昭和19年秋、菊池記者は第25軍軍政監部の「作戦××号」によって陸軍報道班員に任命された。作戦命令は北スマトラ.アチェの防衛陣地視察と取材であった。菊池記者は軍政監部が用意したバスでパダンを出発、アチェ海岸に構築された防衛陣地を見て回った。このバスにはパダン駐在の日本の記者や「Padan Nippo」のアジ.ネゴロ主幹も同行していた。すでに戦局は逼迫していて、敵がいつ上陸してくるかもしれない状況だった。
この取材で菊池記者はアチェの首都コタラジャ(バンダアチェ)で、藤原(F)機関の増渕和平氏と会見した。F機関というのは大東亜戦争の初期、陸軍の諜報機関の藤原岩一少佐が率いてマレー作戦でインド人の結集に成功、のちにチャンドラ.ボースを独立インド軍総裁にしてインド独立の礎を築いた機関である。F 機関は同時にアチェの和蘭からの独立運動派にも働きかけ、日本軍のアチェ無血上陸にも成功した。
増渕和平氏は民間人だったが、南方生活が長くF機関に協力、日本軍のアチェ占領後はアチェ軍政監部の顧問として駐在していた。当時アチェでは日本軍に全面協力して独立を勝ち取ろうという勢力、プサ党(イスラム大衆党)が主力で、日本軍もプサの協力で無血上陸したが、占領後分かったことは、占領政策を推進するには、プサではなく、元国王を支持する一派、ウルバラン党であることが判ってきた。菊池記者が増渕氏に会見したとき、増渕氏は、この狭間にあって苦慮していたようだった。増渕氏は20年8月、日本軍の敗戦の責任を取って自殺している。
この取材で菊池記者はアチェの首都コタラジャ(バンダアチェ)で、藤原(F)機関の増渕和平氏と会見した。F機関というのは大東亜戦争の初期、陸軍の諜報機関の藤原岩一少佐が率いてマレー作戦でインド人の結集に成功、のちにチャンドラ.ボースを独立インド軍総裁にしてインド独立の礎を築いた機関である。F 機関は同時にアチェの和蘭からの独立運動派にも働きかけ、日本軍のアチェ無血上陸にも成功した。
増渕和平氏は民間人だったが、南方生活が長くF機関に協力、日本軍のアチェ占領後はアチェ軍政監部の顧問として駐在していた。当時アチェでは日本軍に全面協力して独立を勝ち取ろうという勢力、プサ党(イスラム大衆党)が主力で、日本軍もプサの協力で無血上陸したが、占領後分かったことは、占領政策を推進するには、プサではなく、元国王を支持する一派、ウルバラン党であることが判ってきた。菊池記者が増渕氏に会見したとき、増渕氏は、この狭間にあって苦慮していたようだった。増渕氏は20年8月、日本軍の敗戦の責任を取って自殺している。