★ 今、話題になっている産経新聞に寄せられた作家曽野綾子氏の文だが、あらためて読んだ。
以下は曽野綾子氏の文。
透明な歳月の光
「適度な距離」保ち受け入れを
最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。
一方で、若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている。
特に、高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと、資格だの語学力だのといった分野のバリアは、取り除かねばならない。
つまり、高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないとかいうことは全くないのだ。
どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。
孫には、衛生上の専門的な知識もない。
しかし、優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
という程度の日本語なら、語学の訓練など全く受けていない外国人の娘さんでも、2、3日で覚えられる。
日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
しかし同時に、移民としての法的身分は、厳重に守るように制度を作らねばならない。
条件を納得の上で、日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。
不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け入れも、結局のところは長続きしない。
ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。
もう20~30年も前に、南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに、分けて住む方がいい、と思うようになった。
南アのヨハネスブルグに、一軒のマンションがあった。
以前それは、白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。
ところが、この共同生活は、間もなく破綻した。
黒人は、基本的に大家族主義だ。
だから彼らは、買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。
白人やアジア人なら、常識として、夫婦と子供2人ぐらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
住人がベッドではなく床に寝ても、それは自由である。
しかし、マンションの水は、1戸あたり、常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
間もなくそのマンションは、いつでも水栓から水の出ない建物になった。
それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」 (以上)
★ 曽野綾子氏の「原文」を探したが、なぜか見つからない。
不思議なことに「全文」を英訳したとかフランス語に訳したというのはよく見つかる。
しかも昔、曽野さんがペルーのフジモリ元大統領を自宅に保護したことも今回、英文で非難している。
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/02/12/national/author-sono-calls-racial-segregation-op-ed-piece/?utm_source=rss&utm_medium=rss&utm_campaign=author-sono-calls-racial-segregation-op-ed-piece#.VOHh2ZX9m4S
Eric Johnston and Tomohiro Osaki
Sono, long an advocate for various conservative causes, has extensive connections to Japanese and international conservative and right-wing politicians. In 2000, she welcomed into her home ex-Peruvian President Alberto Fujimori, who fled the country during a corruption scandal. Fujimori was later impeached, and in 2009 was convicted of human rights violations and sentenced to 25 years in prison.
(私は英語が得意でないので和訳は載せませんが、フジモリ氏はテロの人質になった日本人を救助してくださった方です。これについては曽野さんの女丈夫として称賛が私はありますが・・・それもこの記事は悪意を感じてしまいます。)
曽野綾子氏の本は最近出版された『人間の目利き』(吉村作治氏との対談~アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法)を愛読。
今まで欧米中心の本はたくさんあったが、この本は何度もアラブの国々を訪問された曽野氏とエジプトで考古学を研究されている吉村作治氏との楽しい対話で、肩もこらず、「こんなこともあるのね」って見知らぬ国の事情や人情を楽しく読める本だった。
ところで私は「移民」に対しては反対の立場であるが、もし「移民」受け入れになったら、どうすべきか、そんな考えをまだきいたこともないし、「移民賛成」の諸企業?からも伺ったこともない。
曽野綾子氏は「移民」受け入れ派かもしれないが、それもこの文だけではよくわからない。
しかし、この当たり前の「家族」の会話を読めば、日本人として失われたかもしれない風景が思い浮かぶ。
>どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。
孫には、衛生上の専門的な知識もない。
しかし、優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
これが日本人の家族の原風景、まだわけのわからない子供だったころ、こうした会話ができていた思い出がある。
これが失われつつある日本の現状に、いとしい家族へのおもいがかきたてられるような気になった。
私は最初に母を、そして母が亡くなってから父の介護をして、それまで「強い」と思って反発さえしていた親に「ああ、今は私が必要なのね」って誇りをもって世話をした。そのためにたったひとつ私が誇りにしていた音楽も犠牲にするのをいとわなくなってた。
今も、亡き親が好物だった食材を売っているコーナーを通るのが辛くて悲しい。
日夜、世話をしていたが、至らぬところばかり心に残り、「ごめんね」って謝る私である。
育ててもらった恩は生涯をかけても返せるようなものではない。
それを「おばあちゃん、これ食べるか」という孫の呼びかけを書く曽野綾子氏のたった一言に、日本の原風景の一コマを思い、涙する私のような者もいる。
そのような「孫のひとこと」に見るようなやさしさを、他の民族の人が示す・・・。
しかし曽野氏は冷静に「その時」のことも書いていらっしゃる。
私は曽野綾子氏の今回の文に対して、作家としての情緒的な「失われた家族の日常の優しい一言」にハッとするが、誤解されるような書き方は賛成できないし、曽野綾子氏が言いたいことはそのままで読んでいるが、やはり残念だった気も実はある。
でもなぜ曽野綾子氏の書いた「原文」がなかなか見つからないの?
そしてこぞってNPOや左派の方々、また「保守」と呼ばれる方々も、「曽野さん、これは誤解されるんじゃないの?」って言えず、国外にワーワーと「売る」のか、アジアやアフリカにまで・・・。
このほうが心配になってきた。
曽野さんの文で非難することは易しいが、海外にまでここぞとばかり「日本」の立場を危うくするような騒ぎ方は「やっぱり・・・」なんて思ったりもする。
海外の「全文の英訳」「フランス語訳」はよく見つかるが、なぜ国内で「原文」が読めなくなっているのか、
これでは一方的な「アパルトヘイト」とか「差別」と糾弾し「外圧」を利用して、日本を悪者にしようとする勢力の影を感じてしまいます。
★ Tomohiro Ozaki氏はジャパンタイムスの記者、ツイッターを見つけました。
https://twitter.com/jt_osaki