「論」というかまぁ、大人のアマチュアがチェルニーを弾かない場合、別に「論」を立てなくてもただ弾かなければいいだけの話で。
←個々人の価値観とセンスによって選択する余地がある、ともいえる
その結果、仮に「ばりばりと」弾けないままになったとしても、世の中、それ系でない曲はあまたあって一生かかっても弾ききれない。「ばりばりと」弾けないからといって別にピアノが下手とは限らない。たとえば、ばりばり系の曲をあまり弾かない(得意としていない?)アマチュアピアニストで、「グルーヴ感」に特長がある「私はタワシ」さん、あるいは「響き」に特長がある「かーたん^^」さん、勝手に引き合いに出して申し訳ないけど、いずれの方も、ばりばりした曲を弾かなくてもとっても魅力ある演奏をなさる方です(ファンです♪)。
どういう路線を目指そうが自由。言い訳をする必要も論を立てる必要もありません。
そこで、プロの「チェルニー不要論」はどんなものかというと、まず私が持ってる本で呉暁さんの「練習しないで上達する導入期のピアノ指導」より。
この著者は、「うたとピアノの絵本」「アキ ピアノ教本」とかを作った人。昔からあまりチェルニーを使わないで指導していたらしいけど、あるとき…というか1992年(と、わざわざ書いてある)、中一のもとゆき君がショパンの幻想即興曲を弾くことになったとき、少し指が動いたほうがいいだろうと思って「チェルニー30番」の中からひとつ選んで、弾いてくるようにいって渡したところ…
「次の週、彼はつかつかとレッスン室に入ってきて、かばんから「チェルニー」の楽譜を出して、放り出しました。「おれ、こんなくだらない音楽を弾くのは嫌だよ」といいました。私は彼がそこまで言うとは思わなかったので驚きました。それ以後、生徒に「チェルニー」を与えたことはありません。」
チェルニーでなく何を使うかというと、たとえば「ピュイグ=ロジェ教本」。「すべてが上等な音楽なので、「チェルニー」を弾いているときよりも「もっといい音で弾きたい」「もっと音楽的に表現したい」という気持ちが起こり、上等なテクニックがつきます。」といっています。
この先生がいいたいことを、誤解を恐れずに私なりにまとめますと、人は楽しいことをしているときに一番集中して工夫しますから、弾きたい曲、美しい曲を弾きつつ、「耳に」教えてもらいながらテクニックを身につけていくのがよいと。たとえばミクロコスモス、とりわけバッハ。あるいはモーツァルトを弾けば音階の練習ができ、ベートーベンを弾けば分散和音の練習ができる。弾けないところがあればそこの部分練習を考えていっしょにクリアしていく。
この先生の「論」は、これまでの膨大な指導経験と実績(生徒たちが難しいピアノ曲までちゃんと、楽しみつつ音楽的に弾けるようになったという)に裏打ちされていますから説得力があります。
また別の角度から、ご紹介。日本の「ショパン弾き」の草分けともいえる野辺地瓜丸はしばしば「練習曲は必要ない」といっていたそうだ。野辺地は美しいタッチと自在なルバートに定評があり、ばりばり系の演奏が嫌いだったらしい。けれども。
なぜか、この人の初レコーディングはなんと「チェルニー30番」で、それがまた、「あまりの美しさに愕然としてしまう。初歩の練習曲という段階を超えて、芸術的な「音楽」として聴こえるのである。」という具合(佐野仁美「日本におけるアルフレッド・コルトー受容: 初期のフランス派ピアニスト野辺地瓜丸がもたらしたもの」より)。
野辺地はこのレコードの解説に
「皆夫々音楽的に一貫して筋の通った楽曲を成していること、そして更に、そのどれをとっても音楽としての簡潔さ、素直な楽しさ美しさを相当に具えている」
「音楽的に正しく表現するということを第一の目標にしなければならない」
「それに適当したphrasing、指づかい、打鍵法、或いはペダルの用い方等を勉強してこそ、真の技術への手がかりとして、この練習曲が充分に役立ったと云える」
と書いている。結局のところ、本気で表現を工夫しながら弾けるものであって、かつ、練習すべき要素が含まれているものであれば、チェルニーでなくてもよい、逆にチェルニーであってもよい。そういうことでしょうか。
