「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            ハマのアメ横 松原商店街で買物

2012-05-14 06:04:47 | Weblog
昨日娘夫婦に誘われて横浜のアメ横といわれる洪福寺松原商店街へ老妻と一緒に車に乗せて貰って初めて買物に行った。東京目黒区のわが家からは第三京浜の玉川JCから高速道路にのり横浜の三ツ沢JCで降りればすぐである。渋滞もなく30分足らずで行け、高速料金も250円とそんなに高くはない。

横浜といえば戦前僕が子供だった時代、両親に連れられて伊勢佐木町へ買物に行き「南京町」(中華街)でよく食事をした。戦後も野毛山動物園や大桟橋へ行き桜木町で焼売を土産に買ったことはあった。しかし、洪福寺松原商店街とは初めて聞く名前で、どこにあるのかも知らなかった。そこで旧友の一人で、家が開港以前、横浜村の時代からあったというY君に電話して聞いてみた。するとY君曰く。「新天地カフェー街」の近くだという。と、いわれてもハマっ子ではない僕にはわからない。Y君の話だと浅間神社の近くで、戦後進駐軍向けのRAA(特殊慰安施設)つまり遊郭のあった近くだという。

洪福寺は江戸時代から東海道沿いにあった臨済宗鎌倉派の古刹である。松原商店街はこのお寺を中心に戦後開けた商店街である。だから街のはずれには、まだ昔をしのばせる写真のような竹林も残っていた。最近、ハマのアメ横とテレビで宣伝されたこともあって一日に二万人の買い物客が来るほどの賑わいだ。たしかにわが家近くの商店街に比べて野菜もサカナも肉も安い。老妻は早速マグロのカマを400円でゲットし、キャベツ、大根,人参などなど買いあさった。

家から車で30分足らずで行けて安い買い物ができれば、ガソリン代、駐車料金を支払ってもモトはとれるかもしれない。僕もこうしてブログの材料にすることができた。

          マニラのニュースが「北京 バンコク」発

2012-05-13 05:52:48 | Weblog
11日付けの読売新聞(首都圏版)が国際面トップで”南シナ海対立先鋭化、きょうにも(マニラ)で反中デモ”と大きく伝えていた。しかし翌12日の同新聞はデモは300人規模で、マニラの中国領事館前で行なわれ”中比抗議合戦”だったと2段見出しの小さな扱いになっていた。二つの記事ともクレジットにはバンコクと北京の読売特派員の名前が記されている。察するに記事は両特派員の情報に基づいて東京で書いたものに違いない。読売に限らず日本の新聞には最近、こういったニュースソースが明確ではない報道がある。

半世紀前、僕が外信部(国際部)の記者だった時代には、外信部の主な仕事は外国通信社からテレックスで流れてくるニュースを重要度に応じて取捨選択して翻訳することであった。翻訳した記事には必ず「マニラ発○日=AFP」とクレジットをつけた。この慣習がいつの間にか日本の新聞から消えてしまった。僕はその後転職して外信部から離れてしまったから何時からと特定できないが、1970年代から80年代ではないだろうか。この結果、日本の新聞の国際面のニュースの中には、ソースの不明なニュースが多くなってきた。これは日本の報道機関だけで欧米の新聞はきちんとソースを明記している。

僕の体験から言ってもバンコクで遠く離れたマニラのニュースを細かく記者の目でカバーするのは至難の技だ。新聞社のメンツの問題なのだろう。自社の特派員網の中では、マニラに最も近い支局はバンコクなので、北京の情報とともに「北京バンコク」発というおかしなクレジットにしてしまったのだろう。マニラのデモにはロイター通信の写真が添えられていた。バンコクの自社の特派員が遠く離れたマニラの記事を書くより、マニラ駐在の外国通信社の記者が書いた記事のほうが読者には自然のように思われるが、どうだろうか。

                政治家のマナーの悪さ

2012-05-12 06:54:10 | Weblog
民主党の石井一参院予算委員長が大型連休中国会規則に反して8日間もフィリッピンへ渡航していた責任をとって委員長を辞任した。石井氏は昨年の東日本大震災の直後にも党の震災事故対策副本部長の要職にありながら、同僚議員とマニラでゴルフを楽しんでいたことが発覚、副本部長を辞任している。言ってみれば、同じような”前科”がある。何故こういった人物を予算委員長などに選ぶのだろうかー。これは国民の素朴な疑問である。

