ジム・キャリーが好きで、彼が出る映画はほとんど見ていた時期があった。しょうもないドタバタ・コメディ(これが好きだったのだが)が多い初期の作品群の中で、本作品は当時では珍しいブラック・コメディだった。正月に読んだ『21Lessons』で未来を描く映画の一例として紹介されていて、懐かしく久しぶりに見返してみた。
ご覧になった方も多いと思うが、主人公のトゥルーマンはTV番組の主人公として、誕生の時から撮影・放映され、脚本に沿って成長し、人生を生かされてきた。妻も母も親友ですらキャストであり自分の生活の虚構に気づいたトゥルーマンは、自らセットの世界を脱出しリアルの世界に踏み出していく。ブラックユーモアの中に、自己の希求、メディアの影響力、リアルとヴァーチャルの境目などのテーマが織り込まれている色んな見方ができる。久しぶりに観て、改めて良くできた映画だと思った。
本映画を再見して、『21 Lessons』の該当部分をもう一度読み直してみた。筆者のハラリの見方は、私よりもずっと深いところにあったことに改めて気づかされた。
「マトリックス(注:トゥルーマンが生きるバーチャルな世界)の中に閉じ込められた人間には正真正銘の自己があり、(中略)マトリックスの外には本物の現実が待ち受けていて、主人公が一生懸命試みさえすれば、その現実にアクセスできると決めてかかっている。(中略)
現在のテクノロジーと科学の革命が意味しているのは、正真正銘の個人と正真正銘の現実をアルゴリズムやテレビカメラで操作しうるということではなく、真正性は神話であるということだ。人々は枠の中に閉じ込められるのを恐れるが、自分がすでに枠、すなわち自分の脳の中に閉じ込められていることに気づかない。そして、脳はさらに大きな枠、すなわち無数の独自の虚構を持つ人間社会の中に閉じ込められている。」(pp.320‐321)
「最新のテクノロジーに何ができるかを考えれば、心はつねに操作される危険がある。人を操作する枠組みから解放されたがっている、正真正銘の自己などありはしないのだ。」(p323)
ここまで言ってしまうと実も蓋も無い感じもするが、サピエンスが他の種を抑えてここまで発展してきたのは、「「虚構」を信じ、それに基づき行動することができたことにある」という、ハラリの根本主張と同期している。そもそも私達も「虚構」の中で生きているのだ。
ハラリも映画として「トゥルーマン・ショー」は「見事にできている」と言っている。ただ、SF映画はしばしばテクノロジーや社会の未来の理解を(本当とは異なって)規定してしまうと言う。
単純に映画のできに感心しているだけではダメだったようだ。