先日ご紹介した「超東大脳の育て方」は、いいこともいっぱい書いてあるんですよ…あるんですけど、どうしても一点は突っ込みたい部分があるんで突っ込ませてください。
←詰め込み反復、いいじゃないのまずはやってみたら
伊東乾さんは、親から「勉強しなさい」って言われたことがほとんどないそうです。だいたいそんなこと口うるさくいったら逆効果だっていう考え方で、そのことをピアノに例えてこう言っています。
「もうピアノ練習したの? 明日お稽古でしょ、練習しているの、お母さんぜんぜん聞こえなかったけど?」
そして、「わたしピアノ嫌い」なんてことを言い出そうものなら、
「あなたそんなことを言って、もうすく発表会じゃないの。ちゃんとお稽古しなきゃダメでしょ」
「そんなに言うんだったら、お母さんが練習すればいいじゃん」
「お母さんはいいの」(以下略)
…まぁこれは、「ピアノを早く粗大ごみにする方法」というわけです。
一方、こうではなくて、家にあるピアノを、お母さんが、毎日楽しく弾いていたらどうでしょう。そのほかにも、優れた音楽を楽しんで聴く習慣や、音楽の話をする習慣があったら?? きっと、子どもは自分からやりたくなるでしょう。ふむふむ、なるほど。もっともですね。
…しかし、ちょっと待った。自慢じゃないけど、うちはそういう理想的な環境ですよ?? その結果、
・またろう…ピアノを楽しんで弾くようになり、習慣として定着。
・こじろう…部活を口実に、これ幸いとやめちゃった。
・はなひめ…先生が好きだからやめてないけど、ピアノが特に好きではなく、レッスン以外の時間にはたいがい弾かない。
まぁこんなもんです。これはピアノだから、私はこれでよかったと思ってます。ピアノが好きになる子が、気長に楽しんでくれればそれでいい。
しかし、これがピアノじゃなくて基本的な学力のことだったら??
歩留まり三割とかでいいですか!?
伊東氏は母親から、「嫌いな勉強は一切するな」といわれて、ただ宿題などをやっているとときどき覗きにきて、上手くできていればとにかく褒めてくれたそうです。そういう「心理戦に引っかかって」自分で納得のいくところまでとことん突き詰めるという習慣がついたのだとか。
まぁ、ぶっちゃけ、そういう子もいるだろうし、そうでない子もいるだろうとしかいいようがありません。伊東氏は素質もあったのでしょうし、小学校入学前(父親存命中)にはずいぶん早期教育もされたようです。
この本の中に、いわゆる「ゆとり教育」を導入したときの文部大臣である有馬さんの話が出てきます。有馬さんのセリフとして、ゆとり教育の原点は、土日に子どもが親と一緒に人間らしい時間を過ごせるようにしたかったことである、というのと、「学校で断片的な知識だけは、やたらとたくさん教えるけれど、それをまとめてどう生かせばよいかは、ちっとも教わらない。だから『総合学習』というものを導入しようとしたんだけどね」…実際に役所経由で全国展開したら思うところと違っちゃった、というのが載っています。
また、別の人の述懐として「ゆとり教育で有馬さんがイメージしてたのは、武蔵みたいなものだと思うんだよね」というのが出てきます。
そのあたりの話のあと、武蔵(伊東氏がいた頃の)で行われていたすばらしいリベラルアーツ教育の様子、理念と、伊東氏が東大で情報教育を行うにあたってそれを参考にしつつアレンジした方針などが説明されています。要するに、「超東大脳」を育てようとしている教育の話です。自ら調べ、自ら学ぶ、本質を捉える、などなど。
私はもちろん武蔵の中のことは知りませんが、武蔵が輩出する人々の変人ぶり超東大脳を見て、すばらしい教育が行われていることは想像できます。
でもね。なんか忘れてませんか?? 武蔵であれ、東大であれ、ここに例として引き合いに出されている旧制高校であれ、詰め込み反復教育による基礎学力を身に着けることにある程度成功した人材ばっかり集めてあるんですよ。それを集めて成功した総合学習的教育を、選抜もなく年齢も違う小学校におろしてどうするの?? 役所のせいじゃなくても、同様にいくとは思えません。
