「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

東京大空襲と”トンガリ帽子の赤い屋根”

2015-03-10 06:30:03 | Weblog
毎年3月10日が来るとあの東京下町大空襲の夜を想い出す。当時五反田(品川区)に住んでおり被害には会わなかったが、70年経った今でもあの夜の事は鮮明な記憶にある。9日午後11時過ぎに発令された空襲警報はいつまでたっても解除されず、やっと10日午前3時5分解除され外に出ると、東北の空が真っ赤に染まっている。風の強い寒い夜だった。相当な被害が出たとは思っていたが、まさか10万人もの犠牲者がでるとは考えも及ばなかった。

産経新聞の「大空襲70年」という連載記事によると、全国各地の空襲で、両親や家族を失った”戦災孤児”が12万3511人いたとという。改めて戦争の残酷さを痛感させられたが、このうち引き取り手もなく、長い間、街をさまよって生活していた子供が7117人もいた(昭和23年厚生省調査)と知り、あの過酷な時代を思い起こされた。20年6月、僕は江戸川運河の浚渫工事に勤労動員され、集合場所の上野の山に行く途中、駅の地下街には確かに真っ黒な顔をした”戦災孤児”が大勢たむろしていた。

まだ戦災の焼跡が残る昭和22年、NHKラジオの連続ドラマ「鐘の鳴る丘」が人気を呼んだ。復員してきた主人公が”戦災孤児”と一緒に信州の山里の施設で元気に共同生活を送るドラマは ”緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台”で始まる主題歌とともに当時の少年たち間で大人気であった。しかし、現実は昭和30年大ヒットした宮城まり子が歌う「ガード裏の靴磨き」のように”おいら貧しき靴磨き、夜になっても帰れない”戦災孤児”がまだいた。社会福祉が充実していなかった時代である。戦争はいかに悲惨なものかを物語っている。

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4 コメント

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Unknown (chobimame)
2015-03-10 09:43:34
とんがり帽子の赤い屋根の歌は聞いたことがあります。子供の頃に聞いたナツメロ特集かもしれません。
戦争孤児は靴磨きなどをしていたともききました。
一夜にして、子供がたった一人で生きる手段を考えねばいけなくなる状況は、私たちの想像を越えています。
戦争孤児たちは、いまどんな大人になっているのでしょうね。
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戦災孤児も老人 (kakek)
2015-03-10 16:16:21
chobimame さん
先年、ジャワ旅行をした際、マランという田舎町で元三菱自動車スラバヤ出張所社員だった日本人が戦後華僑の女性と結婚、経済的に成功し、そのお金で現地に児童施設を作り経営しています。戦災孤児と同世代で、子供も時聞いた想い出から、施設とんがり帽子の時計台にしていました。忘れられない記憶なのでしょうね。この世代もすでに70歳代の老人です。
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同年代 (Suara angin)
2015-03-11 00:31:09
懐かしいラジオ番組、放送開始が丁度小学校に入学、
下駄履き、お下がりの洋服で国語の教科書とノートと鉛筆の入った背嚢でした。 放送の時間になると家に帰ってました。
2年生からは寒い冬でも藁草履、今はピカピカの一年生と高価なランドセルに新しい服と靴。 当時は物がない時代で小言は言わず、食事も麦飯は良いほうで、芋や乾麺のくずを混ぜたご飯とみそ汁。 
中学になりると分校場から2教室増え、篤志家が戦争孤児を収容(20名位)、学校に通わせてました。男女数名ぐらいだったと思いますが入ってました。 その施設も今はありません。
その時施設の子供だけのブラスバンドがあり、地域の行事で披露されてました。
今でも時々「緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台
鐘が鳴りますキンコンカン、メエーメエー子ヤギは泣いてます。。。。。」無邪気で、山や田んぼで遊んでた頃が懐かし、思い出を有難うございます。もうすぐ高額医療者の仲間入りです。
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篤志家 (kakek)
2015-03-11 06:54:51
Suara angin さん
数年前安曇野市に住む旧友を訪ねたら”トンガリ帽子”の跡だと説明を受けたことがあります。実話に基づいたドラマだったのですね。マランの旧三菱自動車氏も、同年代で、強くドラマに影響を受けたといっていました。施設に収容されているインドネシア人の身寄りのない少女たち16人が皆元気に明るく、礼儀正しく生活していたのに印象づけられました。
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