先週の火曜日に安城の特養にいる母の所に行き、母のそばで一泊し、水曜日に、戻って来た。
私達と、特養との最終の打ち合わせを終わり、私は、その日の準備のために一旦家に帰った。
柏崎にいる妹と電話で打ち合わせをし、受け入れ態勢を整えてもらう。母が亡くなったら、そのまま、母を柏崎まで運んでもらい、向こうで葬儀を行う。
そして、母は、故郷を離れて、7年以上も経つので家族葬にしようと決めていた。
翌木曜日に、お昼を食べていたら、安城の特養から電話が来た。「直ぐに、来て下さい」 と。
慌てて、いつ帰るか分からないので、あれもこれも、喪服もと詰め込み、又、新幹線に乗って安城に向かった。
私が見ても、長くは無いと思った。
それで、妹に電話したら、「明日の早朝に行く」 との事。
その日も、母のそば泊まる。
特養のスタッフの方々が、本当に良くしてくれた。感謝してもしきれないほどに。
翌日の金曜日のお昼過ぎに、妹と甥が車で駆け付けた。
もう、その時には、母の呼吸は穏やかに浅くなっていた。
安城市で唯一、最期の看取りまでしてくれる所なので、夕方、静かに母が息を引き取るまで私達は、十分な別れの時間を持てた。
スタッフの方々が、順番に母に別れを告げに来てくれ、母との思い出を、涙をポロポロ零しながら語ってくれた。私の知らない、特養での母の暮らし。そして、母の笑顔が一杯の、時々のイベントやお出かけの写真を貼ったアルバムをいただいた。
優しい皆さんに妹と感謝した。
主治医の先生が、私達も目の前で、「病名は…、老衰だな」 と診断書を書いてくれた。もう、95歳、大往生だと思う。
直ぐに、地元の葬儀屋さんが来てくれて、用意が出来次第、ストレッチャーに乗せた母を車に乗せて出発して行った。
私達も、甥の車に乗って後を追う。
妙高のあたりから雪になった。一緒に乗っていた、亡くなった姉の長男が運転を変わろうかと言っても、結局、甥が一人で運転した。早朝、家を出て、往復、何百キロ走ったのだろう。
夜中の2時頃に、斎場に付き、母を安置してもらい、ほとんど夕食を食べて無かったので、食事をして、私と姉の長男とで斎場に泊まる。
ほとんど、眠れないまま土曜日。
通夜は、お坊さんの都合で日曜日に決まっていたので、葬儀社との打ち合わせや、親戚等への電話連絡等でその日を過ごす。
その日と通夜の日の夜は、妹と斎場に泊まる。
家族葬用に、最近出来たばかりだという斎場は、綺麗で、ツインのベッドルームにゆったりした日本のお風呂。それもテレビ付き。
家族葬だったけど、お葬式の当日には、母が住んでいた近所の人達もお別れに来てくれた。具合が悪くて来れないと言っていた母の高齢の従姉もお別れに来てくれた。
久しぶりに会って、「うめちゃん、ありがとう」 と手を取り合って泣いた。
母の住んでいた地区の区長さんが来てくれたが、何と、私の幼馴染の同級生。「今年、4年に一度の同級会をするから、出席して」 と言われた。私は、同級会には、ほとんど出席していない。
昨日、月曜日の夜に帰って来たが、随分、長く家を留守にしていたように感ずる。
懐かしい、いとこ達にもあった。遠く鹿児島に住む姉さんの三男にも、久しぶりに会えて嬉しかった。こんな時でも無いと、親戚達に会う事はない。
娘の夫も皆に紹介出来て良かったし、妹の娘達の旦那さん達にも会えて良かった。
もう、母に会う為に新幹線に乗って、安城に行く事も無いのかと思うと寂しい。
仏壇の前に、父、母、姉、夫と4つもの小さな遺影が並んだ。
明日からは、朝のお参り時の話しかけが長くなるかな…。
私達と、特養との最終の打ち合わせを終わり、私は、その日の準備のために一旦家に帰った。
柏崎にいる妹と電話で打ち合わせをし、受け入れ態勢を整えてもらう。母が亡くなったら、そのまま、母を柏崎まで運んでもらい、向こうで葬儀を行う。
そして、母は、故郷を離れて、7年以上も経つので家族葬にしようと決めていた。
翌木曜日に、お昼を食べていたら、安城の特養から電話が来た。「直ぐに、来て下さい」 と。
慌てて、いつ帰るか分からないので、あれもこれも、喪服もと詰め込み、又、新幹線に乗って安城に向かった。
私が見ても、長くは無いと思った。
それで、妹に電話したら、「明日の早朝に行く」 との事。
その日も、母のそば泊まる。
特養のスタッフの方々が、本当に良くしてくれた。感謝してもしきれないほどに。
翌日の金曜日のお昼過ぎに、妹と甥が車で駆け付けた。
もう、その時には、母の呼吸は穏やかに浅くなっていた。
安城市で唯一、最期の看取りまでしてくれる所なので、夕方、静かに母が息を引き取るまで私達は、十分な別れの時間を持てた。
スタッフの方々が、順番に母に別れを告げに来てくれ、母との思い出を、涙をポロポロ零しながら語ってくれた。私の知らない、特養での母の暮らし。そして、母の笑顔が一杯の、時々のイベントやお出かけの写真を貼ったアルバムをいただいた。
優しい皆さんに妹と感謝した。
主治医の先生が、私達も目の前で、「病名は…、老衰だな」 と診断書を書いてくれた。もう、95歳、大往生だと思う。
直ぐに、地元の葬儀屋さんが来てくれて、用意が出来次第、ストレッチャーに乗せた母を車に乗せて出発して行った。
私達も、甥の車に乗って後を追う。
妙高のあたりから雪になった。一緒に乗っていた、亡くなった姉の長男が運転を変わろうかと言っても、結局、甥が一人で運転した。早朝、家を出て、往復、何百キロ走ったのだろう。
夜中の2時頃に、斎場に付き、母を安置してもらい、ほとんど夕食を食べて無かったので、食事をして、私と姉の長男とで斎場に泊まる。
ほとんど、眠れないまま土曜日。
通夜は、お坊さんの都合で日曜日に決まっていたので、葬儀社との打ち合わせや、親戚等への電話連絡等でその日を過ごす。
その日と通夜の日の夜は、妹と斎場に泊まる。
家族葬用に、最近出来たばかりだという斎場は、綺麗で、ツインのベッドルームにゆったりした日本のお風呂。それもテレビ付き。
家族葬だったけど、お葬式の当日には、母が住んでいた近所の人達もお別れに来てくれた。具合が悪くて来れないと言っていた母の高齢の従姉もお別れに来てくれた。
久しぶりに会って、「うめちゃん、ありがとう」 と手を取り合って泣いた。
母の住んでいた地区の区長さんが来てくれたが、何と、私の幼馴染の同級生。「今年、4年に一度の同級会をするから、出席して」 と言われた。私は、同級会には、ほとんど出席していない。
昨日、月曜日の夜に帰って来たが、随分、長く家を留守にしていたように感ずる。
懐かしい、いとこ達にもあった。遠く鹿児島に住む姉さんの三男にも、久しぶりに会えて嬉しかった。こんな時でも無いと、親戚達に会う事はない。
娘の夫も皆に紹介出来て良かったし、妹の娘達の旦那さん達にも会えて良かった。
もう、母に会う為に新幹線に乗って、安城に行く事も無いのかと思うと寂しい。
仏壇の前に、父、母、姉、夫と4つもの小さな遺影が並んだ。
明日からは、朝のお参り時の話しかけが長くなるかな…。