一部の人を称して「超東大脳」の持ち主とこの本では呼んでいるわけだ。この本はその「育て方」なんだから、これを読めば私の子どもももしかして…!?
ということにはならない。当たり前だけど。この「育て方」の中身には、そんなにめちゃくちゃなことが書いてあるわけじゃないけど、結局のところ実践できるかどうかは人それぞれ、素質によるというか読んでできるもんじゃなし、あと、仮に同じ育て方したって、あとは子どもによるわけよ(笑) 身も蓋もないけど。
ま、読み物としてはおもしろかったので、ご興味のある方はご覧ください。伊東さんちの子育て(つまり乾の母)はかなり変わってると思う。伊東氏が卒業した武蔵もだいぶ変わってるし。
この本の中では、「東大脳」は持ちつつ人生に挫折する人のパターンが、「走り高飛び」にたとえられている。ポテンシャル(能力・努力などから得た力)がバーより低くても、バー(入試)を越える瞬間だけの必死の調整でえいやと無理やり越えさせるようなニュアンスである。
実際の走り高飛びの競技に問題があるといっているわけではもちろんないけど。そういう入試の越え方にマイナスイメージを持っているということだ。伊東氏は紛れもなく、めちゃくちゃにあばれながら効率悪く高く飛んで越えた人であり、ほかにも、スーッと涼しい顔して無駄なくらい高く優雅に越えた人とか、姿勢が変でよくあれで越えられるなと思われつつバランス悪く奇跡のように越えた人(誰とはいわないけど…)とか、いろいろいるんだと思う。
ところで自分のことを振り返れば、間違いなく私は「走り高跳び派」。バーの位置や性質をよくよく吟味し、すれすれででも確実に超えられるよう準備して、最小限の能力と努力で、重心低めの背面飛びをした。
そうやって越えてしまったら、もっと余力のある人たちの中でアップアップするかというと、別にそんなことはない。自分が得意なこと、つまり「バーをよく見て効率よく調整して越えること」の能力を生かせばいいわけだ。大学生の間にある試験やレポートはもちろんのこと、社会人になってからの仕事だって、この能力はすごく役に立つ。別にズルしているわけじゃなくて、この能力自体が価値を生み出すシーンは公私問わずいろいろあるのだ。逆さにしてふったって「超東大脳」のカケラも出てこないが、優れた研究者になれないだけの話で、暮らす上での不都合は感じない。
だから、充実した幸せな人生を送れるかどうかは、「超東大脳」を持っているかどうかではなくて…何か別の分かれ目があると思う。たぶん伊東氏がいっている「育て方」は「超東大脳」を育てる必要条件のごく一部であって、それは「東大脳/超東大脳」に関わらず、なにかしら自分なりに充実した人生を築けるかどうかの分かれ目にも深く関係することであるような気がする。そして、そのほかの必要条件には、伊東氏があまり意識していない部分もあるんだ、きっと。
ちなみに、我が家の子どもたちは「東大脳/超東大脳」のいずれも持っていないようだけど、だからどうだということはない。向き不向きが違うだけで、その、「何か別の分かれ目」のところさえはずさなければ、自分の能力を発揮しつつ充実した人生を掴む道を見つけてくれると信じている。それが何なのか今はまだよくわからないんだけどね…。
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