ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

芸術家は職人的要素が九割、あとの一割が自分?

2009年03月02日 | オペラ
オペラ歌手でいえば、発声・呼吸法、そして音感、アンサンブルの適応、など基本とされることがいっぱいあって、その訓練はまさに「職人的」といっていいと思います。
「技巧より自分らしさを」なんてアマチュアのように最もらしく言うひとの話はきいてはならない、むしろ職人のもつ正確な技巧、信頼できる基礎基本、など勉強の九割を成すと思うのです。プロは気まぐれでは成り立たないのでしょう。

「じゃあ自分らしさは?個性は?」という若き自分の「言い分」を思い出します。
時間がもったいない、若いときほど「基礎基本」づくめで勉強が必要でした。

自分らしさ、なんていやでも出てくる、個性なんて隠そうにも隠せない、それも自分の成長と比例するし、これは作るものでなく、誰でもにじみ出てくるもの。
若い音大生のy・aさまがコメントに参加してくださっているけれど、彼女の熱意がまぶしいです。
悩み、疑問におもい、さらにまだまだ勉強すべきことを察して熱意をもっていらっしゃいます。

私の若いときはそこまで純粋に勉強することより、「もっと大切なものがある」なんて思っていました。何よりも大切なものは「若さの持っている時間」だったのに、九割の職人性については、ずっとあと、カップッチッリやべーキが語った「逃げ出したいほどの我慢の連続、基礎基本」のものすごいばかりの勉強でした。
これは、彼らのような偉大な才能をもってしても、なかなか大変だったようで、あとの一割はありのままの自分と楽曲に向き合える背景となる研究だったと思います。そして、「もっともっと!」と精進したこと・・・舞台の上でもずっと練習だったというすごさ、謙虚というより、「こうせずにはいられない」意欲だったと思うのです。大歌手に教えられることは、まだ自分は「発展途上」という意識のかたまりであったこと、いつも新鮮な気持ちで研究なさっていたことと思います。

カップッチッリが言っていたことですが「私はワーグナーだって全編ベルカントで歌えます。でも歌いません」・・・これはもっとつっこんで聞きたかったですね。
なんとなくわかるような気がするのですが・・・
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自分と他人の評価の差

2009年03月02日 | 生活・介護
世の中は喜劇か悲劇か、自分と他人の評価の落差に呆然とすることがあります。
たとえば、人のためにと思っても、その人にとってこうるさく思うことだったり、
自分にとっていいな、と思うものでも、他人にとってはどうでもいいことなど、数えきれればきりがないほどです。

自分を基準にしているから、このような悲劇が起こるのであって、自分の欲するものは他人にとっては「どうしょう」と思うことが当然あると思います。
これからはシンプルに、考えていかねばならない・・・。

自分にとっては宝でも、人にとってはガラクタに近いこともあるでしょう。
そして、そのことが記憶にないので、忘れてしまう・・・

これが仕事とか芸術となると、「自分はこれだけがんばったのに」と自信をもってしたことが、他人にとってはその半分どころかその一割にも思っていない、という落差があります。

でもそれが普通なんじゃないかなあ、と最近思います。
たとえば、以前書いた「往年の有名歌手」のO氏、彼は私たちが思う以上に「自分は大物なんだ、有名なバス歌手であって自分こそシューベルトの歌曲を知りぬいて歌っているんだ」という自負が強いと思うのです。

「彼はそれほどでもないのに威張ってるなあ」と視聴者である私があきれる・・・
こんなことって、案外多いのかも知れない、と思います。

人間って、自分を過大評価するクセがある、と思って謙虚に学ぶこと、人生って難しいのです。

「わかってほしい」という気持ちがあるのは当然のこと、でも一割もあれば上出来なんじゃないでしょうか。


「レモン・ハート」はそんな現代人にとってオアシスかも?
自分だけの本としていつも手元に置いておきたいひとつです。
「駅弁ひとり旅」もあと一冊読んでいません。いつも「読んでいない本」があるトキメキ、楽しい「心の中でのレジャー」です。門外不出のひとつです。
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