白金の「清正公さま」の大祭
連休後半の昨日、大正3年生まれ、98歳の大先輩から近くの「清正公さま」のお祭りだから遊びに来ないかとの誘いがあった。「清正公さま」とは加藤清正の位牌と像を祀る日蓮宗の覚林寺という古刹だが、昔から江戸っ子の間では「せいしょうこさま」の愛称で知られている。東京港区の桜田通りと目黒通りが交わる三叉路にある。開祖は清正が慶長の役のさい朝鮮から連れてきた李氏朝鮮の王家の血を引く日延上人だと伝えれている。
戦前子供だった頃、僕は「清正公さま」の近くの五反田に住んでいたので5月4,5日の大祭には毎年出かけたが、戦後は引越しした関係ですっかりご無沙汰していた。数えてみたら70年近くぶりの参詣である。「清正公さま」は戦災にあわなかっため山門はじめ昔のままだったが、桜田通りが拡張され周囲に高層ビルが立ち並んだこともあって、子供の時の記憶にある「清正公さま」のお祭りのイメージではなかったが、賑わいは昔以上で、行列して参詣するほどであった。
東京が35区時代には、このあたりは芝区に属し町名の白金も丹波町。猿町、三光町、今里町、君塚町などと江戸の名残をとどめる町名だった。もともと江戸時代には白金は大名の下屋敷があった地域で「清正公さま」のあたりも熊本藩の屋敷がった。戦後かなり遅くまで、今消防署がある地には細川公の屋敷の山門が残っていた。
明治維新後、大名の屋敷は財閥の持ち物に変わった。現在の都ホテルシェラトンは財閥藤山コンツェルン所有の土地で、98歳の大先輩の子供時代には”ふじやま”と呼ばれていて遊び場であったそうだ。僕の子供時代でも白金は、大きな金持ちの屋敷があり”探検ごっこ”には格好の場所が多かった。しかし、戦後こういった財閥の屋敷はなくなり、最近は地下鉄、南北線、三田線の開通で、白金はいっそうの変容を遂げ、今では「清正公さま」の一角だけが、江戸時代からの白金が残っている。(写真は縁起の菖蒲(勝負)のお札を売る店)
戦前子供だった頃、僕は「清正公さま」の近くの五反田に住んでいたので5月4,5日の大祭には毎年出かけたが、戦後は引越しした関係ですっかりご無沙汰していた。数えてみたら70年近くぶりの参詣である。「清正公さま」は戦災にあわなかっため山門はじめ昔のままだったが、桜田通りが拡張され周囲に高層ビルが立ち並んだこともあって、子供の時の記憶にある「清正公さま」のお祭りのイメージではなかったが、賑わいは昔以上で、行列して参詣するほどであった。
東京が35区時代には、このあたりは芝区に属し町名の白金も丹波町。猿町、三光町、今里町、君塚町などと江戸の名残をとどめる町名だった。もともと江戸時代には白金は大名の下屋敷があった地域で「清正公さま」のあたりも熊本藩の屋敷がった。戦後かなり遅くまで、今消防署がある地には細川公の屋敷の山門が残っていた。
明治維新後、大名の屋敷は財閥の持ち物に変わった。現在の都ホテルシェラトンは財閥藤山コンツェルン所有の土地で、98歳の大先輩の子供時代には”ふじやま”と呼ばれていて遊び場であったそうだ。僕の子供時代でも白金は、大きな金持ちの屋敷があり”探検ごっこ”には格好の場所が多かった。しかし、戦後こういった財閥の屋敷はなくなり、最近は地下鉄、南北線、三田線の開通で、白金はいっそうの変容を遂げ、今では「清正公さま」の一角だけが、江戸時代からの白金が残っている。(写真は縁起の菖蒲(勝負)のお札を売る店)