ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が終結してから今日(4月30日)で40周年に当たる。外信部(国際部)記者だった時代(1956年―69年)のほとんどがインドシナの混乱期と重ねあっている僕にとって、忘れられない日の一つである。あれから40年、今は戦火は去り、ベトナムと日本は相互の観光ブームに湧いている。ベトナム観光局の調べ(2013年)だと、日本人は年間60万人余ベトナムを訪れており、一方、ベトナム人の日本観光も8万人と急増している。
毎月家に届く大手観光会社のパンフレットを見ると、記者時代何度も記事にした懐かしい名前がる。北ベトナムの首都だったハノイ、南ベトナムの米軍基地のあったダナン、また、当時の北の大統領だったホーチミンの名前が、当時、南の首都であったサイゴンに代わって呼ばれている。
ベトナム人の親日度は97パーセントだという調査がある。これが相互の観光ブームの礎なのだろう。大東亜戦争中、日本軍は佛印を占領、サイゴンには南方軍総司令部が置かれたが地上戦はなかった。これに対して、ベトナム戦争では、南と北それに外国軍まで入り乱れた戦争になったが、幸い、日本はいっさい、この戦いには関与しなかった。同じアジア人でも、中国は北を支援し、韓国やタイは米国軍の支配下で北と戦った。なかでも中国は戦後すぐ領土問題で紛争をおこし最近も西沙群島で争っていて評判が悪い。
ベトナム戦争中「ベ平蓮」(ベトナム平和運動)で、米国の軍事介入に抗議した世代もすでに定年を迎えている。ベトナムを訪れる観光客の中にもこの「ベ平連」世代も多いという。やはり平和は好いものだ。
毎月家に届く大手観光会社のパンフレットを見ると、記者時代何度も記事にした懐かしい名前がる。北ベトナムの首都だったハノイ、南ベトナムの米軍基地のあったダナン、また、当時の北の大統領だったホーチミンの名前が、当時、南の首都であったサイゴンに代わって呼ばれている。
ベトナム人の親日度は97パーセントだという調査がある。これが相互の観光ブームの礎なのだろう。大東亜戦争中、日本軍は佛印を占領、サイゴンには南方軍総司令部が置かれたが地上戦はなかった。これに対して、ベトナム戦争では、南と北それに外国軍まで入り乱れた戦争になったが、幸い、日本はいっさい、この戦いには関与しなかった。同じアジア人でも、中国は北を支援し、韓国やタイは米国軍の支配下で北と戦った。なかでも中国は戦後すぐ領土問題で紛争をおこし最近も西沙群島で争っていて評判が悪い。
ベトナム戦争中「ベ平蓮」(ベトナム平和運動)で、米国の軍事介入に抗議した世代もすでに定年を迎えている。ベトナムを訪れる観光客の中にもこの「ベ平連」世代も多いという。やはり平和は好いものだ。
ベトナムの今はどうなっているのでしょうか?枯れ葉剤や地雷の撤去はどうなっているのか気になります。
戦争は、本当に嫌です。
やはり戦争の傷跡が残っており、戦火によって離別した家族が多く、テレビでその”人探し”番組が高視聴率だそうです。あの当時、南北統一を目指して米軍と戦っていた「南ベトナム解放戦線}を、日本の新聞は米国にならって
当初は米国にならって”ベトコン”と蔑視していましたが、次第にこれをやめました。ニュースソースが米国に偏っていたのですね。時代を感じます。
日本は歴史的に直接ベトナムと戦火を交えることがなかったのは幸いだと思います。
中国の貪欲な海洋進出に対して、日本とベトナムとで連携を強化し、平和を維持することを願います。
インドネシアの地には、和蘭400年の植民地時代の歴史遺産が、地方都市には残っています。オランダ人に言わせると、本国ではもうなくなった昔の建築様式の建物が残っているそうです。植民地時代のイヤな想い出はあるかも知れませんが、文化遺産として残して貰いたいです。メダンは1930年代には、世界一街並みがきれいだったといわれるだけに、一つの観光資源です。