ベッラのブログ   soprano lirico spinto Bella Cantabile  ♪ ♫

時事問題を中心にブログを書く日々です。
イタリアオペラのソプラノで趣味は読書(歴女のハシクレ)です。日本が大好き。

ティッタ・ルッフォが歌う「アンドレア・シェニエ」~祖国の敵 - 1920 録音  Kenさまからキーン氏に

2012年01月21日 | オペラ
TITTA RUFFO - 1920 - NEMICO DELLA PATRIA? - ANDREA CHENIER


Kenさまがカップッチッリやバスティアニーニよりもっと以前のティッタ・ルッフォについて書いていらっしゃったことを覚えている。
レオーネ(獅子)と絶賛された王者の風格がその歌から圧倒的に感じることができる。
このアリアの後半は聴きなれたはずなのに、ものすごいばかりの迫力でジェラールの心境を歌っている。

この曲をドナルド・キーン氏に・・・キーン氏は1942年に大学卒業すぐに海軍に編入されたとある。
ルッフォはキーン氏の本にもその名前は出てきていない。
後にレコードでお聴きになったということもない。実演はもちろん聴いていらっしゃらないだろう。
届くかどうがわからないけれど送ってみようと思う。
「あらえびす」(作家の野村胡堂)は、その著作に書いていると思うが・・・。
確認してみたくなった。

キーン氏にはKenさまの解説を付けてお送りしましょう。
私も本の感想を少し書きたいのです。それとお礼の気持ちを伝えたい。(東京都北区の名誉市民ですのでそこから転送頂けるのでしたら)

ティッタ・ルッフォ 偉大なる獅子
2010年12月26日 | 日記ルッフォに関する評伝をパリで見つけ、テンションが高い。

ティッタ・ルッフォはスキーパやカルーソーの同年代のバリトンでありながら、いまだかつてないバリトンである。一言で言えば、名指揮者セラフィンが述べたように、奇跡、というにふさわしい。

獅子の咆哮である、といわれたルッフォの声は、しかし、男の男らしさを歌ったというにとどまらない。その歌はきわめてデリケートなものだ。この、男ならではのつつしみ深さ(女性のつつしみ深さとは大きく異なる)をみると、その声にはかれの内心の想いは決して現れず、誇り高い歌唱フォームの向こうに透けて見える。

そしてそこにたまらない寂しさを感じる。エットーレ・バスティアニーニはルッフォからこのスピリットを継承した気がする。
                            (以上、Kenさまの解説、原文のまま)
Thank you Mr.Donald Keene. All japanese are very proud of you.(Ken)・・・ツイッターより

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マリア・カラスに魅せられた子どものころ(小学校だった)・追加記事、キーン氏の序文のこと

2012年01月21日 | オペラ
Maria Callas - La Gioconda - o madre mia, nell' isola fatale

・・・・・・・画面の中で上の段が歌われているイタリア語、下が英訳です。


子どもの時、いつも廊下でトランジスタラジオで「オペラアワー」を聴いていた。
大変古い録音ですが・・・とアナウンサーはこの曲を紹介した。
古いし短い・・・これがあの「マリア・カラスか」と私は驚愕した。
子供だったし、「ジョコンダ」というオペラもストーリーも知らず、ましてやイタリア語で何を歌っているかもわからない。
でも古くて短いこの曲が、いつまでも耳に残った。
悲しくて神々しい、素晴らしい・・・。

それから、歌の魅力にとりつかれた。
カラスは美声ではない、しかし歌のあとの不思議な余韻はなんだろう。もっときれいな声の歌手は山ほどいるのだけれど、カラスが歌うときれいとか素敵とか・・・吹っ飛んでしまう魅力があった。

子どもの私には、外国語はわからなかったけれど、言葉のひとつひとつに魂がこもっている・・・それからそのトランジスタラジオでヴェルディ「トラヴィアータ」も聴いた。テバルディのような美しく大きな声ではない。
しかし、ドラマのように、ある時は一枚の絵のように、私の心に残った。
彼女が歌うと周りがかすんだ。それほど大きな存在だった。
そして彼女は「天才」ということだった。
「天才」というのはピアニストやヴァイオリニストのように、はやくから才能をあらわす器楽奏者と思っていた。
私は「天才」というのは、歌の場合、年齢を経ないとわからないことを、若くして直感で本人の理解はどうであれ、表現できる才能と思っている。
しかし、後年のカラスのように、それが大変不幸になることもあるのかもしれない。
人生は音楽の中だけでわかるものではない。

