いつもはエントリの終わりに「ブログのティールーム」でクラシック音楽をご紹介していますが、本日はザルツブルグで上演されたヴェルディ「アイーダ」について書きました。
O patria! o patria, quanto mi costi! (おお、祖国よ、祖国よ、何という大きな代償を私に!)
★ アイーダを歌ったネトレプコを心より礼賛
ヴェルディの「アイーダ」をNHKBSで視聴した。今年のザルツブルグで現代最高のソプラノとされているロシア出身のアンナ・ネトレプコ(今はオーストリア国籍)が主演、やはり見事であった。音楽的にはあの1950~60年代の偉大なソプラノたちに比べると、音程の狂いというよりも大まかさ(彼女の性格かもしれない)があり、経過音など次の音と同じ音程で歌っているところが目立ち、あの「黄金期」であったカラスやテバルディの時代であれば、ブーイングを誘ったかもしれないとヒヤヒヤしたり。
しかしあの堂々とした歌唱はやはり大柄で、「肉食系」ソプラノだった。彼女はもともとレッジェーロ(軽やかな)役の歌で注目を浴び、正直言ってあまり上品とは言えないものを感じていて、好きではなかった。これは超一流としてはかなり目立つ欠陥と思っていたが、年月を経て体格も堂々として歌のスケールも大きくなり、今やそのような欠陥も「おおらかさ」で人を包み込むようで円熟の境地を思った。「好き嫌い」などどこかに吹っ飛ぶほどの圧倒的な実力だ。
彼女はロシア出身で貧しく劇場のトイレ掃除のアルバイトなども経験、そしてやっと大きなサンクトペテルブルグのマリンスキー劇場に出演するようになったが、テロで支配人が射殺され、マフィアが出入りして恐怖の生活だったという。
★ その他、問題点 イラン人の演出内容に現在のヨーロッパの媚びか?
しかし、今回のオペラは他に問題を感じた.イタリアの至宝、リッカルド・ムーティが指揮をするのでおかしな演出はないと思っていたが・・・演出家がイランの人で、「ジェンダー」の研究家であり、「しいたげられた女性」をこのオペラであらわそうとしたらしい。そしてエジプトの神官たちの衣装が「中東風」と「ロシア正教の聖職者風」の間のように感じた。神官のランフィスを歌ったバス歌手はロシア系と思われるが、この姿は古代エジプトの神官ではない。ムスルグスキーのオペラ「ホヴァンシチナ」の分離派教徒の長であるドシフェイと言ってもそのまま通るような・・・。
★ 重要なエジプト王女アムネリス役の非力さ
またエジプトの王女アムネリスを歌うセメンチュクは、もともと豊かな美声でもなく、しかもすでに声が衰えており、権高い美女アムネリスには声もヴェルディの強靭なカンタービレに乗れなかった。彼女はかつてロシアオペラの「ボリス・ゴドゥノフ」のマリーナや「ホヴァンシチナ」のマルファを歌ったのを知っているが、そのころもオブラスツオーヴァやシニャフスカヤの後継者どころか、同じころ注目されたオリガ・ボロディナにも舞台での魅力や声にも及ばなかった。なぜアムネリスにこの歌手を登用したのか理解に苦しむ。かつてはアムネリスには気品豊かなシミオナート、そしてダイアモンドのような強靭な美声のコッソットなどが魅了し、今も彼女らに及ぶアムネリスはない。
★ イタリアオペラの「声のジャンル」を崩すテノーレの登用
理解に苦しむのはラダメスを歌ったフランチェスコ・メーリというリリコ的なテノーレで、武人ラダメスを歌うには声の質が違い、まるで「ボエーム」の貧しい詩人ロドルフォが出てきたような繊細さで冒頭のアリア「清きアイーダ」を歌うのだから違和感ありすぎた。そういえば世界的にもドラマティックな力強いテノーレがほとんどいなくなったことが気になる。
フランチェスコ・メーリが歌うラダメス「清きアイーダ」・・・これはひどい、tu sei ReginaのRegiで息継ぎしてnaと続けている。これは解釈ではなく単に「息の配分ミス」である。それに最後の高音がかすれ、雑音入り、かつてのイタリアでは激しいブーイングで即退場、決して許されないことだったが、ザルツブルグの聴衆はイタリア語わからないのか興味がないのか。声を弱めてテクニックのように思わせているなんて小細工だ。もともと「声」が立派でないくらいはわかる。堂々と誤魔化さずに歌うべきだ。この曲はケレン味がない「声の重量あげ」であり、武骨なラダメスの純情が示されるところだが、このメーリは何をナヨナヨと!! ミスキャストである。かつて指揮者などのお気に入りであっても舞台では客席の厳しい審判があった。お客は隅から隅までオペラを知り抜いていた。聴衆に観光客が多い現在、耳のある客が途絶えたのか?
