虹色仮面 通信

神出鬼没なオッサンが毎日感じたことを取り留めなく書き連ねます

今年で30年(その1)

2011-05-13 08:29:15 | スポーツ
子どもの頃から車が好きで、小学5年生になった1981年にテレビで自動車レースを見始めてから、今年で30年を迎えます。

先日、ある動画サイトで、その当時のレース(1982年の全日本F2選手権)を見つけて、懐かしい気持ちでじっくりと見ていたら、フジテレビのF1中継でお馴染みの森脇基恭氏(ノバ・エンジニアリング)が「空力」の良し悪しについて話していました。当時「空力」という概念があったことにびっくり。といっても、空気抵抗の少なさ(=加速や最高速度)が基準だったようです。
当時のF2マシンについて、森脇氏は空力面ではマーチが優れていて、ラルトやスピリットは「poor」と指摘。
その代わり(アルミハニカムで作られた)モノコック(=車体骨格)の作りは、ラルトあたりがマーチよりも秀でていると話されていた。

当時のF2レースは、シャシー(車体)はイギリスのマーチ社製が主流で、他にいくつかの車体製造者(シャシーコンストラクター)も少数派ながら参戦。エンジンは長らくF2の主力エンジンとして活躍してきたBMWの4気筒に、日本のホンダ(V型6気筒)が戦いを挑む構図。その後、このF2エンジンの供給と各種オペレーションがベースとなって、F1に復帰(第2期と言われる参戦=83~92年)し、87年からは日本を代表するドライバーに成長していた中嶋悟選手が日本人初のフルタイムF1ドライバーとして参戦し、日本におけるF1ブームの一翼を担います。
そして80年代半ばになり、2輪におけるホンダのライバルであるヤマハもV型6気筒を引っさげて参戦。
2輪レース同様、毎レース白熱したバトルが繰り広げていました。
ちなみに、タイヤはブリヂストン、ダンロップ、ヨコハマの国内3社が供給していました。

続きは明日。

写真:1981年鈴鹿でのF2レース(前:#3・星野選手、後:#37・中嶋選手)