辞任表明した後の記者会見だろうか石井氏がテレビの画面に大写しされていた。僕はこれを見て石井氏の態度は、まるでヤクザの親分のように見えた。派手な服装はまあ良いとしても、右手をズボンのポケットに突っ込んだまま記者団に応対する姿はギャングの親分にも見えた。戦争中、中学生だった僕らの世代は、学校の規則でズボンのポケットは縫って閉じるよう命じられた。非常時に若者が手をポケットに入れて登校するとは何事かという理由からであった。

クールビズの季節である。国会中継をみると政治家もそれなりに苦労しているように見える。もともとクールビズは環境省が中心となって建物内の室温を規制して服装を簡素化することから始まっている。だから必ずしもネクタイにこだわる必要はないのだが、見ていると若い議員はノータイ、比較的年代の高い議員はきちんとネクタイをしめているようだ。僕はそれはそれでよいと思うが、他人に不快感を与えるようなマナーの悪さは慎んだほうがよいと思う。心のみだれは服装からというが、まさに石井氏の服装はそれであって、ゴルフ場へ行くにはよいが、予算委員長の服装ではない。

           南シナ海で中比が対峙1か月

2012-05-11 07:06:15 | Weblog
南シナ海の南沙諸島の一つ、スカボロー環礁の海域で領有権をめぐってフィリッピンと中国の艦艇が1か月以上にわたって5㌔の距離で対峙したまま、一触即発の危機にあるという。直接の原因は4月10日、同環礁に停泊中の中国漁船をフィリッピン海軍の艦船が拿捕したことにあるが、南沙諸島では、そのほかにも領有権をめぐって両国間に対立がある。

南沙諸島は100余の小さな環礁からなり、ほとんどが人が住んでいないが、数年前からこの水域に海底油田が存在することが確認されて以来中国船の出没が激しくなり、これを巡って関係諸国との間のトラブルが絶えない。中でもフィリピン、ベトナム両国と中国間の紛争が激しい。フィリピンでは、バクアサ島という小島に住民を移住させ、ここに小学校を建設する準備をしていると伝えられる。実効支配をねらったものだが、これが一層中国を刺激しているようだ。

対立の構図は尖閣諸島と似ている。日本政府は”日中間には領土問題は存在しない”と言っているが、そんなことでは中国は納得しない。その点、石原慎太郎都知事が投じた一石は意味があり効果的だ。島を東京都が購入すると発表して以来10日間余りで2万5千人から3億円に上る募金が集まったという。募金の額の多寡ではない。国民がいかに領土問題に関心があるかということだ。北方領土問題についても竹島の問題についてもそうだ。政府のPRのやり方が下手である。きれいごとを言っているだけでは、相手国が実効支配を強めてくるだけである。フィリッピンのバクアサ島での小学校建設も参考になるのでは。

           トラブルメーカー小沢元代表は引退を!

2012-05-10 05:41:39 | Weblog
民主党の小沢一郎に対する検察審査会裁判で東京地裁が無罪判決を下したことを不服として検察官役3人の弁護士が昨日高裁へ控訴することを決定した。これにより小沢元代表の政治資金規正法違反をめぐる「白」か「黒」かの決着はまた先送りとなった。正直いって国民の大半はこの問題にうんざりしており、政治的な空白が生まれることを望んでいない。

今、日本の政治が前に進まず閉塞状態にある要因の一つは小沢元代表の「存在」である。民主党の常任幹部会は一昨日、この控訴決定にさきだって小沢代表の党員資格停止処分を撤回した。輿石幹事長は”挙党一致で山積する課題を乗り切るため”と処分撤回の理由として挙げている。が、果たしてこれによって党内の融和は図れるのだろうか。

野党は待ち構えたように小沢元代表の国会喚問を蒸し返してこよう。野田総理が政治生命をかけているという消費増税審議にも影響は必至だ。それより、小沢元代表は消費増税に反対しているが、党内融和のため、反対意見をひっこめ同意するのだろうか。

