「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         同期会の解散と母校への墓銘碑

2011-04-06 06:51:59 | Weblog
68年前の昭和18年3月、大東亜戦争の最中、東京の国民学校(小学校)を巣立った仲間の会を昨日、母校のあった地で催したが、参加したのは僅か5人、今年限りで解散することにした。その昔の”紅顔の美少年”も傘寿の老爺となり、会の維持が出来なくなった。

僕らは直接戦争には参加した世代ではないが、卒業後の20年5月の山の手空襲で母校が消失、仲間のほとんどが焼け出されたり、疎開したりしてちりちりバラバラになってしまった。卒業時58人いた仲間も20年ほど前、この会を発足した時でさえ、20人たらずだった。それも、ここ数年物故したり、病気などで参加する数が減ってきた。

学校の建物も再建されず、他校と合併して名前だけ残り別の地にあったが、その学校も数年前、小中一貫校が出来て名前までなくなってしまった。明治27年創立という歴史ある伝統校で、僕の母親も第2回の卒業生だったが残念なことだ。

昨日集まった5人は会の解散に当たり、母校の校歌と応援歌を母校への墓銘碑がわりに合唱して解散した。
        ♯ 第二日野国民学校(小学校)校歌
      
       玉の宮ゐにほど近く いとも畏く位置しめし
       我がまなびやの窓おせば 西に富士の根東には
       しづくもつどふ海原の いづれを競ふ姿あり
       
        ♯  同 応援歌

       四方緑に包まれて こづえに高き富士の根を
       仰ぎてここにつどいつつ 大崎健児 日野健児

母校は省線(JR)山手線五反田駅前にあった。百年前には校歌、応援歌のように富士山がこのあたりからも眺められたのだ。