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その結果、仮に「ばりばりと」弾けないままになったとしても、世の中、それ系でない曲はあまたあって一生かかっても弾ききれない。「ばりばりと」弾けないからといって別にピアノが下手とは限らない。たとえば、ばりばり系の曲をあまり弾かない(得意としていない?)アマチュアピアニストで、「グルーヴ感」に特長がある「私はタワシ」さん、あるいは「響き」に特長がある「かーたん^^」さん、勝手に引き合いに出して申し訳ないけど、いずれの方も、ばりばりした曲を弾かなくてもとっても魅力ある演奏をなさる方です(ファンです♪)。
どういう路線を目指そうが自由。言い訳をする必要も論を立てる必要もありません。
そこで、プロの「チェルニー不要論」はどんなものかというと、まず私が持ってる本で呉暁さんの「練習しないで上達する導入期のピアノ指導」より。
この著者は、「うたとピアノの絵本」「アキ ピアノ教本」とかを作った人。昔からあまりチェルニーを使わないで指導していたらしいけど、あるとき…というか1992年(と、わざわざ書いてある)、中一のもとゆき君がショパンの幻想即興曲を弾くことになったとき、少し指が動いたほうがいいだろうと思って「チェルニー30番」の中からひとつ選んで、弾いてくるようにいって渡したところ…
「次の週、彼はつかつかとレッスン室に入ってきて、かばんから「チェルニー」の楽譜を出して、放り出しました。「おれ、こんなくだらない音楽を弾くのは嫌だよ」といいました。私は彼がそこまで言うとは思わなかったので驚きました。それ以後、生徒に「チェルニー」を与えたことはありません。」
チェルニーでなく何を使うかというと、たとえば「ピュイグ=ロジェ教本」。「すべてが上等な音楽なので、「チェルニー」を弾いているときよりも「もっといい音で弾きたい」「もっと音楽的に表現したい」という気持ちが起こり、上等なテクニックがつきます。」といっています。
この先生がいいたいことを、誤解を恐れずに私なりにまとめますと、人は楽しいことをしているときに一番集中して工夫しますから、弾きたい曲、美しい曲を弾きつつ、「耳に」教えてもらいながらテクニックを身につけていくのがよいと。たとえばミクロコスモス、とりわけバッハ。あるいはモーツァルトを弾けば音階の練習ができ、ベートーベンを弾けば分散和音の練習ができる。弾けないところがあればそこの部分練習を考えていっしょにクリアしていく。
この先生の「論」は、これまでの膨大な指導経験と実績(生徒たちが難しいピアノ曲までちゃんと、楽しみつつ音楽的に弾けるようになったという)に裏打ちされていますから説得力があります。
また別の角度から、ご紹介。日本の「ショパン弾き」の草分けともいえる野辺地瓜丸はしばしば「練習曲は必要ない」といっていたそうだ。野辺地は美しいタッチと自在なルバートに定評があり、ばりばり系の演奏が嫌いだったらしい。けれども。
なぜか、この人の初レコーディングはなんと「チェルニー30番」で、それがまた、「あまりの美しさに愕然としてしまう。初歩の練習曲という段階を超えて、芸術的な「音楽」として聴こえるのである。」という具合(佐野仁美「日本におけるアルフレッド・コルトー受容: 初期のフランス派ピアニスト野辺地瓜丸がもたらしたもの」より)。
野辺地はこのレコードの解説に
「皆夫々音楽的に一貫して筋の通った楽曲を成していること、そして更に、そのどれをとっても音楽としての簡潔さ、素直な楽しさ美しさを相当に具えている」
「音楽的に正しく表現するということを第一の目標にしなければならない」
「それに適当したphrasing、指づかい、打鍵法、或いはペダルの用い方等を勉強してこそ、真の技術への手がかりとして、この練習曲が充分に役立ったと云える」
と書いている。結局のところ、本気で表現を工夫しながら弾けるものであって、かつ、練習すべき要素が含まれているものであれば、チェルニーでなくてもよい、逆にチェルニーであってもよい。そういうことでしょうか。
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