有馬さんも、伊東さんも、自分がどれだけしっかりその無味乾燥な反復のところを消化してきたのか、そんな昔のことはきれいさっぱり忘れちゃってるのかも。
我が家では中学受験を経験していない子/している子の両方がいますが、中学受験ってけっこう悪くないって思います。抽象的な思考がぐぐっと発達する小学校高学年の時期に、基本的な概念・知識を幅広く「詰め込み」「反復」します。公立小学校でやってる、あまりに薄っぺらな、誘導尋問的なテストと異なり、基本がしっかり定着していないと得点できないように工夫が凝らされています。ここでしっかりやっておけば、その後の「詰め込みでない教育」にも対応しやすくなること請け合いです。ま、なりゆきからどうにもtoo muchな部分もありますし、つい遅くなりがちな生活リズムなど、問題も多いですけどね。
とあるイベントの引率にいったとき、待ち時間に小学六年生の女の子たちが学校の宿題の計算ドリルをやっていたことがありました。お互いに教えあってだだーっと解いていたのですが、あるところで詰まって、誰もわからなかったので手近にいた大人(私)に聞いてきました。
「200人の60%は何人か」という問題だったと思います。自信なさげなメモ書きで120という数字があり、200×60= と書きかけてぐちゃっと消してあり、200÷60= と書きかけてぐちゃっとまた消してあります。どうも、日常的な感覚からいって100人の60%は60人だと思うし、その倍だから120人だろうと。でも、どうやって120になるかわからない。かけても割ってもうまくいかないよ??
「これの答えは何ですか」と聞かれたので私は、「この答えで合っているよ。60をかけるのはいいんだけど、60倍じゃなくてパーセントだから100で割らないとね」と言ったのですが、その子は「あ、120でいいんだ。終わった!!(^-^) ありがとーございます」といって式は書かずにすぐしまってしまいました。
もうすぐ春、中学生はすぐそこ、という時期でした。日常感覚から答えを推定できたことからも、ふだんの会話からも、決して知的能力に不足はないと感じられる子です。ほかの子たちも同様です。それでもパーセントがなんかよくわかんないまま卒業していく…。
それでいいの?? ゆとりより、超東大脳より、まずは陰山式、公文式、秋田方式、日能研、サピックス、なんでもいいから基礎学力つけて。割合もわかんないで総合的学習なんてできないよ。
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伊東乾さんは、親から「勉強しなさい」って言われたことがほとんどないそうです。だいたいそんなこと口うるさくいったら逆効果だっていう考え方で、そのことをピアノに例えてこう言っています。
「もうピアノ練習したの? 明日お稽古でしょ、練習しているの、お母さんぜんぜん聞こえなかったけど?」
そして、「わたしピアノ嫌い」なんてことを言い出そうものなら、
「あなたそんなことを言って、もうすく発表会じゃないの。ちゃんとお稽古しなきゃダメでしょ」
「そんなに言うんだったら、お母さんが練習すればいいじゃん」
「お母さんはいいの」(以下略)
…まぁこれは、「ピアノを早く粗大ごみにする方法」というわけです。
一方、こうではなくて、家にあるピアノを、お母さんが、毎日楽しく弾いていたらどうでしょう。そのほかにも、優れた音楽を楽しんで聴く習慣や、音楽の話をする習慣があったら?? きっと、子どもは自分からやりたくなるでしょう。ふむふむ、なるほど。もっともですね。
…しかし、ちょっと待った。自慢じゃないけど、うちはそういう理想的な環境ですよ?? その結果、
・またろう…ピアノを楽しんで弾くようになり、習慣として定着。
・こじろう…部活を口実に、これ幸いとやめちゃった。
・はなひめ…先生が好きだからやめてないけど、ピアノが特に好きではなく、レッスン以外の時間にはたいがい弾かない。
まぁこんなもんです。これはピアノだから、私はこれでよかったと思ってます。ピアノが好きになる子が、気長に楽しんでくれればそれでいい。
しかし、これがピアノじゃなくて基本的な学力のことだったら??
歩留まり三割とかでいいですか!?
