このブログにもコメンテーターとして登場いただいている声楽家、ミー先生に送っていただいたオペラの中から、さっそくヴェルディ「アッティラ」を聴きました。
若きムーティは当時、アッバードと並ぶ新鋭指揮者でした。
サッサと次へ進める「運動会」のような今のムーティではなく、名歌手たちに学びながらベルカントを尊重した俊英でした。
序曲もしっとりとフレージングを歌いあげ(今のムーティは先へとたたみかける)
合唱もオーケストラと響きあい、美しい・・・そして「楚々とあらわれるオダベッラ」そう、アントニエッタ・ステッラのカヴァティーナは悲しみの音色を表し、やがてその悲しみを願いへと発展させる、決して挑戦的ではない・・・今までどれほど「カラス的な」オダベッラを聴いたことか・・・ヴェルディの理想の女性は、レオノーラやアイーダのような憂いと慈悲の願いをたたえた、「ひとりの女性」であるはず、それをステッラはそのビロードの声でやってのける・・・これはヴェルディなのだ、「ノルマ」や「メデア」ではない、と思いました。
そしてローマの名将エツイオを歌うグエルフィは素晴らしい美声、舞台から声のタワーがそびえるようで輝かしい、あのいぶし銀の「漢(男)」カップッチッリとは違う英雄像が浮かび上がります。一方異民族の英雄アッティラを歌うルッジェーロ・ライモンディの本物のベルカントのバス、これはシエピのようにカンタンテで叙情的、圧倒的なスラヴの声のギャウロフのベルカントとは違って「この人、エツイオも歌えるな」と思ったほど。
もちろん、ライモンディはバリトンのエスカミリオやスカルピアもレパートリーにしています。
1980年代から国際色豊かなヴェルディ上演になっていったのも、生粋のイタリア歌手の衰退ともいわれましたし、指揮者や演出家中心の上演になっていったからとも・・。
テノールのジャンフランコ・チェッケレは強い発声をしますが、実際のステージでは声が響かないといわれています。やがてルケッティにとってかわられましたが。
音色は間違いなくロブスト、でもステッラとの二重唱になりますと、非常に単純。
ベルゴンツイだったら、と思いますが・・・ベルゴンツイはメータやムーティとは共演しません。
ライモンディも「最近のムーティとは考えがあわないので共演は考えていません」と言うし、シノポリの夭折が惜しいばかりです。
ローマの名将エツイオは、世界を征服しつつあるアッティラに「世界は貴殿のものになってもローマは譲らない」と高々と歌い上げる、バリトンにとって「歌手冥利」の役、またバスのアッティラとの声の競演?も聴きものでした。
ただムーティはシノポリのような説得力に欠け、やがてテンポアップで迫力を増そうという方向もわかるような気がしますが。
アッティラのウオータン信仰とローマのキリスト教とのせめぎあい、またローマカソリックと「最後のローマ人」を名乗るエツイオとの対立など、ドラマは複雑な背景を持っていますがヴェルディの音楽は「人間ドラマ」として酔わせます。
それにしても、ヴェルディ歌手としてステッラは「最後の大型歌手」であり「自然体」の伝統的なソプラノだと思いました。
そして綺麗なオダベッラでしょうね。舞台を観たい
若きムーティは当時、アッバードと並ぶ新鋭指揮者でした。
サッサと次へ進める「運動会」のような今のムーティではなく、名歌手たちに学びながらベルカントを尊重した俊英でした。
序曲もしっとりとフレージングを歌いあげ(今のムーティは先へとたたみかける)
合唱もオーケストラと響きあい、美しい・・・そして「楚々とあらわれるオダベッラ」そう、アントニエッタ・ステッラのカヴァティーナは悲しみの音色を表し、やがてその悲しみを願いへと発展させる、決して挑戦的ではない・・・今までどれほど「カラス的な」オダベッラを聴いたことか・・・ヴェルディの理想の女性は、レオノーラやアイーダのような憂いと慈悲の願いをたたえた、「ひとりの女性」であるはず、それをステッラはそのビロードの声でやってのける・・・これはヴェルディなのだ、「ノルマ」や「メデア」ではない、と思いました。
そしてローマの名将エツイオを歌うグエルフィは素晴らしい美声、舞台から声のタワーがそびえるようで輝かしい、あのいぶし銀の「漢(男)」カップッチッリとは違う英雄像が浮かび上がります。一方異民族の英雄アッティラを歌うルッジェーロ・ライモンディの本物のベルカントのバス、これはシエピのようにカンタンテで叙情的、圧倒的なスラヴの声のギャウロフのベルカントとは違って「この人、エツイオも歌えるな」と思ったほど。
もちろん、ライモンディはバリトンのエスカミリオやスカルピアもレパートリーにしています。
1980年代から国際色豊かなヴェルディ上演になっていったのも、生粋のイタリア歌手の衰退ともいわれましたし、指揮者や演出家中心の上演になっていったからとも・・。
テノールのジャンフランコ・チェッケレは強い発声をしますが、実際のステージでは声が響かないといわれています。やがてルケッティにとってかわられましたが。
音色は間違いなくロブスト、でもステッラとの二重唱になりますと、非常に単純。
ベルゴンツイだったら、と思いますが・・・ベルゴンツイはメータやムーティとは共演しません。
ライモンディも「最近のムーティとは考えがあわないので共演は考えていません」と言うし、シノポリの夭折が惜しいばかりです。
ローマの名将エツイオは、世界を征服しつつあるアッティラに「世界は貴殿のものになってもローマは譲らない」と高々と歌い上げる、バリトンにとって「歌手冥利」の役、またバスのアッティラとの声の競演?も聴きものでした。
ただムーティはシノポリのような説得力に欠け、やがてテンポアップで迫力を増そうという方向もわかるような気がしますが。
アッティラのウオータン信仰とローマのキリスト教とのせめぎあい、またローマカソリックと「最後のローマ人」を名乗るエツイオとの対立など、ドラマは複雑な背景を持っていますがヴェルディの音楽は「人間ドラマ」として酔わせます。
それにしても、ヴェルディ歌手としてステッラは「最後の大型歌手」であり「自然体」の伝統的なソプラノだと思いました。
そして綺麗なオダベッラでしょうね。舞台を観たい