小沢元代表囲碁は大局を見るのが上手だと言われている。今は囲碁を楽しむ心境ではないのかもしれないが、現在の政治的行き詰まりを小沢元代表はどう見ているのか。一説には9月の民主党代表選挙に出馬し、起死回生を図るのではないかという説もある。しかし、もう悪いけれども小沢氏は過去の政治家である。大局を見て小沢氏は、政治家を引退すべきである。そのために周囲も引退への花道つくりをしたほうがよい。

         難関突破しても帰国するインドネシア人介護士

2012-05-09 05:12:21 | Weblog
日本とインドネシアと間のEPA(経済連携協定)に基づき来日、各地の介護施設で働きながら難関の日本の国家試験に合格したインドネシア人の介護士36人のうち7人がすでに帰国したり、近く帰国したい意思を表明しているという。これはNHKの調査で判ったものだが、国家試験に落ちたが、一定の成績を得て、あと1年間の滞在延期を許可された47人のうち半数以上の23人もすでに帰国しているとのことだ

僕はこのニュースを聞いて、ある程度前から予測されてていたもので”やはりか”とそれほど驚かなかった。しかし、介護士受け入れ機関はあらかじめ手を打てなかったのだろうか。介護士不足に悩む全国の施設の中にはは、国家試験に合格して貰うため、特別に時間をさきおカネをかけて彼らに日本語を教えていたところもあった。国と国との協定による事業だから安心していたのにと怒りの声さえ出ているという。

1991年から92年にかけて僕は戦後インドネシアに残留した日本軍軍人軍属の二世、三世の日本における就労支援についてボランティア活動をしたことがある。この支援活動は結果として失敗したが、その理由の一つは、彼らが日本人の血が流れているといっても、日本の就労習慣にうとく一口でいうと、”わがまま”であったことだ。働き先の事情など考慮せず、かってに休みをとり、断食明けの休みには帰国してしまった。

今回の介護士の帰国の理由は家庭の事情とか前から数年で帰国する予定だったというそうだが、日本側の受け入れ機関は前もって、それを知らなかったのだろうか。契約書を交換していなかったのあろうか。日本のマスコミは、日本語による国家試験が難しすぎると彼らに同情的だが、国と国との協定に基づく事業である。なぜこんなことが起こるのか、その原因を究明すべきである。

    「安里屋ユンタ」 「いざ来いニミッツ マッカーサー」の時代

2012-05-08 05:46:34 | Weblog
映画監督の篠田正浩氏が「時代の証言者」という読売新聞のコラム(5月5日)の中で氏の戦争末期の頃の体験を書かれていた。篠田氏は敗戦時旧制中学3年だから僕と同じ学年である。戦争末期、氏は岐阜県各務原飛行場近くの軍需工場へ動員されて飛行機の部品を造っていたそうだが、当時工場の寮で耳にした歌に沖縄石垣島の民謡「安里屋ユンタ」があったと記されていた。実は僕も昭和20年6月、千葉県江戸川運河川口の浚渫工事に動員された時この歌を歌っている。

沖縄戦は20年3月26日の慶良間諸島への上陸に始まって6月23日まで続いている。5月の今頃は首都首里の攻防をめぐって激しい戦闘が行われていた。まだ中学3年だった僕らは遊び盛りでもあり、少し仕事の手をぬくと、監督の兵隊から”沖縄のことを思え”と怒鳴られたものだ。何故、こんな時期に「安里屋ユンタ」が流行していたのであろうか。篠田氏は沖縄の基地から各務原飛行場へ戻ったパイロットがもたらしたと書いているが、僕らが動員されていた江戸川運河の現場は広島の暁という陸軍船舶部隊の配下にあった。

夕食後の軍歌演習で僕らは「安里屋ユンタ」も歌ったが「比島決戦の歌」(作詞西条八十作曲古関裕而)という歌をよく歌った。その中の”いざ来いニミッツ,マッカ-サー 出て来りや地獄へ逆落とし”という繰り返し文句が好きで、ここの部分だけ一声高く怒鳴ったものだ。ニミッツは米国の比島方面の海軍の提督,マッカ-サーは陸軍の総司令官だった。「安里屋ユンタ」が何故戦争末期のこの時代に本土で流行したのか判らないが、この歌を聞くといつも”出てこいニミッツ マッカ-サー”の歌も同時に想い出す。

