今日は原爆記念日。テレビでも新聞でも広島の模様を伝えるのに躍起になっておりましたが、果たしてこの一連の動きは、核廃絶に多少なりとも意味のある活動になっているのか、疑問といえば疑問ではあります。広島市長の演説にしても、どうも自己満足というか、具体的な核廃絶に向けての提言にはなりえていないような気がしてなりません。核保有国は世界にいくつもあるのにアメリカの戦略だけを槍玉に挙げてみたり、本気で核廃絶を考えているのか、疑問にさえ感じさせられます。とはいえ、唯一人に向けて原子爆弾という兵器が使用された国として、何らかの発信を続けていくことには、一定の意味はあるでしょう。当のアメリカには、あれは早期終戦に必要な犠牲だった。現にあの後日本は降伏して、あれ以上の犠牲を出さなくて済んだ。つまり日本のためになったのだ、という話があり、我が国でもそれを肯定する意見が、前防衛大臣の失言にもあるように、それなりに根強いものがあるのでしょう。でも、アメリカの手前味噌な善意の押し付けも、良く考えてみるまでもなく、アメリカ自身が硫黄島や沖縄での抵抗に辟易し、もしこのまま本土決戦に突入したりしたらそれこそ自国民がどれだけ戦死するか、そんな事態を回避して相手に白旗を揚げさせるにはどうしたらいいか、と考えた末に選んだ方法なんではないのでしょうか。無差別爆撃や原子爆弾使用をみても、彼らにとって別に日本人が何人死のうが関係なかったはずで、もしすんなり予定通り日本近海の島々を攻略できていれば、日本人を殲滅する位のつもりで日本を蹂躙したのだろうと想像されます。無責任を承知で言えば、あるいはそこまで徹底的に抗戦し、ひたすら粘り強く、文字通り最後の1兵、最後の1国民になるまで戦い続けていれば、あまりの犠牲の多さに根を上げて、アメリカの方が講和を言い出していたかもしれません。実際ベトナム戦争ではそれでアメリカは負けていますし、その後の日米関係、あるいは日本と諸外国の関係をみると、終戦時の中途半端さが後々まで祟っているような気さえいたします。
もちろん私としてはあくまで本土決戦をやるべきだった、日本人は1945年、あるいはもう少し後までかかったかもしれませんが、とにかくあの戦争で滅びるべきだった、などとは言いません。むしろ何故あのような無益な戦争にのめりこんでしまったのか、戦いに入ったこと自体がまず許せませんし、戦う、という意味をまるで理解していないようないい加減を続けていたことが許せませんし、同じ負けるにしても、あんなにぼろぼろになるまで、無様な負け方をしたこともまた許しがたいのです。原爆はいけないもの、というのは間違っていないと思いますが、そろそろ、何故あの戦争をやってしまったのか、軍部の独走というのならそれでも結構ですが、では何故軍部の独走を許してしまったのか、そのとき政治は一体何をしていたのか、国民やマスコミは何を考え、何をなしたのか、というあたりを徹底的に議論し、我が国のぬぐいがたい病癖を、しっかり白日の下にさらして国民共有の認識とすべきなのではないでしょうか。今の政治のあり方とか社保庁の問題、あるある大辞典や不二家の虚偽報道問題なども、きっと同じ文脈で読み解けるはずだと私は思います。中国等特定国に対して説明するためではなく、我々日本国民が日本国民としてそのことを理解するために、立場や思想を超えて、日本国民の手でやらなくてはならない作業なのだ、と私は思います。
もちろん私としてはあくまで本土決戦をやるべきだった、日本人は1945年、あるいはもう少し後までかかったかもしれませんが、とにかくあの戦争で滅びるべきだった、などとは言いません。むしろ何故あのような無益な戦争にのめりこんでしまったのか、戦いに入ったこと自体がまず許せませんし、戦う、という意味をまるで理解していないようないい加減を続けていたことが許せませんし、同じ負けるにしても、あんなにぼろぼろになるまで、無様な負け方をしたこともまた許しがたいのです。原爆はいけないもの、というのは間違っていないと思いますが、そろそろ、何故あの戦争をやってしまったのか、軍部の独走というのならそれでも結構ですが、では何故軍部の独走を許してしまったのか、そのとき政治は一体何をしていたのか、国民やマスコミは何を考え、何をなしたのか、というあたりを徹底的に議論し、我が国のぬぐいがたい病癖を、しっかり白日の下にさらして国民共有の認識とすべきなのではないでしょうか。今の政治のあり方とか社保庁の問題、あるある大辞典や不二家の虚偽報道問題なども、きっと同じ文脈で読み解けるはずだと私は思います。中国等特定国に対して説明するためではなく、我々日本国民が日本国民としてそのことを理解するために、立場や思想を超えて、日本国民の手でやらなくてはならない作業なのだ、と私は思います。