虹色仮面 通信

神出鬼没なオッサンが毎日感じたことを取り留めなく書き連ねます

17年前の今日

2011-05-01 09:01:01 | スポーツ
1994年5月1日、日本では「音速の貴公子」と呼ばれた(古舘伊知郎が名づけた?)伝説の天才F1ドライバー「アイルトン・セナ」がイタリア・イモラサーキットでのレース中(=F1サンマリノGP)、高速のタンブレロコーナーで外側にはらみ、外壁に時速300kmでクラッシュしてしまい、緊急で救命措置がとられたが、その甲斐なく34年の命を終えてしまった。

その状況は、NHKでも民放でも番組内の速報でテロップを流したくらいだから、その衝撃の大きさはご理解いただけるであろう。
また、その後の葬儀において母国ブラジルでは国葬扱いとして故人を悼み、はるか離れた日本でも各マスコミでも大々的に取り上げられた。

私はセナの敵役の一人である「ナイジェル・マンセル」のファンだったから、セナ本人に対する特別な思い入れはなかったが、セナのレーサーとしての資質や他を凌駕するスピードには一目置いていた。

実際、80年代後半からセナが亡くなる94年までの日本における『F1ブーム』の中心にいたのは間違いなくセナだったし、彼の死後を受け継ぐ者たちも少なからず影響を受けたのは間違いない。

直接的なファンではない私でも超一流の彼が直面した事故として、鮮明な記憶と大きな衝撃を受け、毎年5月1日になると脳裏にあの事故のことがよぎってしまう。

F1出走回数161レース、優勝41回、ポールポジション(PP)65回、ファステストラップ(FL)19回、ドライバーズチャンピオン3回(88、90、91年)・・・記録を挙げればキリがないくらいのすばらしい成績だ。
当時はピケ、マンセル、プロスト、ベルガーと個性的な好敵手もたくさんいて、今のように特定のドライバーしか勝てない状況ではない中での輝かしい記録は賞賛に値する。

とりわけ、PP65回は2006年ミハエル・シューマッハに記録更新されるまで維持していた歴代1位の記録で、いつも類稀な集中力でPPを取りに行っていた「狩人・セナ」の姿はつい昨日のように感じられる。

彼は世界のモータースポーツファンの中では、記録と記憶を両立させた稀有な存在であったのだ。

いろいろな面で物議を醸すことが多く、何かと問題視されることもあったが、それも比類なきセンスと磨き抜かれたスピードによって、他の者を「力」で圧倒していた。

古今東西問わず「天才」といわれる者は、何かと敵対視されるものだ!
これが「天才」の宿命なのだろう。

日本で言うところのセナの「命日」である5月1日になると、いつもセナの在りし日を脈絡のない形でふと思い浮かべるのである。