伊東氏は母親から、「嫌いな勉強は一切するな」といわれて、ただ宿題などをやっているとときどき覗きにきて、上手くできていればとにかく褒めてくれたそうです。そういう「心理戦に引っかかって」自分で納得のいくところまでとことん突き詰めるという習慣がついたのだとか。
まぁ、ぶっちゃけ、そういう子もいるだろうし、そうでない子もいるだろうとしかいいようがありません。伊東氏は素質もあったのでしょうし、小学校入学前(父親存命中)にはずいぶん早期教育もされたようです。
この本の中に、いわゆる「ゆとり教育」を導入したときの文部大臣である有馬さんの話が出てきます。有馬さんのセリフとして、ゆとり教育の原点は、土日に子どもが親と一緒に人間らしい時間を過ごせるようにしたかったことである、というのと、「学校で断片的な知識だけは、やたらとたくさん教えるけれど、それをまとめてどう生かせばよいかは、ちっとも教わらない。だから『総合学習』というものを導入しようとしたんだけどね」…実際に役所経由で全国展開したら思うところと違っちゃった、というのが載っています。
また、別の人の述懐として「ゆとり教育で有馬さんがイメージしてたのは、武蔵みたいなものだと思うんだよね」というのが出てきます。
そのあたりの話のあと、武蔵(伊東氏がいた頃の)で行われていたすばらしいリベラルアーツ教育の様子、理念と、伊東氏が東大で情報教育を行うにあたってそれを参考にしつつアレンジした方針などが説明されています。要するに、「超東大脳」を育てようとしている教育の話です。自ら調べ、自ら学ぶ、本質を捉える、などなど。
私はもちろん武蔵の中のことは知りませんが、武蔵が輩出する人々の
でもね。なんか忘れてませんか?? 武蔵であれ、東大であれ、ここに例として引き合いに出されている旧制高校であれ、詰め込み反復教育による基礎学力を身に着けることにある程度成功した人材ばっかり集めてあるんですよ。それを集めて成功した総合学習的教育を、選抜もなく年齢も違う小学校におろしてどうするの?? 役所のせいじゃなくても、同様にいくとは思えません。
有馬さんも、伊東さんも、自分がどれだけしっかりその無味乾燥な反復のところを消化してきたのか、そんな昔のことはきれいさっぱり忘れちゃってるのかも。
我が家では中学受験を経験していない子/している子の両方がいますが、中学受験ってけっこう悪くないって思います。抽象的な思考がぐぐっと発達する小学校高学年の時期に、基本的な概念・知識を幅広く「詰め込み」「反復」します。公立小学校でやってる、あまりに薄っぺらな、誘導尋問的なテストと異なり、基本がしっかり定着していないと得点できないように工夫が凝らされています。ここでしっかりやっておけば、その後の「詰め込みでない教育」にも対応しやすくなること請け合いです。ま、なりゆきからどうにもtoo muchな部分もありますし、つい遅くなりがちな生活リズムなど、問題も多いですけどね。
とあるイベントの引率にいったとき、待ち時間に小学六年生の女の子たちが学校の宿題の計算ドリルをやっていたことがありました。お互いに教えあってだだーっと解いていたのですが、あるところで詰まって、誰もわからなかったので手近にいた大人(私)に聞いてきました。
「200人の60%は何人か」という問題だったと思います。自信なさげなメモ書きで120という数字があり、200×60= と書きかけてぐちゃっと消してあり、200÷60= と書きかけてぐちゃっとまた消してあります。どうも、日常的な感覚からいって100人の60%は60人だと思うし、その倍だから120人だろうと。でも、どうやって120になるかわからない。かけても割ってもうまくいかないよ??
「これの答えは何ですか」と聞かれたので私は、「この答えで合っているよ。60をかけるのはいいんだけど、60倍じゃなくてパーセントだから100で割らないとね」と言ったのですが、その子は「あ、120でいいんだ。終わった!!(^-^) ありがとーございます」といって式は書かずにすぐしまってしまいました。
もうすぐ春、中学生はすぐそこ、という時期でした。日常感覚から答えを推定できたことからも、ふだんの会話からも、決して知的能力に不足はないと感じられる子です。ほかの子たちも同様です。それでもパーセントがなんかよくわかんないまま卒業していく…。
それでいいの?? ゆとりより、超東大脳より、まずは陰山式、公文式、秋田方式、日能研、サピックス、なんでもいいから基礎学力つけて。割合もわかんないで総合的学習なんてできないよ。
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