マリオ・デル・モナコの歌をアップし、真剣に聴いた。
「これが芸術なのね~」・・・心から感動した。
なにもとりたててオーバーなアクションもなく、真剣に歌っているその迫力・気迫がストレートに伝わってきた。
まさに「正々堂々」である。
「マスコミ奪還」だけれど、今ある放送局が、内部で「これはおかしい」という<内部告発>的な考えが起きないと難しい。
そのためにも、世論が高まる必要があると思った。
その世論という芽のひとつにでも、そう願って書こうと思ったのだけど、前もって発表して少し萎縮してしまった。
これを書こう、だなんて前もって言うべきではなかった。
最初はただ、書かずにはいられない、それだけだったのだ。
私が書きやすいような方法でブログに書いたりするだけ、そしてそれはせめてもの「国民的良心」として、小さな意見である。
それでもやっとなのだ。
最近テレビで、Sという日本人指揮者の特別番組を見た。
この人の才能は否定しないが、その男の軽さが私はイヤである。
どこでも必ずテレビに出てくる、そして大衆と溶けあうようにしているのだけれど、本業できちっと勝負してはいかが、と思う。
世界最高峰のベルリンフィルハーモニーとはじめて共演し、ショスタコーヴィッチの交響曲「第5番」を指揮していて、フィナーレあたりで顔をくしゃくしゃにして泣いているのを見て、私は逃げ出したかった。
見てはならぬものを見てしまったような、そんな気分だった。(ドラマの「のだめ」の指揮者、千秋くんとは違う!)
演奏家はいつも冷静に演奏すべきだ、決して泣いてはならない、お客を泣かせたり笑わせたりするのは「芸」の力であり、本人の素を見せたら、それでドン引きだ、とも思った。
演奏家は作曲家の意図を再現するだけ、いわば伝道者なのだ。・・・ああ、この言葉も鳩ポッポの「友愛の伝道者」でイヤになってしまったが・・・。
それにショスタコーヴィッチはあのスターリン時代に、スターリンの意に添うような曲にみせかけて、本当は「強制された喜び」を訴えていたのだ。
最後の音まで慎重に、そして大胆に・・・という正反対なことを同時にあらわすのだ。
泣くのは聴衆であるはず。オーケストラのメンバーは泣いていなかった、一生懸命だった・・・私は恥ずかしかった。
これを恥ずかしげもなく見せつけるのが、音楽におけるポピュリズムであり、媚びでもある。
政治に関して言えば、これよりもっとひどい。
一国の命運を何と心得ているか、無責任にしゃべりまくり、肝心なことを意図的にスルーしている。
悪意・売国そのものだからである。(次回に続く)