            大阪維新の会とドイツ海賊党

2012-05-07 06:23:16 | Weblog
大型連休明けの明日から野田総理が政治生命をかける消費税増案と社会保障改革案が国会で審議が始まる。これに先立って昨日NHKの「日曜討論」という番組が民主党の城島光力、自由民主党の岸田文雄両国会対策委員長や与野党の責任者8人をスタジオに呼んで討論会をやっていた。たまたま、これを見たが結論からいって、各党が己がじし自分の主張を言っているだけ。番組の手法もつまらなく、国民の既成政党離れを加速させる効果しかなかった。

橋下徹大阪市長を代表とする大阪維新の会が、来るべき国会選挙に向けて今、水面下でいろいろ動いているようだが寡聞にして知らない。しかし、昨日のNHKの「日曜討論」を見ていると、与野党とも既成政党は変な”政治ずれ”していて、今わが国が置かれている状態がどうなのか解っていないのではかと疑いたくなる。番組の最後に岸田委員長が”民主党さんは一汗かいてもらわなくては”と他人事みたいに言っていたのが象徴的だ。

世論調査をみると、維新の会の国政参加について期待する向きが多い。僕のような年寄りは、あまりは新しい変化を望んでいないが、若い人たちは今の政治的閉塞感には耐えられないのかもしれない。これは日本だけでなく欧州でもそうらしい。フランスでは17年ぶりに政権交代になった。ドイツでは「海賊党」というおかしな名前の政党が、インターネット世代の若者を中心に、地方選挙区で議席を獲得、世論調査ではその人気は第三党にまで延びてきているという。

大阪維新の会とドイツ海賊党とは無関係だが、国民の既成政党離れが背後にあるようにも見られる。一昨年のような酷暑だと、今夏は電力不足の危機になるかもしれないという。しかし、肝心の原子力発電を今後どうするのか、その基幹ともいうべき原子力規制庁設置すら決まっていない。難問山積の議題を抱える国会である。たんに期間を延長しただけで問題が解決できるものではな。

            白金の「清正公さま」とその界隈

2012-05-06 06:40:27 | Weblog
連休後半の昨日、大正3年生まれ、98歳の大先輩から近くの「清正公さま」のお祭りだから遊びに来ないかとの誘いがあった。「清正公さま」とは加藤清正の位牌と像を祀る日蓮宗の覚林寺という古刹だが、昔から江戸っ子の間では「せいしょうこさま」の愛称で知られている。東京港区の桜田通りと目黒通りが交わる三叉路にある。開祖は清正が慶長の役のさい朝鮮から連れてきた李氏朝鮮の王家の血を引く日延上人だと伝えれている。

戦前子供だった頃、僕は「清正公さま」の近くの五反田に住んでいたので5月4,5日の大祭には毎年出かけたが、戦後は引越しした関係ですっかりご無沙汰していた。数えてみたら70年近くぶりの参詣である。「清正公さま」は戦災にあわなかっため山門はじめ昔のままだったが、桜田通りが拡張され周囲に高層ビルが立ち並んだこともあって、子供の時の記憶にある「清正公さま」のお祭りのイメージではなかったが、賑わいは昔以上で、行列して参詣するほどであった。

東京が35区時代には、このあたりは芝区に属し町名の白金も丹波町。猿町、三光町、今里町、君塚町などと江戸の名残をとどめる町名だった。もともと江戸時代には白金は大名の下屋敷があった地域で「清正公さま」のあたりも熊本藩の屋敷がった。戦後かなり遅くまで、今消防署がある地には細川公の屋敷の山門が残っていた。

明治維新後、大名の屋敷は財閥の持ち物に変わった。現在の都ホテルシェラトンは財閥藤山コンツェルン所有の土地で、98歳の大先輩の子供時代には”ふじやま”と呼ばれていて遊び場であったそうだ。僕の子供時代でも白金は、大きな金持ちの屋敷があり”探検ごっこ”には格好の場所が多かった。しかし、戦後こういった財閥の屋敷はなくなり、最近は地下鉄、南北線、三田線の開通で、白金はいっそうの変容を遂げ、今では「清正公さま」の一角だけが、江戸時代からの白金が残っている。(写真は縁起の菖蒲(勝負)のお札を売る店)