平成8年スマトラ旅行に行ったさい撮ったhantu(お化け)の写真が宮古島のバ―ントゥ(お化け)によく似ていることを4月10日の小ブログで書いた。いまその写真を宮古島に送り、専門家に検討をお願いしている。宮古島市教育委員会の文化財係りの新城宗史さんから頂いたメールによると、バ―ントゥの始まりは、村に仮面(バーントゥ)が流れ着いたことからきているとのこと。スマトラのhantuもバ―ントゥと同じような仮面をかぶっている。二つの関連について、いよいよ興味がわいてきた。
10数年前、僕は室町時代初期の応永15年(1408年)福井県小浜市の海岸に象などの贈答品を積んだ南蛮船が着岸したのに興味を持ち、マラッカやその当時旧港と呼ばれていたパレンバンまで足を運び調べたことがあった。結局、現地には何も資料がなかったが、小浜市の郷土史家から頂戴した「中世南島通交貿易の研究」(小葉田淳著 刀江書院刊)から、南蛮船が旧港の華僑が日本へ派遣したものと、ほぼ確定できることができた。
京都大学の教授だった、小葉田先生のこの本には、小浜の象に絡んで当時の琉球王国とマラッカ王国との通商関係も記述してある。そこで僕はhantuとバーントゥとの関係を示唆するものはないかと読み返してみた。すると、こんな記述が見つかった。「元の元統年間(1333年―35年)蜜牙古(宮古)人がselat(インドネシア語で海峡)=漢字で(手偏に散)里即=に来ている。つまり今の新嘉坡(シンガポール)あたりにまで通商に来ていたのである。琉球王国とマラッカ王国との通商関係は琉球の外交文書「歴代宝案」にも記述されているが、それ以前の時代、しかも琉球本島ではない宮古から、こんな遠隔の地まで商売に来ていたことを知り驚いた。バーントゥが宮古に流れつくといのも、まったくありえないことではない。
10数年前、僕は室町時代初期の応永15年(1408年)福井県小浜市の海岸に象などの贈答品を積んだ南蛮船が着岸したのに興味を持ち、マラッカやその当時旧港と呼ばれていたパレンバンまで足を運び調べたことがあった。結局、現地には何も資料がなかったが、小浜市の郷土史家から頂戴した「中世南島通交貿易の研究」(小葉田淳著 刀江書院刊)から、南蛮船が旧港の華僑が日本へ派遣したものと、ほぼ確定できることができた。
京都大学の教授だった、小葉田先生のこの本には、小浜の象に絡んで当時の琉球王国とマラッカ王国との通商関係も記述してある。そこで僕はhantuとバーントゥとの関係を示唆するものはないかと読み返してみた。すると、こんな記述が見つかった。「元の元統年間(1333年―35年)蜜牙古(宮古)人がselat(インドネシア語で海峡)=漢字で(手偏に散)里即=に来ている。つまり今の新嘉坡(シンガポール)あたりにまで通商に来ていたのである。琉球王国とマラッカ王国との通商関係は琉球の外交文書「歴代宝案」にも記述されているが、それ以前の時代、しかも琉球本島ではない宮古から、こんな遠隔の地まで商売に来ていたことを知り驚いた。バーントゥが宮古に流れつくといのも、まったくありえないことではない。
小浜の象は鄭和の部下であった華僑が派遣したものです。ザビエルが来る百年も前の話です。元はそれ以前の時代です。我々が考えている時代よりかなり昔から外国との交流があったのではないでしょうか。奈良時代にすでにペルシャ人がきているという話もあります。こういう歴史的な謎解きにはわくわくします。