「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      「新宿二丁目」 「品川遊郭」 「抹香町」

2009-03-29 07:38:28 | Weblog
「新宿二丁目」が”ニューハーフ”の町であるこいとをNHKのラジオで知った。僕ら
後期高齢者の世代にとって「新宿二丁目」の町名は、ほろ苦い響きがあり、昔は
昼間他人の前で口にするのをはばかった。都心からの都電が靖国通りの方角に
右折した一角で、昭和33年3月31日、売春禁止法が施行されるまでまで、ここで
公然と売春が行われていた。

昨日、品川の荒神様で知られる海雲寺の春の例祭に詣でたあと、足を伸ばして
東海道五十三次の品川宿をぶらり散歩した。品川宿も半世紀前までは、宿場と
いうより、遊郭として知られていた。京急線の北品川駅で降りて旧東海道に入る
とすぐに「土蔵相模跡」の石標がたっている。幕末、高杉振作らの志士が密議をし
た大妓楼があった跡である。僕の記憶では昭和30年代初期まで、この「土蔵相
模」の独特の海鼠壁は残っていた。

売春が政府公認で行われた場所を当時「赤線」と呼んだ。取締りの役所は非公認
地域を青線で囲み、公認の場所を赤線で囲んだことから来ている。都内にはこの
「赤線」は、新宿二丁目のほか、吉原、須崎、亀有、新小岩、武蔵新田など数か所
あった。東京だけでなく全国の主な都市にはどこにでも赤線があった。小田原の抹
香町は川崎長太郎の私小説でとくに有名であった。


こうした遊郭の世界は、いまや落語の世界にしか残っていない。若い世代には解り
にくくなってきた。多分、建物も「土蔵相模」と同じように壊された。文化財として残
すほど価値があるのかどうか解らないが、日本のかっての文化であったことには違
いない。


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5 コメント

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消えてゆく運命 (kakek)
2009-03-30 16:30:10
chobimame さん
問題が問題ですから、世界遺産として残ることはないでしょう。が、日本各地に"赤線"跡はまだ残っています。建築学的にはたいしたことはなくても、当時の風俗は感じられます。数年前、仕事で北九州市の戸畑に
行きましたら面影が残っていました。八王子もまだ残っていると思います。半世紀以上前の事ですから当時を知っている人も少なくなりましたね。吉行さんの世代までです。
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あっ (chobimame)
2009-03-29 20:40:31
吉行淳之介です。義之ではありません。
他にも誤字があり、大変失礼致しました。
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興味深い (chobimame)
2009-03-29 20:33:00
最近の風俗史にはあまり興味がありませんが、遊郭や赤線の話は興味深く好きです。なぜかというとこういう場所にこそ人間のドラマは人間臭さがあるからです。義之淳之介のエッセイなどは面白いですね。それか赤線地帯の風俗史や、当時の遊女のレポートなどは大変興味深いです。今と違って遊女の背景には色々背負っているものがあり、また遊ぶ客にも人情があったりしたものです。
今の新宿2丁目は完全にゲイの街です。
何度か知人に連れられて勉強がてら飲みに行きましたが、なかなか入りづらい空気です。
美形なお兄ちゃんが公園でたちんぼをしてる姿は衝撃的です。
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産業戦士 (kakek)
2009-03-29 12:30:52
やん さん
戦争中、あのあたりは軍需工場がたくさんあり、独身の工員さん(産業戦士と呼ばれていました)がたくさんいました。僕も昭和20年7月ー8月の僅かな期間でしたが、多摩川のガス橋近くの工場に動員されました。中学三年でしたが、朝鮮からも沢山働きに来ていました。遊郭は武蔵新田の駅の近くにありました。
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武蔵新田もですか (やん)
2009-03-29 11:28:15
東急線の矢口の渡に住んでいたので武蔵新田は隣の駅でした。でも遊郭があったなんて知りませんでした。
吉原は有名ですよね。新宿2丁目もゲイバーなどが多いと聞いてましたが。いつも世も風俗はあるんですねぇ。
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