昔…どのくらい昔かというと20年くらい前に、NHK教育で「ピアノでモーツァルトを」という番組があった。
←うまい演奏のコピーをしようとしても(できないけど)しょうがない
最近でいえば「スーパー・ピアノレッスン」だけど、要するに公開レッスンのテレビ版ね。取り上げられていた曲は、ソナタK.331とか、キラキラ星変奏曲とか、わりと親しみ深いものが多くて、ちょいと弾いてみようかな的なラインナップなんだけれども、これがなかなか曲者の番組で。
ワルター・クリーンの演奏というのが、これがまた、ほんとにスーパーな透き通った美しい演奏で、今でもかなり好き。聞くんだったらということだけれども…。それで、出てくる生徒たちは、レッスンの場であるウィーンらへんに留学しているような人。
つまり、なんとかがんばってこのソナタ弾いてみようかな~的な自分から考えると、気の遠くなるほど上手な人々が生徒として出てきて、それがもうなんというかワルター・クリーンの手にかかればけちょんけちょん。音が大きすぎる、速すぎる、とにかく「すぎる」ところをどんどん削られていく。確かに、クリーンの演奏を「お手本」として考えれば、余分なところのありすぎるごつごつした演奏に聞こえるんだよね。ことごとく。
で、そういう「公開レッスン」をたっぷり見てしまった後は、いやなんかとにかくおとなしく、何事もなく弾かなきゃいけないんだねと思ってしまい(ほんとうはそういうメッセージじゃないんだろうけど)、なるべくそのように弾いてみると、そりゃもう平板でつまらない演奏。
だからといってここから何をしても怒られる(クリーンさんに聞かれてるわけじゃないんだが)ような気がして、なんにもできなくなってしまう。
そもそも、そういうふうに、どこも出っ張らないような演奏なんて、できやしないわけ。指がそのように滑らかに鍛錬されていないんだから。
そしたら結論はひとつ:
いやまったく、モーツァルトなんて弾くもんじゃないね。
でも、これって、間違ってはいないかもしれないけど(^^;; もったいない結論じゃない??
ワルター・クリーンみたいに弾けなかったら、弾かないほうがいいの?? 断然違うでしょ!! …と、今は思っているんだけれど(20年経ったから)。
ピアノを再開して、いろんな大人のアマチュアピアノを聞くようになると、そういう完璧なめらか系ってことはふつうないんだけれども、その中で、とても魅力的な演奏をする人というのはいて、それは全部のでっぱったところを最大限刈りそろえたような演奏というのではなくて、持てる技量の中で最大限豊かな表現をしている演奏。
速くても遅くても音が混んでいても完璧コントロールが効くような指を持っているのでない現状から、最大限の表現をしている演奏というのは、テンポにしろニュアンスにしろ、それはワルター・クリーンとは違う。たぶん、技術も、個性も違うのだから、最善の演奏というのはまったく違う結論になるんじゃないだろうか。
ということをおぼろげに考えるようになって、それでふと気がついたのだけれど、自分ががんじがらめになっていたものは、作曲者の意図ではなくて、あるプロの演奏であるということだ。作曲者の意図(あるいは楽譜)に忠実でなくてはいけないというのはたぶん真実なのだろうけど、ひとつの解にすぎない演奏のコピーをすることに縛られるってのはぜんぜん違う。
結局、楽譜をきちんと読み取ることをしないで、テキトーにCD聞いて、楽譜を半端に見て、弾こうとするから自分に合わないフォームに縛られているような気がするんじゃないだろうか。もし、自力で読譜して、作者の意図に忠実に正確に弾こうとしたら、実はもっと自由に、自分のありかたに沿った演奏ができるのかもしれないのに…!?
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最近でいえば「スーパー・ピアノレッスン」だけど、要するに公開レッスンのテレビ版ね。取り上げられていた曲は、ソナタK.331とか、キラキラ星変奏曲とか、わりと親しみ深いものが多くて、ちょいと弾いてみようかな的なラインナップなんだけれども、これがなかなか曲者の番組で。
ワルター・クリーンの演奏というのが、これがまた、ほんとにスーパーな透き通った美しい演奏で、今でもかなり好き。聞くんだったらということだけれども…。それで、出てくる生徒たちは、レッスンの場であるウィーンらへんに留学しているような人。
つまり、なんとかがんばってこのソナタ弾いてみようかな~的な自分から考えると、気の遠くなるほど上手な人々が生徒として出てきて、それがもうなんというかワルター・クリーンの手にかかればけちょんけちょん。音が大きすぎる、速すぎる、とにかく「すぎる」ところをどんどん削られていく。確かに、クリーンの演奏を「お手本」として考えれば、余分なところのありすぎるごつごつした演奏に聞こえるんだよね。ことごとく。
で、そういう「公開レッスン」をたっぷり見てしまった後は、いやなんかとにかくおとなしく、何事もなく弾かなきゃいけないんだねと思ってしまい(ほんとうはそういうメッセージじゃないんだろうけど)、なるべくそのように弾いてみると、そりゃもう平板でつまらない演奏。
だからといってここから何をしても怒られる(クリーンさんに聞かれてるわけじゃないんだが)ような気がして、なんにもできなくなってしまう。
そもそも、そういうふうに、どこも出っ張らないような演奏なんて、できやしないわけ。指がそのように滑らかに鍛錬されていないんだから。
そしたら結論はひとつ:
いやまったく、モーツァルトなんて弾くもんじゃないね。
でも、これって、間違ってはいないかもしれないけど(^^;; もったいない結論じゃない??
ワルター・クリーンみたいに弾けなかったら、弾かないほうがいいの?? 断然違うでしょ!! …と、今は思っているんだけれど(20年経ったから)。
ピアノを再開して、いろんな大人のアマチュアピアノを聞くようになると、そういう完璧なめらか系ってことはふつうないんだけれども、その中で、とても魅力的な演奏をする人というのはいて、それは全部のでっぱったところを最大限刈りそろえたような演奏というのではなくて、持てる技量の中で最大限豊かな表現をしている演奏。
速くても遅くても音が混んでいても完璧コントロールが効くような指を持っているのでない現状から、最大限の表現をしている演奏というのは、テンポにしろニュアンスにしろ、それはワルター・クリーンとは違う。たぶん、技術も、個性も違うのだから、最善の演奏というのはまったく違う結論になるんじゃないだろうか。
ということをおぼろげに考えるようになって、それでふと気がついたのだけれど、自分ががんじがらめになっていたものは、作曲者の意図ではなくて、あるプロの演奏であるということだ。作曲者の意図(あるいは楽譜)に忠実でなくてはいけないというのはたぶん真実なのだろうけど、ひとつの解にすぎない演奏のコピーをすることに縛られるってのはぜんぜん違う。
結局、楽譜をきちんと読み取ることをしないで、テキトーにCD聞いて、楽譜を半端に見て、弾こうとするから自分に合わないフォームに縛られているような気がするんじゃないだろうか。もし、自力で読譜して、作者の意図に忠実に正確に弾こうとしたら、実はもっと自由に、自分のありかたに沿った演奏ができるのかもしれないのに…!?
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