★ 至誠の政治家、三宅博前衆議院議員が選挙演説で語った英霊の方々への思い。
三宅先生のお気持ちには少しもこれ見よがしのところがなく、英霊の方々への思いに満ちている。
私は政治家としてのご自身の生き方の原点と思っている。
先日もある作家であり医師の方が三宅先生への尊敬と思慕のお気持ちをお話になっていた。
「私は実は三宅先生の追っかけだったのですよ、尊敬しています。」と打ち明けられた。
もう年配の紳士だが、三宅先生の前に出てあれこれ主張することもなくそっと応援、はじめて明かされたお話だった。
私はその方の出版記念講演にhttp://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/s/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E6%AD%A3に参加し、何か月も後で講演の主催者からその方が三宅先生のファンであることを知らされ、上記の内容を直に伺った。
・・・グアムにて英霊に祈る三宅先生・・・
「炎天下の選挙戦の渦中において思うこと」 平成28年7月6日
猛暑に覆われる大阪で連日街頭に立ち、車上で訴え選挙カーで府下の各地をまわりながら感じた。
顔中真っ黒になり腕は炎熱でヒリヒリしながらも、喉が渇けばクーラーボックスの中の冷水を飲み口にすることが出来る。
先の大戦を振り返ればジャワ(インドネシア)、そしてビルマ(ミャンマー)のインパールをはじめとする各地、
またニューギニア戦線のジャングルで、若き日本軍人たちはどれほど喉の渇きや飢えに苦しんだであろうかと偲ばれる。
みんなどれほど故国日本が恋しかったであろうか。
どれほど家庭でおくった日々がなつかしかったであろうか。
また硫黄島やサイパン、そしてラバウル、太平洋の各地での戦いの日々は本当に辛く苦しいものがあったであろう。
その飢えと渇きと病と、そして戦いに斃れて亡くなっていった数多の若き英霊たちの姿を思えば目頭が熱くなり胸がつまる思いがする。
また満州やシベリアの凍土では我々の想像を絶する寒さであったろう。
そして過ぎし日露のあの戦いで、一瞬のうちに全滅した三千名の白襷隊(しろだすきたい)の英雄たちの尊さや国を思う気持ちを振り返れば、
現代のこの豊かさの中に身を置き、怠惰な日々を送る自分自身が申し訳無さで一杯になる。
多くの英霊の苦難の日々を思い浮かべれば、一身を捨てて政治の任にあたるのは彼らの偉業に比べれば千万分の一以下の務めでしかない。
彼らの純粋さに比べれば恥ずかしさに顔をあげることさえ憚れる。
英霊の皆さん、本当にありがとうございました。
恥ずかしながら多少なりともその御後に続きたいと思います。
小さな戦いの中に身を置く三宅博 午後4時選挙事務所にて
http://blog.goo.ne.jp/yaonomiyake/e/3e5b6159e700be4180d9572d24a2d04b
★ 三宅先生の英霊に対する真摯なお気持ち、ご自身には「英霊のご苦労を思うと・・・」といつも厳しく叱咤激励されていたように思う。
ここに書かれた言葉の一言一言に英霊への尊敬と深い感謝の念、ご自身の「まだ至らぬ」と鼓舞される心と涙が感じられて、三宅先生の原動力がここにあるという気がしてならない。
「小さな戦いの中に身を置く」という言葉は、三宅先生の今までの命がけの政治実践や生き方をほんのわずかながらでも知り得た私には、この先生でもご自身の戦いを「小さな」と表現なさるのか、感無量だ。
たったひとりで立ち向かった解放同盟や朝鮮総連との闘いは、まさに「命がけ」であり、誰もが避けてきた最も厳しいものであった。
いつもご自分を「最前線」に置かれて無私であり、裏表なしの政治家である。(ベッラ)
ドナルド・キーンの「百代の過客」序にある日本の兵士の日記
「例えば船体の中で自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たようなとき、その兵隊が突然経験する恐怖、
これはほとんど読み書きができないような兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。
特に私は部隊が全滅してただの7人生き残った日本兵が、南太平洋のある孤島で正月を過ごしたときの記録を覚えている。
新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、13粒の豆がすべてであった。彼らはそれをわけあって食べたのだという。
(私はここを読んでいつでも泣いてしまう。お正月には当たり前のように重箱を出して「おせち料理」を作る時、この場面を思うともうたまらなくなる。レイテから奇跡の生還をした父には必ず「おせち」を作ったのが私の喜びと感謝だった。
そんな父の娘として全く至らぬ私が親孝行ができ、父を護ることの喜びだった。・・・ベッラ)
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ぺリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じ得なかった。
たまたま手にした日記になんら軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。
実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私がはじめて知るようになった日本人だったのである。
・・・こうした日記の中には、自分が戦死した後、拾って読んでくれるアメリカ兵に宛てた英語のメッセージを書き記したものもあった。
(以上、ドナルド・キーン氏)
ブログのティールーム
Maria Callas - Amami Alfredo (Verdi - La Traviata)
ドナルド・キーン氏の著作「音盤風姿花伝」にはこう書かれている。
・・・ときどき人々は、日本文学研究者のこの私が、日本の伝統的な価値基準である余情とはまったく対照的と思われているオペラに夢中であることに、驚きの気持ちを表明することがある。
確かに「アイーダ」のラダメスの勝利の帰還は、「熊谷陣容」の熊谷直実の勝利の(と思われている)帰還とはまったく異なった印象を生み出すものである。
しかし、われわれには人間が生まれつき持っている、変化を求める気持ちがあるから、パルテノン神殿と桂離宮の両方に感嘆することができるのである。
だが、それは別にしても、芸術にはどこか深いところで、互いに理解しあえる要素が確かに存在しているのだ。
六條御息所が光源氏の愛と、現世という「火宅」を捨て去る前に、鳥居の前でためらう瞬間は、「椿姫」(ヴェルディ「トラヴィアータ」)で、ヴィオレッタがアルフレードを追い払う前に「私を愛して、アルフレード、私があなたを愛するのと同じくらいに・・・さようなら!」と最後の愛の言葉を発する瞬間と、実はそれほどに違っていないのだ。
私はいまだにそう叫んだ時のマリア・カラスの声を聴き、カラスの身ぶりを見ることができるのだが、それは最高のドラマと忘れ難い音楽の見本として、わたしの六條御息所の思い出と溶け合っているのである。(以上、ドナルド・キーン氏)
★ ドナルド・キーン氏はオペラ評論を書くとその言葉の美しさ・的確さなど絵巻物を観る思いに近かった。
たとえば、マリア・カラスが歌うヴェルディ「トラヴィアータ」で、高級娼婦だったヒロインが、アルフレードという田舎出身の純情な青年に愛され、幸せな生活をしていたが、その青年の父親が彼女に「娘の縁談の為に息子とは別れてくれ」と言ってくる。
ヴィオレッタは、アルフレードとその家族の為に自分は身を引く決意をするところ、「別れる」とは言わずに「アルフレード、あなたを愛しているわ」と歌って去る、大変悲しい場面、これを名歌手マリア・カラスがどう歌ったか、それを観ていない人々にもひたひたとその感動を伝えてくる書き手であった。
★★ 私が私淑していたN女史は「高級娼婦のヴィオレッタは本当に愛する人ができて、自分の過去は決して世間では許されないことを神さえお許しにならないと思いながらアルフレードと別れ、自分の罪の許しを神に請いながらこうしてだんだん『乙女』になるのよ」と当時20代の私に解説なさった。(マグダラのマリアか・・・)