NHKの夕方の首都圏ローカル番組で「太白芋」が話題になっている。「太白芋」は
戦前から関東地方で生産されてきた、どちらかといえば高級品種のサツマイモであ
ったが、最近は姿を消していた。芋の皮は薄い紅色で、形は細長く、なにより色が
白く甘味が濃かった。この「太白芋」がまた埼玉県の秩父地方で生産され、郷愁も
あってか人気を呼んでいるそうだ。
サツマイモはもともと江戸時代の享保、天明の大飢饉のさい"救荒作物”として生産
された食べ物だが、戦中戦後の食糧難時代も"救荒”として大活躍した。農水省の統
計によると、昭和18年には450万㌧もの収穫量があった。平成18年の97万㌧に比べ
れば、なんと5倍近く生産されていた。だから当時を知っている世代には、サツマイモ
は身近な存在で想い出もある。
亡父の昭和20年11月12日の日記には「闇屋さん,甘蔗持ってくる。朝、芋入りめし、昼
芋の粉のパン、夜も同じ」とある。当時は米の配給が遅配がちで、あってもサツマイモ
などの代用食が多かった。都会では、この代用食をいかにおいしく食べるか工夫をして
いた。サツマイモの粉のパンもその一つだ。
今は幸い豊かな時代である。"救荒植物”であったサツマイモでさえ、かなり輸入に頼っ
ているそうだ。記憶が薄らいできたが、食糧難の頃、配給になったサツマイモには「太白
芋」はなかった。「沖縄100号」という大型の品種で正直いっておいしい品種ではなかった。
何もなかった時代だ。たまに闇屋さんが持ってきた「太白芋」を母が蒸してくれるのを待ち
きれず,箸で刺してたべたのが懐かしい。
戦前から関東地方で生産されてきた、どちらかといえば高級品種のサツマイモであ
ったが、最近は姿を消していた。芋の皮は薄い紅色で、形は細長く、なにより色が
白く甘味が濃かった。この「太白芋」がまた埼玉県の秩父地方で生産され、郷愁も
あってか人気を呼んでいるそうだ。
サツマイモはもともと江戸時代の享保、天明の大飢饉のさい"救荒作物”として生産
された食べ物だが、戦中戦後の食糧難時代も"救荒”として大活躍した。農水省の統
計によると、昭和18年には450万㌧もの収穫量があった。平成18年の97万㌧に比べ
れば、なんと5倍近く生産されていた。だから当時を知っている世代には、サツマイモ
は身近な存在で想い出もある。
亡父の昭和20年11月12日の日記には「闇屋さん,甘蔗持ってくる。朝、芋入りめし、昼
芋の粉のパン、夜も同じ」とある。当時は米の配給が遅配がちで、あってもサツマイモ
などの代用食が多かった。都会では、この代用食をいかにおいしく食べるか工夫をして
いた。サツマイモの粉のパンもその一つだ。
今は幸い豊かな時代である。"救荒植物”であったサツマイモでさえ、かなり輸入に頼っ
ているそうだ。記憶が薄らいできたが、食糧難の頃、配給になったサツマイモには「太白
芋」はなかった。「沖縄100号」という大型の品種で正直いっておいしい品種ではなかった。
何もなかった時代だ。たまに闇屋さんが持ってきた「太白芋」を母が蒸してくれるのを待ち
きれず,箸で刺してたべたのが懐かしい。
肥よくな土地だと甘くないんですよね、ぼけた感じになると聞いたことがあります。
亡くなった祖母はおやつにさつまいもを蒸かしてくれました、最近食べてないなぁと思いだしました。
サツマイモも色々な種類があり中には高級品になっているものもあるそうです。先日、知人に種子島の安納芋をもらいました。皮は白っぽく、ジャガイモ程の大きさですが、中身は玉子のキミを思わすような色で、大変甘みが強いです。おやつに最適です。
ご祖母の時代でしょうか、焼き芋より手近な蒸し芋(ふかし芋)が、どこの家でも子供のおやつでした。
当時はどこの家庭でも古いご飯をふかす鍋がありました。とにかくサツマイモが、どこの家でも、毎日のように食べていた時代がありました。
お母様や叔母様がさつぃまいもを食べない気持ちがわかります。毎日のようにサツマイモが食卓に上がっていた時代です。沖縄という品種は大きいだけで、時には雨に当たったのか、とても食べられないものでした。太白は当時ぜいたく品でした。一度たべて見たいです。金時というおいしい品種もありました。