Francesco Meli- Se quel guerrier... Celeste Aida (Salzburg 12-08-2017)「清きアイーダ」 VIDEO
武人「ラダメス」は壮大な声を要求する役であり、かってはマリオ・デル・モナコをはじめ、フランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツイなどが朗々たる声を響かせたものだ。メーリは抒情的にラダメスを歌い、とても一国の軍を率いる英雄を感じさせないし、これは昔のスカラだったら絶対にこの役を歌うのをミスキャストとされたと思うが、巨匠の指揮者ムーティのお気に入り(これがよくわからない)だそうで、ガッカリだ。このごろヴァーグナーの歌い手も同じ傾向、これはドラマティックな声を持つ歌手がいなくなったのか?それともそれを理解しない風潮か?(ムーティ指揮するオーケストラも音を抑えている)
往年の圧倒的なフランコ・コレッリのラダメス 、もうこのようなドラマティックで壮大なラダメスは聴けないのか・・・今生きていたら100歳近いのだけれど。このころの名歌手はすごかった!!
往年の名歌手、コレッリが歌う「清きアイーダ」Franco Corelli - Celeste Aida (1962)
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★ 「日本語字幕」の問題点。なぜパートリアを「祖国」と書かず、「お父様」なのか?これはかなり昔の武石氏の和訳だがそのままになっているのか。
最後に「字幕」だが、なぜ「祖国よ」を「お父様」にしたのか、アイーダが祖国を助けるために恋するラダメスを騙すところの苦悩を歌うこの歌詞に、「パートリア(祖国)」という単語がいつのまにか「お父様」になっているとは・・・。脚本のイタリア語は「パートリア」(祖国)である。
もうひとつある。イランの演出家が「しいたげられた女性」を描くような演出をしたというが、どうかヴェルディの音楽のジャマをしないでいただきたい。しいたげられたのは女性だけではない。勝者もまたしいたげられているのである。本当の「勝利」とは?「敗北」とは? それは音楽で感じることだ。安易な理屈をつけないでほしい。
★ ヴェルディの音楽におかしな「同調圧力的思想」は不要。これを「蛇足」という。
圧倒的な大国エジプトの強さや富をいやというほど「凱旋の場」で見せつけられる聴衆は、その壮大なマーチの中でエジプトの壮麗さが強ければ強いほど、敗戦国の悲劇を心の中に刻むのだ。何も特別な「思想」は不要だ。ヴェルディの音楽が全てを語っている。それにおかしな解釈をするのは音楽のジャマをするだけだ。ヨーロッパは、このようにして古代エジプトの話を「中東問題」として試すのか? ヴェルディの音楽が泣くであろう。
下記の動画が今回のザルツブルグでの「アイーダ」凱旋の場である。合唱もバレエも少ない・・・。(エチオピアの捕虜の顔に白い線があるが、これは何? 不要だと思うけれど )
Gloria all'Egitto - Aida - Salzburg Festival - 2017 (HD) - Anna Netrebko - Triumphal Finale
VIDEO
Aida: Anna Netrebko Radames: Francesco Meli Amneris: Ekaterina Semenchuk Amonasro: Luca Salsi Ramfis: Dmitry Belosselskiy Il re: Roberto Tagliavini Direttore: Riccardo Muti Regia: Shirin Neshat
あるオペラファンの言葉が愉快だ。もちろんネトレプコのファンらしい。今回の「アイーダ」以前に書かれたもの。
太ろうが、ヘアスタイルがチリチリのおばさんパーマで見た目が、サザエさんそっくりでも 私は魅力的なの v(^^)v という、揺るぎない自信がオーラとなって全身から発散している 。