「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

    アウンサン将軍(スーチーさんの父)と”百人斬り”野田毅少佐

2013-04-14 06:42:05 | Weblog
ミャンマー民族運動の指導者で最大野党、国民民主連盟(NND)党首アウンサン.スーチーさんが政府の招きで来日している。スーチーさんの父親アウンサン将軍はミャンマーでは”独立の父”として知られているが、昭和15年から16年にかけて、当時宗主国であった英国から追われ、日本の諜報機関「南機関」の庇護の下、日本名「面田紋二」の名前を使い亡命生活している。

アウンサン将軍の亡命先の一つ浜松市は「南機関」の長であった鈴木敬司陸軍大佐の故郷の地である関係もあって、浜名湖の東岸、大草山には日本とミャンマーの友好顕彰碑「日緬永遠の友好」の碑が昭和49年に関係者によって建てられている。僕らの世代には、ミャンマーより緬甸(ビルマ)の旧名のほうが懐かしいが「日緬」はこれから来ている。

大東亜共栄圏時代、小学生であった僕らは、今よりビルマはもっと近い国だった。スーチーさんの来日を機会に当時の出来事をネットで”渉猟”していたら意外の関係を知った。南京攻略戦の際、新聞の誤報”百人斬り”に巻き込まれ、戦後の連合軍裁判で死刑にされた野田毅少佐が「南機関」の一員としてビルマ独立義勇軍の参謀として軍の指導に当たっていた。もちろん、アウンサン将軍とも面識があった。

戦後、野田少佐は処刑寸前の獄中で”私のビルマ時代の秘史はもう秘められる必要はない。すでにビルマは独立しているのだから”と前置きして”ビルマ時代の諸兄にとろしく”と書き残している。”百人斬り”は、当時の新聞が面白おかしく戦意の向上のため書いたものである。これに巻き込まれて獄死した野田少佐はまったく無念だったに違いない。しかし、獄中でビルマの独立を知り出来れば当時の秘史を後世に伝えたい気持ちもあったのかもしれない。

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