≪追加記事です≫
それにしても・・・ドナルド・キーン氏が日本に帰化なさったのはよかった。
「百代過客」の序文が痛々しい・・・戦地で新年を迎え、7人の兵士がたった13個の豆でわけあって食べて新年を祝った、って。
私は一晩中、耐えられない思いだった。
涙も喉の奥で必死でこらえ、お正月のことを思い出した。
父とささやかな手作りのおせち料理で新年を祝った。まだ祝い箸も残っている。
お正月の花は寒い廊下に置いているのでまだ元気である。

戦地で新年を祝った・・・これって耐えられるか・・・戦地で飢えながら7人がたった13個の豆を分けあって新年を祝い、微笑みあう、そして日本のお正月を祝う、家族を想う・・・

これから私はどうしたらいいのだろう・・・。キーン氏が書いたこの耐えられない現実に。
日本人は先人を敬い感謝し、いとおしく思い、このことを忘れないようにしなければならない。
これからのお正月はこんな悲しすぎる現実も思いながら感謝して迎えようと思う。
私、どこかで大泣きしたい・・・。音楽のこと書いても、この思いがついてまわる。日本のこと・・・。
でもこらえている。父が驚くから。


remmikkiさまからコメントを頂き、ご紹介頂いたエントリーを転載させて頂きます。

ドナルド・キーン氏は、ウィキペディアによると、「アメリカの日本文学研究者、文芸評論家。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績を残した。称号は住まいのある東京都北区名誉区民、ケンブリッジ大学、東北大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。」と日本研究者として有名な方だ。88歳、独身とのこと。

キーン氏は「私は日本という女性と結婚」、日本へ永住、帰化手続きに入るという。外国人がどんどん原発事件で日本から逃げ出す現在、日本に帰化するというキーンさんに拍手だ。今までキーンさんは日本とアメリカを半年づつ住んでいた。今回「東日本大震災で大変心を痛め、被災者との連帯を示すために永住への思いが固くなった」と話しているそうだ。

私がドナルド・キーンさんの名前を知ったのは1976年頃。当時NYから戻り、アメリカ系法律事務所に勤めていた。その事務所はアメリカ商工会議所の役員もしていた日系二世のA弁護士さんで背の高いアメリカ人女性と結婚なさっていた。赤坂の一等地にここが赤坂か、というほどの小川の流れる庭がある広い一戸建ての家に住み、私たちスタッフを料理上手な奥様がよくもてなしてくださった。お隣が高級料亭でよく間違えてお客様が玄関に来ると笑っていたほど。

A夫人は青い目、金髪のアメリカ女性だったが、日本に造詣が深く、料理が上手でよくJapan Timesの料理コーナーにレセピーを紹介していた。私もおいしいお料理のレセピーをときどきいただいて作ったことがある。

夫人は日本伝統文化にも深く理解し、日本の3大伝統の歌舞伎、能、文楽への理解の深さは日本人顔負けだった。A家のお宅に伺うと玄関に等身大の文楽人形が置いてあり、驚いたものだ。

その夫人がいよいよ文楽を欧米に紹介する本を書くということで原稿をタイプする仕事を任された。150ページにわたる英文の本には文楽を裏方で支える人たちや舞台の写真もふんだんに紹介されている。写真の本は出来上がった時に夫人からThank you ノートと一緒にくださった私の宝物だ。

この本の冒頭にドナルド・キーンさんの見開き2ページわたる本の紹介の記事が掲載されている(写真左)。当時まだ若かった私はキーンさんの名前を知らなかった。

今回日本国籍取得と聞いて思い出すことになった。日本文化をキーンさんほど知るアメリカ人はいないだろう。お年を召しての帰化だが、日本をこよなく愛するキーンさんに大いに日本を楽しんでいただきたい。
(以上remmikkiさまのブログから原文のまま)


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コメント (6)
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