かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

ブロアーで女子中学生のスカートめくりを試みる不審者発生! うちのような田舎町でも湧いてくるものなんですね

2024-04-26 20:17:55 | Weblog
 今朝の奈良市の最低気温は16.2℃、昼の最高気温は20.6℃、五條市の今朝の最低気温は14.2℃、昼の最高気温は19℃でした。今日は朝から曇りでほぼ日差しがなく、日中は少し肌寒さを覚えました。外には出ていませんが、一時雨音が聞こえたので、雨も降っていたようです。結果として天気予報は一昨日の方が当たって昨日のが外れるという珍しいものになりましたが、明日はよく晴れて外は暑くなりそうです。気象庁では奈良の最高気温29℃を予測、初夏を通り越してもう夏ですねこれは。もっとも明後日からはしばらく雨らしいので、なにかするのなら明日のうちに片付けたいところです。

 さて、暖かくなるとおかしなヒトも増えるのか、我が橿原市の一角で、ちょっとした事件があったそうです。日本不審者情報センターというところの奈良県の項目を観てみると、「橿原市によると、24日の午後1時頃、橿原市地黄町で女子中学生へのスカートめくり未遂が発生しました。(実行者の特徴:男性、30〜40歳、作業員風、金髪、ピンク色Tシャツ、作業服下衣)」という記事が。単なる想像でしかありませんが、道路の清掃委託を受けた業者の作業員が、エンジン付きブロアーでゴミを吹き飛ばしていたところへたまたま中学生が通りかかり、偶然かいたずら心を起こしたかしてスカートに強風を送り付けた、ということなのでは? という気がしました。その中学生が、スカート短めのやんちゃなタイプか普通丈の真面目なタイプかにもよりそうですが、なんとなくちょっとしたいたずら心を刺激された、幼な心豊富な作業員だったのではなかろうかとも思います。まあ全てなんの根拠もないただの想像にすぎませんが。しかし、いくら作業用ブロアーが強力な風を送ることができるとはいえ、基本俯角でしか風を送ることができず、それではスカートは翻らないと思うのですが、プロの作業員ならそれなりに自在に風を操れたりするのか? などと益体もないことを考えてしまうような「事件」でした。
 それにしても日本不審者情報センターのデータは、状況がわかったようでよく分からないものが多いような気がします。例えば「女子小学生に暴行」という記事を開いてみると、中年男性が「帰宅途中の女児に後ろから近づき、手のひらを掴んだ」と書いてありました。これで思ったのは、手のひらって、どうやって掴むんでしょうか? 手を掴む、手首を掴む、腕を掴むなどは容易に想像できるのですが、「手のひら」って随分具体的な部位の割に掴み方が想像できないので頭を悩ませます。握手するような感じですかね? でも暴行と呼ばれるような掴み方って一体? 疑問ばかり募ってその危険度や警戒の必要性が今ひとつになってしまうのが歯がゆいです。
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鎌倉時代に失われ、詳細が不明になっていた東大寺東塔の高さが、どうやらほぼ確定したようです

2024-04-26 20:17:55 | Weblog
 今朝の奈良市の最低気温は12℃、昼の最高気温は23.8℃、五條市の今朝の最低気温は10℃、昼の最高気温は22.7℃でした。今日は朝のうちこそ日差しがありましたが、下り坂の天候を意識させるかのように雲が広がって程なく日差しが届かなくなりました。その後も徐々に雲が厚く、空が暗くなっていく様子が伺えましたが、その歩みは遅々として進まず、四国沖から南東に向けて次々雨雲が流れてきて紀伊半島に進んできてますが、雨になっているのはせいぜい五條市あたりまでで、更に20キロほど北の橿原市までは雨雲が届いていません。天気予報も昨日と違い、明日は曇りに変わっていました。どうやら雨は降らないか、降っても大したこと無く上がりそうな感じです。
 
 さて、平安時代末期の源平争乱で焼け落ちた奈良・東大寺の東塔の高さが、ほぼ確定できたという発表が、奈良文化財研究所から出されました。奈良時代、創建当時の東塔は豪壮な七重塔で、その高さについてこれまで100m説と70m説がありました。その塔が焼け落ちたのが治承4年(1180年)の年末に起こった、平智盛、ではなく平清盛の五男、三位中将平重衡による南都焼討ちでのこと。大仏殿他東大寺の堂宇ことごとくを焼き尽くした中に東塔も含まれていたわけですが、その後鎌倉時代に再建されたものの今度は落雷によって消失、以後再建されること無く現代に至っています。奈良文化財研究所では平成30年から東大寺の委託を受け本格的に調査研究を開始、100m説の根拠となった平安時代の書物「朝野群載」の写本に当たり、江戸時代後期の国学者である伴信友が、もともと23丈(約68m)と記されていた箇所を33丈(約100m)に書き直していたことを突き止めました。これが決定打となり、従来の100m説が誤りで、70m説が正しかったと結論づけました。高さとしては随分控えめになりましたが、現存する最も高い京都東寺の五重塔が高さ55mですから、あの勇壮な長めより更に10m以上高い塔がかつて東大寺にあったということに驚かされます。しかし重機も鉄筋も無い奈良時代に、木材と手作業だけで天を衝く大塔を築き上げた昔の人達の能力というのはまさに想像を絶します。奈文研の研究者の手で復元案が提案されていますが、東大寺で東塔再建とかやるんだったら、是非観てみたいと思いました。
 
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